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ファラオ クレオパトラ  作者: momotarou


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第六話 王冠なき女王

挿絵(By みてみん)


ローマからの書簡は、矢のように届いた。


一通。


また一通。


さらに一通。


差出人は、シリア総督マルクス・カルプルニウス・ビブルス。


殺された息子たちの父である。


書簡は、どれも丁重な言葉で始まっていた。


だが、その中身は刃だった。


ビブルスの息子たちは、エジプトで殺された。


犯人を送るだけで、この件が終わると思ってはならない。


女王クレオパトラ七世は、この責任をどのように取るつもりか。


返答次第では、エジプトへ軍を差し向けることもあり得る。


その一文を読んだ時、玉座の間にいた者たちの息が止まった。


ローマの名は遠い。


だが、ローマの軍は遠くない。


父王プトレマイオス十二世は、王座をローマに支えられていた。


そして今、そのローマが、エジプトへ刃を向けようとしている。


クレオパトラは書簡を手にしたまま、しばらく動かなかった。


カリスは青ざめている。


アポロスは、扉の近くで拳を握っていた。


将軍ディオンは、沈んだ顔で女王を見ていた。


「財政官を」


クレオパトラは言った。


「ただちに呼びなさい」


◇


財政官たちは、帳簿を抱えて玉座の間へ入った。


クレオパトラは問う。


「今すぐローマへ差し出せる金は、どれほどあります」


財政官たちは顔を見合わせた。


それだけで、答えは分かっていた。


年長の財政官が、深く頭を下げる。


「申し上げにくいことですが、国庫には十分な余裕がございません」


「父王の借金は」


「まだ重く残っております」


「王室倉庫の穀物は」


「民への配分が始まっております。止めれば、飢えは戻ります」


「税は」


「女王陛下の命により、取り立ての見直しを進めております」


その言葉が、玉座の間に落ちた。


改革は進んでいた。


ほんの少しずつ。


地方では、飢えた村に穀物が届き始めていた。


重すぎる税を見直された土地では、民が畑へ戻り始めていた。


民の暮らしは、少しだけ良くなっていた。


だからこそ、国庫には金がなかった。


クレオパトラは帳簿を見た。


父王が残した借金。


ローマへの恐れ。


民へ回した穀物。


減らした税。


すべてが一本の縄になって、彼女の首を締めていた。


「つまり」


クレオパトラは言った。


「ローマをなだめる金はない」


財政官は頭を下げた。


「はい」


「民への穀物を止めれば、金は作れますか」


「一時的には」


「一時的に、民を飢えさせるということですね」


財政官は答えなかった。


クレオパトラは帳簿を閉じた。


「下がりなさい」


財政官たちは、玉座の間を出ていった。


◇


部屋には、クレオパトラ、カリス、アポロス、将軍ディオンだけが残った。


アポロスが言った。


「女王陛下。ローマの脅しに屈する必要はありません」


「屈しなければ、軍が来ます」


「その時は、我々が戦います」


「何を率いて」


クレオパトラは、アポロスを見た。


「将軍ディオンの兵は少ない。将軍アキラスは兵の心を握り始めています。ガビニアニは、わたくしを憎んでいる」


アポロスは言葉を失った。


将軍ディオンが膝をつく。


「女王陛下。私の命はお使いください」


「あなたの命だけでは、国は守れません」


その言葉には、痛みがあった。


カリスが小さな声で言う。


「では、どうすれば……」


クレオパトラは、窓の外を見た。


青い地中海。


白い石の宮殿。


遠くに並ぶ船の帆。


この都は美しい。


けれど、美しいものほど、ローマの目につきやすい。


「わたくしが王であり続けるには」


クレオパトラは言った。


「エジプトをローマの属国にするしかありません」


カリスが息を呑む。


「女王様……」


「ローマへ金を差し出す。兵を差し出す。港を差し出す。王宮の判断も、ローマの顔色を見て決める」


クレオパトラの声は、かすれていた。


「それは、もう王ではありませんわ」


誰も答えられなかった。


「わたくしが王宮に残れば、ローマへの怒りも、ガビニアニの憎しみも、すべてエジプトへ向かいます」


「ですが」


カリスが震える声で言った。


「女王様が王宮を離れれば……」


「ええ」


クレオパトラはうなずいた。


「王宮は、わたくしを女王として扱わなくなるでしょう」


それでも、彼女は続けた。


「けれど、エジプトをローマに差し出すよりはよいですわ」


アポロスが顔を上げる。


「王宮を出るおつもりですか」


「一時、宮廷を出ます」


「一時……」


「表向きは、地方視察です。上エジプトの穀物、神殿領、税の流れを確認するため、と布告しなさい」


将軍ディオンが問う。


「向かう先は」


「南です」


クレオパトラは答えた。


「ナイルをさかのぼります」


そして、声を落とした。


「亡き母の実家のある、テバイドへ」


テバイド。


アレクサンドリアから遠く離れた、上エジプトの地。


海の都ではない。


ナイルの谷。


神殿。


岩山。


古いエジプトの神々が、まだ息づいている土地。


アレクサンドリアの噂も、ローマの声も、すぐには届かない場所だった。


「そこには、まだわたくしの名を信じる者がいます」


クレオパトラは言った。


「そして、母の血を知る者も」


アポロスは膝をついた。


「お供します」


「もちろんです」


カリスも頭を下げる。


「私も参ります」


「あなたにも来てもらいます」


将軍ディオンは、胸に手を当てた。


「主だった兵をまとめます」


「ええ。ただし、多すぎてはなりません」


クレオパトラは言った。


「逃亡に見えてはならない。あくまで地方視察です」


「承知しました」


その時、扉の向こうから声がした。


「女王陛下」


ポテイノスだった。


◇


ポテイノスは、玉座の間へ入ると深く頭を下げた。


その後ろには、賢者テオドトスがいる。


将軍アキラスの姿はない。


「ビブルス殿からの書簡、拝見いたしました」


ポテイノスは言った。


「早いですね」


クレオパトラは答えた。


「王宮の書簡は、よくあなたの手を通る」


「王子陛下をお守りする身でございますので」


「弟を守る?」


クレオパトラの声に、棘が混じった。


ポテイノスは頭を下げたまま動かない。


賢者テオドトスが口を開いた。


「ローマへの返答は慎重に選ぶ必要がございます」


「もちろんです」


「王宮が一つの声を出さねば、ローマはそこを突くでしょう」


「一つの声」


クレオパトラは、その言葉を繰り返した。


そして言った。


「では、弟に会わせなさい」


ポテイノスの表情が、ほんの少し固まった。


「王子陛下は、まだご体調が」


「会わせなさい」


「女王陛下」


「これは姉としてではありません」


クレオパトラは立ち上がった。


「共同統治者として、王に会うのです」


ポテイノスは黙った。


ここで拒めば、彼自身が王子を隠していると認めることになる。


賢者テオドトスが、すっと頭を下げた。


「短い面会であれば、よろしいのでは」


ポテイノスは、ようやく答えた。


「王子陛下のお身体に障らぬ範囲で」


「案内なさい」


クレオパトラは言った。


◇


プトレマイオス十三世の部屋は、王宮の奥にあった。


扉の前には兵が立っている。


以前よりも増えていた。


クレオパトラが近づくと、兵たちは頭を下げた。


だが、扉が開くまでに間があった。


その間が、彼女にはすべてを語っていた。


弟は、王でありながら、自由ではない。


扉が開く。


部屋の中に、プトレマイオス十三世がいた。


少し痩せて見えた。


だが、彼は姉を見るなり立ち上がった。


「姉上!」


少年は駆け寄ろうとした。


けれど、そばにいた侍従が動く。


それだけで、彼は足を止めた。


クレオパトラは胸が裂けるようだった。


「プトレマイオス」


「姉上、ぼくは病気じゃない」


「分かっています」


「ぼくは、姉上を信じています」


「分かっています」


「なら、どうして会えなかったの」


クレオパトラは答えられなかった。


すべてを話せば、弟の心をさらに傷つける。


何も話さなければ、弟はこの王宮で利用され続ける。


彼女は膝をついた。


女王が。


玉座に座る者が。


弟の前で、膝をついた。


プトレマイオスは息を呑んだ。


「姉上?」


「お願いがあります」


「お願い?」


「この事件は、すべてわたくしの責任だと言いなさい」


少年は首を振った。


「いやです」


「プトレマイオス」


「姉上は悪くない」


「それでも、言うのです」


「いやです!」


少年の声が震えた。


「姉上は、どうされるつもりですか」


クレオパトラの唇が震えた。


けれど、彼女は顔を背けなかった。


「わたくしは、地方へ視察に行きます」


「視察?」


「長い旅になるでしょう」


少年は言葉を失った。


「ぼくを、置いていくの」


「プトレマイオス」


クレオパトラは、弟の肩に両手を置いた。


「わたくしのいない間は、あなたがエジプトの王となるのです」


「ぼくが王に」


少年は首を振った。


「そんなの無理です」


「無理でも、なるのです」


「どうして」


「あなたが王となるしか、エジプトを救えないのです」


クレオパトラは、弟を強く抱きしめた。


その身体は、前より少し大きくなっていた。


けれど、まだ子どもだった。


守られるはずだった少年だった。


「姉上……」


「表向きは、側近たちの言葉を聞きなさい」


「表向き?」


「ええ。逆らえば、あなたはさらに閉じ込められます」


クレオパトラは、弟の手を強く握った。


「けれど、心まで預けてはなりません」


「姉上と戦うことになっても?」


クレオパトラの胸が痛んだ。


「そうです」


少年の顔が歪んだ。


「そんなの、いやだ」


「戦うふりをしてでも、生きなさい」


「ふり……」


「そして覚えるのです。誰がエジプトを見ていて、誰が自分の椅子だけを見ているのかを」


「ポテイノスも?」


クレオパトラは、少しだけ間を置いた。


「ポテイノスだけは、信じてはいけません」


「でも、ポテイノスは、ぼくを守るって」


「守るという言葉で、人は檻を作ることもできます」


少年は黙った。


クレオパトラは続けた。


「あなたも、もう十三歳です」


「十三歳でも、ぼくは姉上みたいにはできない」


「わたくしと同じになる必要はありません」


「じゃあ、どうすればいいの」


「あなたは、あなたの王になりなさい」


少年は、涙を浮かべた。


「姉上がいないなら、ぼくは王になんて」


「なりなさい」


その声は、姉の声ではなかった。


女王の声だった。


「これから、あなたが王となるのです」


少年は震えながら、うなずいた。


「分かりました」


クレオパトラの目から、大粒の涙がこぼれた。


「プトレマイオス」


「はい」


「わたくしの、いとおしい弟」


彼女は弟の頬に手を添えた。


「ここに一人で置いていく姉を、許して」


少年は首を振った。


「姉上、泣かないで」


涙をこらえようとして、こらえきれない顔だった。


「ぼくは王になります」


「ええ」


「姉上のような王になります」


クレオパトラは、弟の手を取った。


かつてより、少し大きくなっていた。


けれど、まだ王の手ではない。


守られるはずだった少年の手だった。


彼女は、弟の額に手を当てた。


「生きるのです」


「はい」


「まず、それだけを考えなさい」


「はい、姉上」


クレオパトラは涙をぬぐった。


そして、女王の顔に戻った。


「王として、わたくしを送り出しなさい」


少年は唇を噛みしめた。


それでも、背筋を伸ばした。


「姉上」


「はい」


「ぼくは、姉上を追い出すんじゃない」


「ええ」


「姉上は、戻ってくる」


「ええ」


「ぼくは、待っています」


「生きて、待っていなさい」


それだけ言うと、クレオパトラは部屋を後にした。


扉が閉じる。


その向こうで、少年の泣き声が聞こえた。


クレオパトラは振り返らなかった。


振り返れば、戻ってしまう。


◇


王宮には布告が出された。


女王クレオパトラ七世は、上エジプトの穀物、神殿領、税の流れを確認するため、地方視察へ向かわれる。


同行するのは、将軍ディオンの兵。


侍女カリス。


アポロス。


そして、女王に従う主だった者たち。


表向きは、政務だった。


だが、王宮の者たちは知っていた。


これは退場である。


ローマの血。


ガビニアニの怒り。


ビブルスの脅し。


ポテイノスの言葉。


将軍アキラスの兵。


それらが、クレオパトラを玉座から押し出したのだ。


ポテイノスは、回廊からその準備を見ていた。


隣には、将軍アキラスがいる。


少し離れた場所に、賢者テオドトスも控えていた。


「女王陛下を、このまま逃がすのですか」


将軍アキラスが言った。


ポテイノスは、出立の列を眺めたまま答えた。


「女王陛下は、自らエジプトのために身を引かれたのです」


「今なら、消せます」


「いけません」


ポテイノスの声は穏やかだった。


「女王陛下を慕う者は、まだ王宮にも民の中にも多い。ここで亡き者にすれば、国が割れます」


賢者テオドトスが口を開いた。


「では、王子陛下には何と?」


「姉君は、国を守るために王宮を出られた」


ポテイノスは答えた。


「ですが、王宮を守るのはあなた様です、と」


賢者テオドトスは、うなずいた。


「美しい言葉です」


ポテイノスは笑みを浮かべた。


「美しい言葉ほど、人を縛ります」


将軍アキラスが、門の方を見た。


「また戻ってきたら?」


「その時は、その時です」


ポテイノスは言った。


「民の希望は、時に民を動かすよい道具になります」


◇


アレクサンドリアの門が開いた。


海風が、白い石の王宮を吹き抜ける。


クレオパトラは振り返った。


そこには、彼女が立った玉座がある。


弟の声が閉ざされた部屋がある。


ポテイノスが笑う回廊がある。


ローマの血が染み込んだ白い道がある。


彼女は王冠を失っていない。


だが、王宮はもう、彼女の声では動かない。


将軍ディオンが馬上から言った。


「女王陛下。出立の準備は整いました」


カリスが輿のそばに控えている。


アポロスは、彼女のすぐ後ろに立っていた。


「行きましょう」


クレオパトラは言った。


「南へ」


一行は進み出した。


地中海の風を背に受け、ナイルへ向かって。


アレクサンドリアの白い宮殿が、少しずつ遠ざかる。


その日、アレクサンドリアには一人の王だけが残った。


プトレマイオス十三世。


そしてクレオパトラは、主だった兵を率い、南のテバイドへ向かった。


亡き母の実家がある地へ。


古いエジプトの神々が、まだ息づいている場所へ。


王冠を持ったまま。


王宮を失った女王として。


アレクサンドリア王宮を、クレオパトラは去った。


逃亡ではない。


けれど、勝利でもなかった。


三年に満たない短い時間の中で、彼女はエジプトに希望の根を植えようとした。


だが、その根が花を開く前に、女王は王宮を離れた。


クレオパトラ、二十一歳。


王冠を持ったまま、王宮を失った年であった。


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