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ファラオ クレオパトラ  作者: momotarou


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第五話 ローマの血

挿絵(By みてみん)


王宮に、ローマの名を背負った若者たちが現れた。


シリア総督マルクス・カルプルニウス・ビブルスの息子たちである。


アレクサンドリア王宮。


謁見の間には、女王クレオパトラ七世が座していた。


幼い王プトレマイオス十三世の姿はない。


王子陛下は、ご病気である。


そう告げられている。


ローマの若者たちは、女王の前で膝をついた。


兄と思われる方が、先に口を開いた。


「女王クレオパトラ陛下。父ビブルスより、エジプト王家へ願いがございます」


「聞きましょう」


「父は、エジプトに残るローマ兵、ガビニアニの召還を求めております」


謁見の間に、かすかなざわめきが走った。


ガビニアニ。


父王プトレマイオス十二世の時代、ローマから来て、そのままエジプトに根を張った兵たち。


ローマ兵でありながら、エジプトで妻を得て、子をなしている者たちもいた。


「パルティアへの備えのため、兵が必要です。父は、彼らの帰還を命じています」


クレオパトラは窮地に追い込まれていた。


父王が残したローマへの借金。


拒むことはできない要請だった。


だが、すべてを受け入れることもできない。


「すべてのガビニアニを引き渡すのは無理です。すでに彼らは、この地に根を下ろしています」


ビブルスの息子は、顔を上げた。


「女王陛下。私は子どもの使いではありません。彼らはもとはローマ兵です。エジプトの民ではありません」


宮廷に沈黙が落ちた。


誰もが、この件には触れようとしない。


ポテイノスも、この場にはいなかった。


王子陛下の面倒を見ると言い、早々に引き上げていた。


クレオパトラは、短く息を吸った。


「シリア総督の意はくみ取りましょう。しかし、すぐには無理です。引き渡せる者の調査は始めます」


「女王クレオパトラ陛下の英断に、わが父ビブルスも喜ぶでしょう」


ビブルスの息子は、礼儀正しく頭を下げた。


「半月ほど待ちます。それまでに解決をお願いいたします」


言葉は丁重だった。


だが、クレオパトラに拒否権がないことを、彼らはよく分かっていた。


「分かりました」


謁見が終わり、ビブルスの息子たちは退出した。


その足音が遠ざかると、クレオパトラは側近の将軍ディオンを呼んだ。


「将軍ディオン」


「はい、女王陛下」


「ガビニアニへ、ビブルス殿の召還命令を伝えなさい。ただし、強制ではありません。帰還に応じる者には褒美を出す、と伝えなさい」


「承知しました。少しでも多くの兵をローマへ返せるよう、手配いたします」


ディオンは迷わず頭を下げた。


◇


謁見の場の様子を、うかがわせている者たちがいた。


王宮の奥の部屋に、ポテイノス、賢者テオドトス、将軍アキラスが集まっていた。


「強制ではなく、褒美を出すとは。気前の良い女王陛下だ」


将軍アキラスが言った。


ポテイノスは、やわらかく笑みを浮かべた。


「褒美で命を賭ける者は少ないでしょう。けれど、このままガビニアニをローマへ渡すのは、我らにとって痛手となります」


賢者テオドトスも、ポテイノスを見た。


「どうされるおつもりですか」


ポテイノスは、穏やかな声で答えた。


「危機は、好機に変えられるものです」


そして、二人に顔を寄せた。


短い言葉だった。


だが、十分だった。


将軍アキラスの口元に笑みが浮かぶ。


賢者テオドトスは、顔を伏せた。


そして、一歩下がった。


「私は、何も聞いておりません」


そうつぶやきながら、その場を立ち去った。


◇


ビブルスの息子たちは、王宮で丁重な接待を受けていた。


ある夕方、ポテイノスが彼らの屋敷を訪ねてきた。


「王宮の中だけでは、ご退屈でしょう」


ポテイノスは、深く頭を下げた。


「美しい娘がそろっている場所があります。ご案内いたしましょうか」


ビブルスの息子たちは顔を見合わせた。


そして、若い笑みを浮かべた。


「ポテイノス殿、エジプトは素晴らしい所ですね。それでは、お願いいたします」


白い布で覆われた二つの輿が、賓客の泊まる白い石造りの屋敷の前に用意されていた。


担ぎ手たちの身なりも整えられている。


「ポテイノス殿は来られないのですか」


「宦官の私には、そのような場所は不釣り合いですので」


「はは、それは、そうでしたね」


輿が進み出す。


ポテイノスは、笑みを浮かべたまま深くお辞儀をした。


だが、二人が連れていかれた場所に、美しい娘はいなかった。


そこにいたのは、将軍アキラスに扇動されたガビニアニ兵たちだった。


「お前たちが、俺たちを前線に送り、戦わせようとしている者か!」


十名ほどのガビニアニ兵が、輿を取り囲む。


ビブルスの息子たちは、慌てて外へ出た。


「そのようなことはない。私たちはシリア総督ビブルスの息子である」


「シリア総督ビブルス? そんな者は知らない」


兵の一人が唾を吐く。


「俺たちはエジプトの兵だ。ローマの兵ではない」


「分かった。そなたたちはエジプトの兵だ。この地に残ってよい」


若い声が震えていた。


「だから、剣を収めよ」


「そんな言葉に騙されるか」


別の兵が叫んだ。


「こいつらがいなくなれば、俺たちはエジプトに残れる」


そうだ。


そうだ。


声が重なった。


剣が高く上がる。


白い上等な衣を着た青年二人は、地面の上で身を寄せ合った。


その周りを、ガビニアニ兵たちが取り囲む。


そして、扇動していた男が剣を振り下ろした。


一度。


二度。


白い衣が、赤く染まった。


周りのガビニアニ兵たちが凍りつく。


殺してもよかったのか。


本当に、これでよかったのか。


その戸惑いが広がった時、剣を振り下ろした男の姿は、もうそこにはなかった。


すぐに、将軍アキラスの兵たちが周囲から集まってきた。


「捕らえよ」


兵たちが、ガビニアニを押さえつける。


「俺たちは殺していない!」


「殺した奴は逃げた!」


「俺たちは違う!」


将軍アキラスの兵は、冷たく言い放った。


「シリア総督ビブルスの息子たちの亡骸を前に、そのような嘘が通るとでも」


「捕らえよ。牢に入れろ。殺すな」


十数名のガビニアニ兵が、縄をかけられ、引き立てられていった。


◇


報せは、王宮へ駆け込んできた。


「ビブルスの息子たちが殺されました!」


伝令の声は裏返っていた。


カリスが口元を押さえる。


アポロスの手が剣の柄に触れる。


クレオパトラは立ち上がった。


「犯人は」


「ガビニアニです」


部屋に沈黙が落ちた。


ローマの総督の息子たちが、エジプトで殺された。


それは、ただの殺人ではない。


国の首にかかった鎖が、音を立てて締まる出来事だった。


「将軍ディオンを呼びなさい」


クレオパトラは命じた。


「それから、ポテイノス、賢者テオドトス、将軍アキラスも」


◇


四人は、玉座の間に集められた。


将軍ディオンは、女王の前で膝をついた。


「申し訳ございません。私も状況をつかめておりません。まだ説得中でした。半数以上は、帰還に応じさせられる見込みでした」


「立ちなさい、ディオン」


クレオパトラは言った。


「責めるために呼んだのではありません」


ディオンは立ち上がった。


ポテイノスは、深く頭を下げる。


「痛ましいことでございます」


賢者テオドトスも頭を下げた。


「まことに、言葉を失います」


将軍アキラスは、ことの成り行きを語った。


「ビブルスの息子たちが、ガビニアニを説得すると聞きつけ、急いで向かいましたが、一歩遅れました。申し訳ありません」


そして、顔を上げる。


「しかし、手を下した者たちは牢に入れております。十二名の、ガビニアニの若き兵です」


「息子たちを殺せば前線に送られずに済むと考え、おびき出したとのことでした」


将軍ディオンが、将軍アキラスをにらんだ。


「そのような重要な動きを、なぜ私に知らせなかった」


将軍アキラスは答えない。


代わりに、ポテイノスが間に入った。


「事件は起こりました。今は、その対処を考えるのが肝要かと」


彼は、クレオパトラの方を見ていた。


クレオパトラは、ポテイノスを見た。


「ポテイノス。あなたはエジプトを破滅へ導きたいのですか」


ポテイノスは、眉一つ動かさない。


「そのようなことを言われましても、私には何のことやら」


「ビブルスの息子たちが、エジプトで殺された」


クレオパトラの声が震えた。


怒りか。


恐れか。


その両方だった。


「エジプトは得をしますか。さらに窮地へ追い込まれるだけです」


ポテイノスは黙っている。


「そして、その責めは、わたくしが負うことになります」


将軍アキラスの口元が、わずかに動いた。


クレオパトラは、それを見逃さなかった。


「ガビニアニの兵たちには、将軍アキラスの英断と映るでしょう。自分たちは戦地へ送られずに済む、と」


アキラスは何も言わない。


クレオパトラは、ポテイノスへ視線を戻した。


「弟を病気と偽り、さらに、このような汚い手を使うとは」


その声は、玉座の間に響いた。


「あなたに、エジプトの誇りはないのですか」


ポテイノスは、深く頭を下げた。


「女王陛下。ご心痛は分かりますが、そのように私を責められても困ります」


「あなたの本性は分かりました」


クレオパトラは、息を吐いた。


「この件は、よく考えます」


そして、衛兵へ命じた。


「この者たちを退出させなさい」


ポテイノス、賢者テオドトス、将軍アキラスは下がっていった。


将軍ディオンだけが、最後まで玉座の前に残った。


だが、クレオパトラは何も言わなかった。


やがて、ディオンも頭を下げ、退出した。


玉座の間に残ったのは、クレオパトラ、カリス、アポロスだけだった。


クレオパトラは、玉座に崩れるように座った。


アポロスが、心配そうに声をかける。


「女王陛下。気を強くお持ちください」


彼の手が剣へ伸びる。


「ポテイノスは、私が始末します」


カリスが震える手で口元を押さえた。


「どうすればよいのでしょうか……」


クレオパトラは、崩れたままの姿勢でつぶやいた。


「アポロス。やめなさい」


「ですが」


「あなたが死ぬだけです。ポテイノスは、手練れを常に連れています」


アポロスは、唇を噛んだ。


クレオパトラは、玉座の肘掛けに指を置いた。


「犯人は牢にいる」


その声は、かすれていた。


「詫び状と共に、犯人をシリア総督ビブルスへ送ることしかできません」


カリスが泣きそうな顔で女王を見た。


「それで、ローマは……」


「ローマは、わたくしを疑うでしょう」


クレオパトラは答えた。


「王宮で、わたくしの命に従う者はいなくなるでしょう」


彼女は、ゆっくりと弟の名を呼んだ。


「プトレマイオス」


玉座の間に、その名だけが落ちた。


「わたくしの、いとおしい弟」


「わたくしは、あなたを守ることも、エジプトを守ることも、できなくなりました」


「愚かな姉を、許してください」


クレオパトラは、玉座の上で横へ崩れた。


王冠をいただく女王ではなく、弟を守れなかった一人の姉として。


その時、彼女は初めて、大粒の涙を流した。


ローマの血は、クレオパトラの改革を赤く染めていった。

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