第三話 祝宴の罠
ヘルモンティスからの報せは、王宮へ届いていた。
聖なるブキス牛の儀式。
神官たちは、若き女王を丁重に迎えた。
岸辺には、クレオパトラ七世の姿を一目見ようと、多くの民が集まったという。
女王は、エジプトの神々の前に頭を垂れた。
女王は、民の前に立った。
女王は、王宮に閉じこもるだけの支配者ではなかった。
「民が、女王陛下を見ようと群がっております」
書記が、低い声で報告した。
王宮の奥。
薄暗い部屋の中で、ポテイノスは静かに聞いていた。
机の上には、各地から届いた書簡が並んでいる。
市場。
港。
神殿。
地方長官。
どの報せにも、同じ名があった。
クレオパトラ。
クレオパトラ七世。
若き女王の名が、王宮の外へ広がり始めていた。
「女王陛下は、エジプトの言葉で語られたそうです」
書記が続ける。
「エジプトの神々を軽んじず、王として立たれた、と」
部屋の奥で、将軍アキラスが腕を組んだ。
王宮の軍を動かす将軍である。
広い肩。
硬い腕。
剣を持たずとも、そこにいるだけで兵の気配をまとっている男だった。
「民の声など、長くは続かん」
「続かぬ声もあれば、火を広げる声もあります」
そう言ったのは、賢者テオドトスだった。
王子の教育係。
そして、大局を読むことに長けた男である。
彼はいつも、相手が聞きたい言葉だけを選んで並べた。
どちらが正しいかではなく、どちらに自分の居場所があるかを読む男だった。
その言葉は甘く、正しく、そして危うい。
「女王陛下は、よい言葉をお持ちです。民は言葉に酔います」
ポテイノスは、指先で机を軽く叩いた。
一度。
二度。
三度。
「エジプトの希望。女王陛下は、あまりにも賢すぎる」
静かな声だった。
「あの若さでここまで成し遂げられるとは。甘く見ていたようです」
将軍アキラスは黙ってポテイノスを見た。
ポテイノスは、机の上の書簡へ視線を落とす。
「沈んだ民が求めているのは、この国を再び導ける英雄です」
「エジプトの言葉で民の前に立ち、希望という言葉を使う」
「まさに、エジプトを救える王の器」
薄暗い部屋の中で、ポテイノスは小さく笑った。
「クレオパトラ。美しく、気高く、そして王の器を持つ女王」
そこで一度、言葉を切る。
「私が宦官でなければ、心まで捕らわれていたかもしれぬ」
将軍将軍アキラスが、呆れたようにポテイノスを見た。
「ポテイノス殿。このまま女王陛下に従われるつもりか」
ポテイノスは首を振った。
「クレオパトラは、排除するしか手はないでしょう」
その声は、驚くほど静かだった。
「いずれ我らに刃を向けるお方です」
賢者テオドトスが、おそるおそる口を開いた。
「どのように止めるのですか。力で止めるのは愚策と思いますが」
将軍アキラスが語気を強める。
「力で止めるのが愚策とは。この世は力が正義なのだ」
ポテイノスは、両手で二人を制した。
「力を使うのは今ではありません」
そして、穏やかに笑う。
「今は、女王陛下の名声を使わせてもらいましょう」
将軍アキラスと賢者テオドトスが顔を見合わせた。
「名声を使うとは?」
ポテイノスは二人を近くへ招いた。
そして、静かに耳打ちした。
◇
プトレマイオス十三世は、心から姉を信じていた。
広い部屋の中で、彼は小さな木の駒を並べていた。
王。
兵。
敵。
戦の遊びだった。
けれど、どの駒を動かせばよいのか、彼には分からない。
扉の外で声がした。
「ポテイノスでございます」
「入って」
幼い王は顔を上げた。
ポテイノスは深く頭を下げて入ってきた。
その後ろには、賢者テオドトスが控えている。
「王子陛下。ヘルモンティスより、喜ばしい報せが届いております」
「姉上のこと?」
少年の顔が明るくなった。
「はい。女王陛下は、神々と民の前で、見事に王としてのお姿を示されました」
「そうなんだ」
プトレマイオス十三世は、本当に嬉しそうに笑った。
「姉上のその姿を見たかったな」
その無垢な声を、ポテイノスは黙って聞いていた。
「姉上は、ぼくの誇りだ」
少年は、木の駒をそっと置いた。
「ポテイノス、ぼくは姉上とは争わない」
「はい」
「姉上の邪魔をしてはならない。これは、王の命令だ」
ポテイノスは、丁重に頭を下げた。
「王子陛下、心得ております。わたくしにお任せください」
少年は、安心したようにうなずいた。
その顔を見ながら、ポテイノスはやわらかく言った。
「ならば、王子陛下が女王陛下を祝って差し上げてはいかがでしょう」
「ぼくが?」
「はい。弟として」
プトレマイオス十三世の目が丸くなる。
「姉上を祝うの?」
「ええ。女王陛下は、きっとお喜びになります」
少年の顔がぱっと輝いた。
「それなら、やりたい」
「では、祝宴を開きましょう」
ポテイノスは、静かに頭を下げた。
「王子陛下が主催する、女王陛下のための祝宴でございます」
「姉上、喜んでくれるかな」
「もちろんでございます」
賢者テオドトスが穏やかに言った。
「姉君の功績を心から称える王など、そう多くはおりません。王子陛下のお優しさは、宮廷の皆の胸を打つでしょう」
「宮廷の皆?」
「はい」
ポテイノスは答える。
「神官、財政官、将軍、書記、地方長官。皆に見てもらうのです。姉上を称える、あなた様のお姿を」
少年は、少し不安そうにした。
「ぼく、うまく言えるかな」
「短くてよいのです」
ポテイノスは優しく言った。
「ただ、心からおっしゃればよろしい」
「心から……」
「姉上を信じている、と」
その言葉に、少年はうなずいた。
「それなら言える」
プトレマイオス十三世は、小さく拳を握った。
「ぼくは、姉上を信じている」
それは、彼自身の本心だった。
ポテイノスは深く頭を下げる。
「まことに、姉思いの王であらせられます」
少年は照れたように笑った。
その笑顔は、あまりにも無防備だった。
◇
祝宴の準備は、すぐに始まった。
王宮の大広間に灯がともされる。
白い柱には布がかけられ、金の杯が並べられた。
神官。
財政官。
書記。
地方長官。
王の友人たち。
軍の者たち。
誰もが、これは女王を祝う宴だと聞かされていた。
だが、大広間に入った者たちは、まず足を止めた。
中央に、二つの玉座が置かれていた。
一つは、クレオパトラのため。
もう一つは、プトレマイオス十三世のため。
同じ高さ。
同じ飾り。
同じ光を受ける場所。
アポロスは、その配置を見て、不穏な気配を感じた。
「……玉座が、二つある」
カリスが振り向く。
「アポロス様、二人の王なのですから、問題があるのですか?」
「問題はない」
アポロスは、二つの玉座から視線を離さなかった。
「だが、裏でポテイノスが動いている。何か仕掛けてくるはずだ」
「この祝いの何がいけないのですか」
カリスが、不安そうに言った。
「最後まで見れば分かる」
アポロスは低く答えた。
「断れない宴だ。女王様の逃げ場がない」
その時、大広間の奥から声が上がった。
「女王陛下のお成りです」
クレオパトラが入ってきた。
白と金の衣をまとい、黒い髪を静かに結い上げている。
その顔には疲れがあった。
だが、王としての表情は崩れていない。
宮廷の者たちは、一斉に頭を下げた。
「女王陛下」
クレオパトラは歩みを止めなかった。
彼女の視線が、中央の玉座へ向かう。
二つ。
ほんの一瞬、広間の奥にいるポテイノスを見た。
《ポテイノス。あなたは、わたくしと道を共にできないのですね》
だが、声には出さなかった。
弟が姉を祝う宴。
それを壊せば、傷つくのは弟だ。
クレオパトラは、黙って玉座の前に立った。
少し遅れて、プトレマイオス十三世が入ってくる。
小さな体に、立派すぎる衣が着せられていた。
重そうな首飾り。
大きすぎる腕輪。
それでも彼は、姉の姿を見ると嬉しそうに笑った。
「姉上」
クレオパトラは、わずかに表情をやわらげた。
「プトレマイオス」
その声は、姉のものだった。
ポテイノスが進み出る。
「本日は、女王クレオパトラ七世陛下のヘルモンティスにおけるご威光を祝うため、王宮の者たちが集いました」
丁寧な声だった。
「女王陛下は、エジプトの神々の前に立たれ、民の前に王としてのお姿を示されました」
広間に感嘆が広がる。
「まことに、見事なご行動でございます」
クレオパトラは黙って聞いていた。
ポテイノスは彼女を褒めている。
少しも責めていない。
だからこそ、罠だった。
「そして」
ポテイノスの声が、わずかに向きを変える。
「その女王陛下のご成功を、誰よりも喜ばれている方がおられます」
広間の視線が動いた。
幼い王へ。
プトレマイオス十三世へ。
「弟王、プトレマイオス十三世陛下でございます」
少年は、照れたように背筋を伸ばした。
ポテイノスは深く頭を下げる。
「王子陛下は、姉君の功績を妬まれません。むしろ、心から称え、祝おうとなさっておられます」
賢者テオドトスが静かに言葉を重ねた。
「若き王が、姉君の栄光を喜ぶ。これは、ただの優しさではございません」
その声は、よく通った。
「自らの名誉より、国の安定を重んじる心。身内の功績を妬まず、称える度量。これは、名君に必要な器でございます」
ざわり、と大広間が揺れた。
「名君……」
誰かがつぶやいた。
賢者テオドトスは、その小さな声へ微笑みを返す。
拾うべき言葉を、彼は聞き逃さない。
「ええ。プトレマイオス十三世陛下は、まだお若い。けれど、若さとは欠点ではありません。正しく導かれれば、若さは未来となるのです」
その言葉に、財政官たちが顔を見合わせた。
神官たちが沈黙した。
書記たちが、筆を取る。
将軍アキラスは、壁際に立つ兵たちへ視線を流した。
ただ、それだけだった。
だが将軍将軍アキラスの護衛兵たちは、すぐに杯を持ち上げた。
「プトレマイオス王に」
一人が言った。
続いて、別の者が声を合わせる。
「プトレマイオス王に」
まだ小さな声だった。
だが、確かに大広間に響いた。
クレオパトラは、その声を聞いていた。
怒りは見せない。
悲しみも見せない。
ただ、静かに見ている。
自分を祝うはずの宴が、弟王を宮廷に刻み直す場へ変わっていく。
クレオパトラの光を、弟王の冠へ反射させる。
それが、この祝宴の正体だった。
「王子陛下」
ポテイノスが幼い王へ声をかけた。
「どうか、姉君へお言葉を」
プトレマイオス十三世は、緊張した顔で立ち上がった。
彼はクレオパトラを見た。
姉は、静かに彼を見返している。
その目は責めていなかった。
だから少年は、少し安心した。
「姉上」
幼い声が、大広間に響く。
「ヘルモンティスでのこと、聞きました」
クレオパトラは黙って聞いていた。
「姉上は、すごいです」
何人かが、やわらかく笑った。
幼い王の素直な称賛。
それは美しく見えた。
「ぼくには、まだ分からないことがたくさんあります」
プトレマイオス十三世は、両手を握る。
「でも、姉上がエジプトを導くなら、ぼくは信じます」
クレオパトラの瞳が、わずかに揺れた。
それは、弟の本心だった。
「ぼくは、姉上を信じています」
広間に、やわらかな空気が広がった。
姉を信じる弟。
弟に信じられる姉。
たしかに、美しい光景だった。
だが、ポテイノスはその美しさを逃さない。
「なんと尊いお言葉でしょう」
彼は声を張った。
「女王陛下を信じ、姉君の功績を讃え、それでいて自らも王として国を思われる。これほど姉思いの王が、他におられましょうか」
宮廷の者たちがうなずく。
賢者テオドトスが続ける。
「まだ十歳にして、このお心。まことに、将来が楽しみでございます」
「若き王に」
将軍将軍アキラスが杯を掲げた。
兵たちが続く。
「若き王に」
今度は、声が大きかった。
神官たちが黙って杯を上げる。
財政官たちがそれに続く。
書記たちは、その光景を目に焼きつけていた。
カリスは、胸の前で手を握りしめた。
「女王様……これは……」
「ええ」
クレオパトラは、杯に触れずに答えた。
「わたくしを祝う宴ではありません」
「では……」
「弟の名を、王宮に刻み直すための宴です」
カリスの顔が青ざめる。
「王子陛下は、そのようなおつもりでは……」
「分かっています」
クレオパトラの声は静かだった。
「だからこそ、残酷なのです」
幼い王は、まだ気づいていなかった。
自分の優しさが、姉を縛る鎖に変えられていることを。
自分の名が、少しずつ自分の手から離れ始めていることを。
宴は続いた。
音楽が鳴る。
杯が交わされる。
笑い声が広がる。
ポテイノスは、何度もクレオパトラを称えた。
女王陛下の知恵。
女王陛下の勇気。
女王陛下の御心。
そして、そのたびに弟王へ話を戻した。
その女王陛下を支える弟王陛下。
姉君を妬まぬ若き王。
未来のエジプトを担う王。
誰も剣を抜いていない。
誰も怒鳴っていない。
けれど、戦いは始まっていた。
言葉の戦い。
視線の戦い。
名の戦い。
プトレマイオス十三世が、そっとクレオパトラに近づいた。
「姉上」
「どうしました」
「怒ってる?」
その声は小さかった。
大広間の喧騒に紛れて、ほとんど誰にも聞こえない。
クレオパトラは弟の目を見た。
不安そうな目だった。
自分が何かを間違えたのではないかと怯える、幼い目だった。
「怒っていません」
「本当?」
「ええ」
クレオパトラは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あなたの言葉は、嬉しかったわ」
少年の顔が明るくなった。
「よかった」
その無邪気な安堵が、クレオパトラの胸を刺した。
この子は、何も知らない。
知らないまま、使われている。
クレオパトラは、弟の手にそっと触れた。
「けれど、プトレマイオス」
「なに?」
「誰があなたの言葉を広めているのか、よく見なさい」
「ぼくの言葉?」
「ええ。あなたの言葉は、あなたのものです。誰かに奪われてはなりません」
少年は、まだよく分かっていない顔をした。
それでも、姉の真剣な目を見て、小さくうなずいた。
「うん」
その時、ポテイノスが近づいてきた。
「女王陛下」
クレオパトラは、弟の手から静かに指を離した。
「何か」
「本日は、王子陛下もたいそうお喜びでございます」
「そのようですね」
「姉君のご威光を心から祝うとは、実にお優しい王でございます」
ポテイノスの声は柔らかい。
「女王陛下も、さぞお誇りでしょう」
クレオパトラは、ポテイノスを見た。
「ええ」
短い返事だった。
「わたくしの弟ですもの」
ポテイノスは深く頭を下げた。
「まことに、麗しき姉弟であらせられます」
その言葉は甘かった。
だが、甘いものほど毒を隠しやすい。
クレオパトラは、視線をそらさなかった。
「ポテイノス」
「はい」
「弟の優しさを、汚さないことです」
一瞬。
ポテイノスの笑みが止まった。
すぐに、また穏やかな顔へ戻る。
「もちろんでございます」
「ならばよいのです」
クレオパトラは静かに言った。
「この子は、あなた方の駒ではありません」
広間の音楽は続いていた。
杯の音も、笑い声もある。
誰も、その短いやり取りに気づいていない。
だが、ポテイノスとクレオパトラの間には、確かに冷たい線が引かれた。
「心得ております」
ポテイノスは頭を下げた。
「王子陛下は、エジプトの尊き王にあらせられます」
クレオパトラは、何も答えなかった。
ポテイノスは、あえて言ったのだ。
弟は王である、と。
姉の前で。
祝宴のただ中で。
◇
宴が終わるころ、大広間には甘い酒の匂いと、熱を帯びた言葉だけが残っていた。
宮廷の者たちは、口々に語った。
「女王陛下は見事だ」
「だが、王子陛下もまたお優しい」
「姉君を称えるとは、器が広い」
「幼くとも、王の素質がおありだ」
その言葉を、書記たちは記憶した。
神官たちは聞いた。
財政官たちは計算した。
兵たちは杯を掲げた。
クレオパトラは、大広間を出る前に、二つの玉座を振り返った。
同じ高さ。
同じ光。
けれど、その下にあるものは同じではない。
一つは、国を背負う覚悟。
もう一つは、利用される名。
アポロスが、彼女の後ろに立った。
「女王様」
「分かっています」
クレオパトラは静かに答えた。
「これは、始まりです」
カリスが震える声で言う。
「王子陛下は、女王様を信じておられます」
「ええ」
クレオパトラは、弟が去っていった回廊を見た。
「だから、急がなければなりません」
「急ぐ?」
「ポテイノスたちは、あの子の優しさを王の器と呼びました」
クレオパトラの声は、冷えていた。
「次は、あの子の迷いを王の意志と呼ぶでしょう」
アポロスの顔が険しくなる。
「弟王の名を使うつもりですか」
「もう使い始めています」
その夜、宮廷の者たちは二人の王を見た。
神々と民の前に立った女王。
その女王を笑顔で祝う、幼い王。
だが、ポテイノスが見せたかったのは、姉弟の絆ではなかった。
二つの玉座だった。
その夜から、王宮の者たちは思い出し始めた。
エジプトには、女王だけがいるのではない。
もう一人の王がいるのだと。
プトレマイオス十三世。
その名が、静かに王宮の壁へ刻まれ直していく。
そして、その名は少しずつ、少年自身の手から離れ始めていた。




