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ファラオ クレオパトラ  作者: momotarou


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第四話 閉ざされた声

挿絵(By みてみん)


祝宴の後、王宮の空気は変わっていた。


廊下を歩く書記たちは、声をひそめて語り合う。


「王子陛下は、姉君を心から称えておられた」


「まだ幼いが、王の器をお持ちだ」


「二つの玉座が並ぶ姿は、悪くなかった」


神官たちは沈黙しながら、その言葉を聞いていた。


財政官たちは、誰につくべきかを計算していた。


兵たちは、祝宴の夜に掲げた杯を思い出していた。


若き王に。


プトレマイオス王に。


その声は、まだ小さい。


けれど、小さな声ほど、王宮の壁に染み込みやすい。


クレオパトラは、それを知っていた。


だからこそ、急がなければならなかった。


◇


王宮の政務室には、夜になっても灯がともっていた。


机の上には、帳簿が積まれている。


穀物の収穫。


税の取り立て。


神殿領の収入。


地方長官からの報告。


王室の独占事業。


そして、父王が残したローマへの借金。


一つ一つの数字が、エジプトの傷口のように並んでいた。


クレオパトラは、そのすべてに目を通していた。


そばにはカリスが控えている。


少し離れた場所には、アポロスが立っていた。


書記たちは、息を殺すように筆を握っている。


「この倉庫の穀物は、どこへ消えたのです」


クレオパトラが問う。


財政官の一人が、顔をこわばらせた。


「地方長官より、神殿への供出分として報告が……」


「その神殿からは、届いていないと返答が来ています」


財政官は黙った。


クレオパトラは、別の帳簿を開く。


「こちらの税も同じです。民からは取られている。けれど、王宮へ届くころには半分になっている」


部屋の空気が重くなる。


「誰かが、ナイルの恵みを途中で飲んでいるのです」


その声は静かだった。


だが、誰も言い返せなかった。


「このままでは、飢えた民にさらに税をかけるだけになります」


クレオパトラは、書記へ視線を向けた。


「命令文を作りなさい」


「はい」


書記が筆を構える。


「地方長官へ。穀物の流れを再調査すること。王宮への納入量、神殿への供出量、民から徴収した税の数を、すべて照合すること」


筆が走る。


「財政官へ。王室の倉庫を開き、飢えの深い地域へ穀物を送る準備をすること」


カリスの表情が、少し明るくなる。


だが、アポロスは別のものを見ていた。


書記の筆。


命令文の冒頭。


そこに記される名。


女王クレオパトラ七世の命により。


アポロスは低く言った。


「女王様」


「何です」


「王子陛下のお名は」


部屋の中が静まった。


書記の筆も止まる。


クレオパトラは、しばらく何も言わなかった。


やがて、静かに答えた。


「入れません」


カリスが息を呑む。


「女王様……」


「弟の名を、ポテイノスに使わせてはなりません」


クレオパトラの声は乱れなかった。


「弟はまだ幼い。あの子の名で命令を出せば、責任はあの子にもかかります」


「ですが、王宮の者たちは」


カリスは不安そうに言った。


「女王様が、王子陛下の名を消したと思うのではありませんか」


「思わせる者が出るでしょう」


クレオパトラは、ゆっくりとうなずいた。


「けれど、あの子の名があれば、ポテイノスはそれを王命として使います」


アポロスは黙って聞いていた。


「王子陛下を守るために、名を外すのですね」


「ええ」


クレオパトラは、帳簿の上に手を置いた。


「弟の名は、弟自身のものです。ポテイノスの印章にしてはなりません」


書記たちは顔を見合わせた。


その決断が、どれほど危ういものか、誰もが分かっていた。


文書に記された名は、力になる。


文書に記されなかった名は、疑いになる。


だが、クレオパトラは迷わなかった。


「書きなさい」


書記は、再び筆を取った。


女王クレオパトラ七世の命により。


その文は、王宮の中を静かに走り出した。


◇


文書は、すぐにポテイノスの手に渡った。


薄暗い部屋。


机の上に広げられた命令文。


ポテイノスは、そこに記された名を見ていた。


女王クレオパトラ七世。


ただ、それだけだった。


将軍アキラスが腕を組む。


「弟王の名がない」


「ええ」


ポテイノスは静かに答えた。


「ありません」


賢者テオドトスが、文書をのぞき込んだ。


そして、ゆっくりと笑った。


「真意など、文書には残りません」


彼は、指先で文字をなぞる。


「残るのは、書かれた名と、書かれなかった名だけです」


将軍アキラスが顔を上げる。


「使えるのか」


「使えます」


ポテイノスは答えた。


「女王陛下は、我らに言葉をくださいました」


「どの言葉だ」


「弟王の名がない、という言葉です」


ポテイノスは、文書を丁寧に折りたたんだ。


「女王陛下は、王子陛下を守るために名を外したのでしょう」


賢者テオドトスが微笑む。


「ですが、人は心を読みません。文字を読みます」


「その通りです」


ポテイノスは、ゆっくりと立ち上がった。


「では、王子陛下にも読んでいただきましょう」


◇


プトレマイオス十三世は、部屋の中で姉への贈り物を選んでいた。


祝宴で姉が喜んでくれた。


そう信じていた。


小さな箱の中には、青い石が入っている。


ナイルの色に似た石だった。


「姉上に似合うかな」


少年は、そばにいた侍従へ聞いた。


侍従は困ったように微笑むだけだった。


そこへ、ポテイノスが入ってきた。


その後ろには、賢者テオドトスが控えている。


「王子陛下」


「ポテイノス。見て。姉上にあげようと思って」


少年は、青い石を見せた。


ポテイノスは深く頭を下げる。


「美しい石でございます。女王陛下も、きっとお喜びになるでしょう」


「そうかな」


「はい」


ポテイノスは、そこで静かに表情を改めた。


「ただ、王子陛下にご確認いただきたい文書がございます」


「文書?」


「女王陛下より出された命令文でございます」


ポテイノスは、折りたたんだ文書を差し出した。


プトレマイオス十三世は、慣れない手つきでそれを受け取る。


そして、読んだ。


女王クレオパトラ七世の命により。


少年は、しばらく黙っていた。


ポテイノスが柔らかく言う。


「王子陛下のお名が、ございません」


賢者テオドトスが続ける。


「宮廷の者たちは、これを見て何と思うでしょうか」


プトレマイオス十三世は、文書から顔を上げた。


「それでいい」


ポテイノスの笑みが止まった。


「それで、よいと?」


「うん」


少年は文書を握りしめた。


「姉上が決めたことだ。ぼくは、姉上を信じている」


「しかし、王子陛下」


「ぼくは言った。姉上の邪魔をしてはならないって」


その声は震えていた。


けれど、確かに彼自身の声だった。


「これは、王の命令だ」


部屋に沈黙が落ちた。


賢者テオドトスが、ポテイノスを見た。


将軍アキラスがいれば、きっと力で押し切ろうとしただろう。


だが、ここには剣はない。


あるのは、言葉だけだった。


ポテイノスは、ゆっくりと頭を下げた。


「王子陛下のお心は、よく分かりました」


少年はほっと息をついた。


「なら、姉上に会わせて」


ポテイノスは答えなかった。


「姉上に言わないと。ぼくは怒ってないって。ぼくは、姉上を信じているって」


「王子陛下」


ポテイノスの声は、これまでよりも柔らかかった。


柔らかすぎるほどだった。


「少し、お顔の色がすぐれません」


「え?」


「お疲れなのでしょう。祝宴もございました。慣れぬ政務も続いております」


「ぼくは疲れてない」


「いいえ。ご無理はいけません」


賢者テオドトスも静かに言う。


「王とは、体も国の一部でございます。お身体を休めることも、王の務めです」


「ぼくは病気じゃない」


少年は文書を握ったまま首を振った。


「姉上に会わせて」


ポテイノスは、侍従へ目配せした。


侍従たちが、静かに近づく。


「王子陛下。どうかお部屋へ」


「ここがぼくの部屋だ」


「奥のお部屋でございます。より静かで、よくお休みになれます」


「いやだ」


少年の声が大きくなった。


「ぼくは、姉上に会う」


「回復されてからにいたしましょう」


「病気じゃない!」


その声が、部屋の中に響いた。


ポテイノスは、悲しそうな顔をした。


「ご自覚がないほど、お疲れなのです」


「違う!」


プトレマイオス十三世は、文書を胸に抱えた。


「ぼくは姉上を信じてる。姉上はぼくを消してない。ぼくを守るためにしたんだ」


賢者テオドトスが静かに言った。


「そうかもしれません」


「そうだよ!」


「だからこそ、王子陛下にはお休みいただかねばなりません。今のままでは、そのお心が女王陛下に利用されると考える者も出るでしょう」


少年は、言葉を失った。


その隙に、侍従たちが彼を囲む。


乱暴ではない。


誰も腕をねじ上げない。


誰も怒鳴らない。


ただ、丁寧に道をふさぐ。


それが、かえって恐ろしかった。


「姉上に会わせて」


少年の声が、少しずつ小さくなる。


「これは、王の命令だ」


ポテイノスは深く頭を下げた。


「王子陛下のご回復を、第一に考えます」


その言葉は、命令への返答ではなかった。


拒絶だった。


◇


その知らせは、まず侍従たちの間に流れた。


王子陛下は、ご体調がすぐれない。


次に、書記たちへ。


しばらく政務をお休みになられる。


やがて、神官へ。


面会は控えるように。


そして、財政官と兵たちへ。


女王陛下との面会も、回復されてからとなる。


その知らせは、丁寧な言葉で包まれていた。


だからこそ、誰もすぐには疑わなかった。


カリスがその知らせを聞いた時、顔色を変えた。


「女王様」


クレオパトラは、書簡を受け取った。


そこには、整った文字で書かれていた。


王子陛下、ご病気につき、面会は控えられたし。


クレオパトラは、しばらく黙っていた。


アポロスが一歩近くへ寄る。


「女王様」


「病気ではありません」


静かな声だった。


「王子陛下に、何か?」


「弟は、わたくしに会おうとしたのでしょう」


カリスが口元を押さえる。


「では……」


「会わせないためです」


クレオパトラは、書簡を机に置いた。


その指先は、かすかに震えていた。


けれど、声は乱れない。


「あの子は裏切っていません」


アポロスは、強くうなずいた。


「ええ」


「裏切らなかったから、閉じ込められたのです」


部屋の空気が凍った。


クレオパトラは、すぐに立ち上がった。


「弟の部屋へ行きます」


◇


王宮の奥へ進むほど、空気は冷たくなった。


白い回廊。


閉ざされた扉。


見張りの兵。


普段なら開いているはずの通路に、今日は人が立っている。


アポロスは、兵の配置を見ただけで理解した。


これは看病ではない。


封鎖だ。


クレオパトラは、弟の部屋の前に立った。


「開けなさい」


見張りの兵が、深く頭を下げる。


「申し訳ございません。王子陛下はご病気にて」


「開けなさい」


「ご面会は控えるようにと」


「誰の命令です」


兵は答えない。


その沈黙こそが答えだった。


ポテイノス。


クレオパトラは、扉を見た。


厚い木の扉。


その向こうに、弟がいる。


「プトレマイオス」


彼女は呼んだ。


返事はない。


だが、かすかに音がした。


何かが動く音。


小さな足音。


そして、扉の向こうから声が聞こえた。


「姉上?」


カリスが息を呑んだ。


アポロスの手が、剣の柄へ近づく。


「姉上、そこにいるの?」


クレオパトラは扉に手を置いた。


「ここにいます」


向こう側で、少年が扉に駆け寄る気配がした。


「ぼくは病気じゃない」


その声は震えていた。


「ぼくは、姉上を信じている。ぼくは、姉上と争わない」


クレオパトラは、泣かなかった。


ここは王宮だった。


見張りがいる。


ポテイノスの目がある。


女王が崩れれば、それもまた利用される。


「分かっています」


「姉上、開けて」


少年が扉を叩く。


小さな音だった。


けれど、クレオパトラの胸には、槍のように刺さった。


「ぼくは命令した。姉上の邪魔をするなって。なのに、誰も聞かない」


クレオパトラは、拳を握った。


「プトレマイオス」


「うん」


「あなたは、間違っていません」


扉の向こうで、少年が息を止める。


「本当?」


「ええ」


クレオパトラは静かに言った。


「あなたの声は、あなたのものです。誰にも奪わせてはなりません」


「でも、届かない」


少年の声が崩れた。


「ぼくの声、誰にも届かない」


「届かせます」


「姉上……」


「必ず」


その時、回廊の奥から足音が近づいた。


ポテイノスだった。


彼は深く頭を下げる。


「女王陛下。王子陛下のお身体に障ります」


「病気ではありません」


クレオパトラは振り返った。


「あなたが閉じ込めたのです」


ポテイノスは、悲しげに首を振った。


「滅相もございません。我々は、王子陛下をお守りしているだけでございます」


「守る?」


「はい」


ポテイノスの声は穏やかだった。


「女王陛下の強いご意志の中で、王子陛下はお疲れになっておられます。しばらくお休みいただくのが、最善かと」


「弟の声を奪っておいて、守ると言うのですか」


「王子陛下のご意志は、我々が大切にお預かりいたします」


クレオパトラは、ポテイノスを見たまま黙った。


その言葉の意味を、彼女は理解した。


預かる。


つまり、奪うということだ。


扉の向こうから、少年の声がした。


「ポテイノス! ぼくは姉上に会う!」


ポテイノスは、扉へ向かって深く頭を下げた。


「王子陛下。どうかお静かに。ご病状が悪くなります」


「病気じゃない!」


「お休みくださいませ」


そこで、扉の向こうの声が遠ざかった。


誰かに連れていかれたのかもしれない。


それとも、部屋の奥へ下がらされたのかもしれない。


クレオパトラは、もう一度扉に手を置いた。


「プトレマイオス」


返事はなかった。


◇


その日から、弟の声は王宮で聞こえなくなった。


代わりに、弟の名だけが歩き始めた。


王子陛下は、ご病気である。


王子陛下は、静養を望まれている。


王子陛下は、女王陛下との面会を控えられている。


王子陛下は、王宮の安定を望まれている。


それは、すべて丁寧な言葉だった。


だが、そのどれもが、弟自身の声ではなかった。


クレオパトラは、政務室に戻った。


机の上には、まだ多くの帳簿が残っている。


飢えた民。


滞った穀物。


父王の借金。


ローマの影。


そして、閉ざされた弟の声。


カリスは、涙をこらえていた。


アポロスは、扉の方を見たまま動かない。


「女王様」


彼は低く言った。


「これは、もう政争ではありません」


「ええ」


クレオパトラは答えた。


「弟の名が盗まれました」


その声は静かだった。


静かすぎるほどだった。


「王プトレマイオス十三世」


彼女は、その名を口にした。


「その名は、あの子のものです」


誰も答えなかった。


「けれど、今その名を使っているのは、あの子ではない」


窓の外では、夜の海が黒く沈んでいた。


弟は姉を裏切らなかった。


だから、声を奪われた。


クレオパトラは、机の上の命令文を見た。


女王クレオパトラ七世の命により。


そこに弟の名はない。


その空白は、弟を守るためのものだった。


だが、ポテイノスはその空白に、別の意味を流し込もうとしている。


クレオパトラは、静かに筆を取った。


「アポロス」


「はい」


「王宮の者たちの後ろ姿を、さらによく見ていなさい」


「承知しました」


「カリス」


「はい、女王様」


「弟の部屋へ通じる道を調べなさい。侍女たちの出入り、食事、薬、すべてです」


カリスは涙を拭い、深くうなずいた。


「はい」


クレオパトラは、最後にもう一度、弟の名を思った。


プトレマイオス。


わたくしの弟。


あなたはまだ、わたくしを信じている。


だから、わたくしも諦めない。


王宮の奥で、幼い王の声は閉ざされた。


だが、クレオパトラの戦いは、まだ終わっていなかった。


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