第二話 王宮の陰
アレクサンドリアの街には、女王の声が残っていた。
市場の片隅で、老人が言う。
「若い女王様は、民の言葉で語られた」
水を運ぶ女が、空を見上げる。
「まるで、こちらを見てくださっているようだった」
魚を並べる男が、低くつぶやく。
「本当に、エジプトは変わるのかもしれない」
それは、まだ小さな声だった。
だが、確かに広がり始めていた。
暗く沈んでいた民の胸に、かすかな希望が灯りはじめていたのである。
しかし。
希望は、王宮の奥にいる者たちにとって、必ずしも喜ばしいものではなかった。
◇
夜のアレクサンドリア王宮は、海から吹く風の音だけが聞こえていた。
昼の喧騒は遠ざかり、白い柱も、金の扉も、月明かりの中で冷たく沈んでいる。
その奥の一室で、クレオパトラは弟と向き合っていた。
扉の外には、カリスとアポロスが控えている。
カリスは胸の前で両手を重ね、息を殺していた。
アポロスは壁際に立ち、長い回廊の奥を見ている。
この夜の会話が、ただの姉弟の語らいではないことを、二人とも分かっていた。
部屋の中。
王冠を外したプトレマイオス十三世は、王ではなく、ただの少年の顔をしていた。
まだ幼い手が、膝の上で固く握られている。
「姉上」
小さな声が、沈黙を破った。
「ぼくは、どうすればよいの?」
クレオパトラは、弟を見つめた。
責める目ではなかった。
驚く目でもなかった。
最初から、その不安を知っていた者の目だった。
「あなたが怖いのは、分かっています」
弟は、びくりと顔を上げた。
「怒らないの?」
「怒ることではありませんわ。まだ十歳のあなたには、分からないことの方が多いのです」
プトレマイオス十三世の指が、衣の端を握った。
「でも、みんなはぼくを王って呼ぶ。ぼくの名前で命令する。ぼくは何も決めていないのに」
その声には、王の誇りではなく、子どもの怯えがあった。
クレオパトラは、弟の前に膝をついた。
「だからこそ、今のままではいけません」
「どうして?」
「王座は一つです」
その言葉に、弟の肩が小さく揺れた。
「けれど、そこに二人が座らされている。あなたと、わたくし」
クレオパトラの声は静かだった。
だが、その奥には冷たい現実を見つめる強さがあった。
「このままでは、いずれ姉弟の争いになります」
「ぼくは、姉上と争いたくない」
「わたくしもです」
クレオパトラは、弟の小さな手を取った。
「でも、王宮の者たちは、そうは考えません。あなたの名を使いたい者たちがいる。わたくしの力を恐れる者たちがいる。その者たちは、必ずあなたとわたくしを争わせようとします」
弟の顔が青ざめていく。
「争いになれば、あなたか、わたくしのどちらかが死ぬことになるでしょう」
「そんなの……いやだ」
震える声だった。
クレオパトラの指が、弟の手を包み込む。
「だから、あなたを王座から降ろします」
プトレマイオス十三世の瞳が揺れた。
「ぼくを……?」
「罰するためではありません」
クレオパトラは、ゆっくりと言った。
「生かすためです」
弟は言葉を失った。
部屋の外で、風が窓をかすかに鳴らす。
「あなたは地方へ行きなさい。王宮から離れ、ポテイノスたちから離れ、ただの王家の子として生きるのです」
「王家の子……」
「ええ。王ではなく、わたくしの弟として」
その言葉に、弟の目に涙が浮かんだ。
「でも、本当にそんなことができるの」
「兄弟で争えば、エジプトは立ち直れません。あなたとエジプトを救うには、この方法しかないのです」
クレオパトラは、弟をまっすぐに見つめた。
「あなたが生きていれば、王家は残ります」
弟は唇を噛んだ。
「でも、姉上は……」
「わたくしの改革は、常に死と隣り合わせです」
クレオパトラの声は、わずかに低くなった。
「もし、わたくしが倒れた時には、あなたが生きていなければなりません」
弟の瞳が揺れる。
「ぼくが……?」
「ええ。あなたが生きていれば、いつか王家は立て直せます。けれど、あなたが王宮の大人たちに操られたまま死ねば、ポテイノスたちは次の名を探すだけです」
弟は、うつむいた。
「ぼくは……王の器じゃない」
その言葉は、ただの弱音ではなかった。
自分を知る者の、静かな告白だった。
クレオパトラは、少しだけ表情を和らげる。
「それが分かるなら、あなたは愚かではありません」
弟は顔を上げた。
「いつか……姉上のような王になれますか」
「なれます」
クレオパトラは静かに答えた。
「けれど、今は生きることを選びなさい」
「姉上は……一人で戦うのですか?」
「ええ」
その答えには、迷いがなかった。
「この国の責任は、わたくしが負います」
弟の瞳が大きく揺れた。
「ぼくは、何をすればよいですか?」
クレオパトラは、弟の手を優しく握った。
「王として、自分の意志を示すのです」
「自分の意志……」
「あなた自身の言葉で命じなさい。自分は王座には残らない。王族として暮らす、と」
弟の瞳が見開かれた。
「でも、ぼくの言うことは、誰も聞かない」
「それでも、言い続けるのです」
クレオパトラは、弟の手を強く握った。
「あなたの名を、あの者たちに奪わせてはいけません。王として命じ続けるのです」
「命じ続ける……」
「ええ。動かされる王になってはなりません」
弟は黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「やってみます」
震える声だった。
けれど、そこには確かに、彼自身の意志があった。
「ぼくは、姉上に従います」
クレオパトラは、弟の手を額に寄せた。
「プトレマイオス。わたくしの弟。わたくしを信じてくれてありがとう」
それは、女王としての言葉ではなかった。
姉としての言葉だった。
やがて、プトレマイオス十三世は部屋を出た。
扉が開いた瞬間、カリスは深く頭を下げた。
幼い王は何も言わず、目元を赤くしたまま回廊を歩いていく。
その背は、小さかった。
王冠をかぶっていないその姿は、どこにでもいる少年のように見えた。
アポロスは、その背を見送った。
そして、ゆっくりとクレオパトラへ視線を戻す。
「本当に、王子陛下を王座から降ろされるのですか」
その声は低かった。
問いではなく、覚悟を確かめる言葉だった。
クレオパトラは、部屋の奥に立ったまま答えた。
「ええ」
「ポテイノスが黙っているとは思えません」
「でしょうね」
カリスが顔を上げる。
「女王様……それでは、王宮の者たちは女王様が王子陛下から王座を奪ったと考えます」
「そう考えさせる者が出るでしょう」
クレオパトラの指先は、ほんの少しだけ震えていた。
だが、声は乱れなかった。
「それでも、わたくしの弟を救う方法はこれしかないのです」
カリスは、その震えを見た。
アポロスは何も言わず、深く頭を下げた。
「ならば、私の役目は一つです」
「何です?」
「あなたを守ることです」
クレオパトラは、わずかに笑みを返した。
この夜、クレオパトラは決めていた。
弟を生かすために。
エジプトを守るために。
自分が一人で、王の責任を背負うのだと。
◇
紀元前五十一年三月二十二日。
クレオパトラは、実権を握るための行動に出た。
アレクサンドリアの白い宮殿を離れ、ナイルを上る。
地中海の青い風は遠ざかり、代わりに、大河の湿った匂いが近づいていった。
彼女のそばには、カリスがいた。
旅装の上から薄い布をまとい、女王のための水差しと儀礼用の布を抱えている。
少し離れた場所には、アポロスがいた。
彼は船の上から岸辺を見ていた。
集まる民。
神官たちの列。
警護の兵。
そして、人々の群れの中に紛れる王宮の目。
アポロスは、ひとつも見逃すまいとしていた。
行き先は、テーベの近く。
ヘルモンティス。
そこでは、聖なるブキス牛を神殿へ迎える儀式が行われようとしていた。
ブキス牛。
それは、軍神モントゥの力を宿すとされた聖なる牡牛である。
豊作を願うだけの祭礼ではない。
王が国を守る力を、神々と民の前に示す儀式だった。
若き女王が、即位して間もなくその場へ赴く。
その意味を、王宮の者たちは理解していた。
だからこそ、止めようとした。
若き女王が神々と民の前で王の力を示せば、弟王の影に隠れる存在ではなくなる。
クレオパトラは、その反対を押し切って、この地まで来た。
弟プトレマイオス十三世もまた、幼いながらに王として命じていた。
「姉上の行く道を妨げてはならない」
震える声だった。
けれど、それは確かに彼自身の意志だった。
「ぼくは、姉上を信じている」
王は、玉座に座っているだけでは王になれない。
神々の前に立ち、民の前に立ち、この国を守る力を示してこそ、王と認められる。
ナイルの水面に、祭礼の舟が浮かんでいた。
白い衣をまとった神官たちが並び、香の煙が空へ昇っている。
岸辺には、多くの民が集まっていた。
老人。
子ども。
農夫。
神殿に仕える者たち。
彼らは、遠くからやって来た若き女王を見つめていた。
ギリシアの宮廷で育った女王。
だが、彼女はエジプトの言葉を知っている。
エジプトの神々を軽んじない。
そして、王宮の奥に隠れない。
クレオパトラは、儀礼用の白いリネンの衣をまとっていた。
王宮の玉座で見せる華やかな装いではない。
神々の前に立つための、清らかな白だった。
カリスは、女王の横顔を見上げた。
その顔は美しかった。
けれど、その美しさの下にどれほどの重さがあるのか、カリスには分かっていた。
弟の命。
父王が残した借金。
飢えた民。
ローマの影。
そのすべてを、まだ若い肩が背負おうとしている。
「女王様」
カリスは小さく声をかけた。
「お疲れではございませんか」
クレオパトラは、前を見たまま答えた。
「疲れている暇はありませんわ」
「ですが」
「カリス」
呼ばれて、カリスは口を閉じた。
クレオパトラは、少しだけ視線をやわらげる。
「あなたが心配してくれることは、分かっています」
カリスの目が揺れた。
「でも、今日は倒れるわけにはいきません。今日、わたくしは王として見られなければならないのです」
「……はい」
カリスは静かに頭を下げた。
そのすぐ後ろで、アポロスが低く告げる。
「女王様。右手の柱の陰に、ポテイノスの配下がいます」
クレオパトラは顔を向けなかった。
「見ているのですね」
「はい」
「ならば、見せておきなさい」
「何をですか」
「わたくしが逃げないことを」
アポロスの眉が、わずかに動いた。
「承知しました」
クレオパトラは、神官たちの前へ進んだ。
足元の砂が、衣の裾に触れる。
聖なる牡牛は、黒く力強い体を持ち、額には白い印があった。
その眼は静かで、まるで人の心の奥を見通すようだった。
神官の長が、厳かに告げる。
「この聖なる牡牛は、モントゥの力を宿すもの」
声が、神殿の柱の間に響く。
「戦う力。守る力。王を支える力」
クレオパトラは、まっすぐにその言葉を聞いていた。
戦う力。
守る力。
その二つは、彼女の中で一つだった。
弟を守るためには、戦わねばならない。
エジプトを守るためにも、戦わねばならない。
だが、その戦いは剣だけではない。
言葉で戦う。
知恵で戦う。
神々と民の前に、王として立つことで戦う。
神官が、彼女へ視線を向けた。
「女王クレオパトラ七世よ。神々の前に進まれよ」
クレオパトラは、静かに歩み出た。
民のざわめきが、波のように広がる。
カリスは、その背を見つめた。
細く、美しい背だった。
けれど今、その背は王宮の柱よりも強く見えた。
アポロスは、民ではなく周囲を見ていた。
歓声。
沈黙。
うつむく神官。
目を細める書記。
兵の手。
風に揺れる衣。
そのすべてを、彼は記憶していた。
クレオパトラは聖なる牡牛の前に立ち、深く頭を垂れた。
エジプトの神々へ敬意を示す、王の礼だった。
やがて、神官たちの詠唱が高まる。
太鼓の音が、低く響いた。
香の煙が、風に流れる。
聖なる牡牛が、一歩、神殿の内へ進む。
その瞬間、人々の間に息をのむ気配が広がった。
クレオパトラは顔を上げた。
その瞳は、揺れていなかった。
この儀式は、ただの祭礼ではない。
若き女王が、エジプトの神々と民の前に、自らを王として示す最初の行動だった。
王宮だけの女王ではない。
ギリシア語を話す宮廷だけの支配者でもない。
ナイルの国を背負う王。
神々の前に立ち、民の前に立ち、国を守る力を引き受ける者。
その姿を、民は見ていた。
神官たちも見ていた。
カリスも見ていた。
アポロスも見ていた。
儀式が終わるころ、ナイルの上には赤い光が差していた。
クレオパトラは、神殿の階段の上から民を見下ろした。
そこにあるのは、歓声ではなかった。
畏れに近い沈黙だった。
その沈黙の中で、若き女王は胸の奥に誓う。
《わたくしが背負います》
《弟の命も》
《父王が残した借金も》
《飢えた民の不安も》
《ローマの影も》
《この国のすべてを》
風が、彼女の黒髪を揺らした。
ナイルの水面が、光を返す。
カリスは、その姿を見て、そっと胸を押さえた。
アポロスは、誰にも聞こえないほど低くつぶやいた。
「君は、本当に王になるつもりなのだな」
その声は風に消えた。
けれど、彼の目はもう迷っていなかった。
この日、クレオパトラは、王の力の象徴を得た。
ただの若き女王としてではない。
王の力を、神々と民の前に示す者として。
そしてその行動は、やがて王宮の奥にいる者たちを震え上がらせることになる。




