第一話 即位の儀
人類は約七百万年前、アフリカにその息吹をあげた。
約一万年前には農耕が始まり、やがて文明が生まれた。
エジプトは世界最古級の文明の一つとして、約五千年前に誕生した。
やがて文明は世界へ広がり、エジプトもまた、かつてのような絶対の強国ではなくなっていた。
アレクサンドロス大王の死後、部下だったマケドニア系ギリシア人のプトレマイオス一世が、エジプトに新たな王朝を築いた。
プトレマイオス朝。
その宮廷では、エジプトの言葉ではなく、ギリシア語が支配者の言葉として使われていた。
けれど、のちに現れる一人の女王だけは、民の言葉にも耳を傾けた。
今から約二千百年前、エジプトの地に一人の女王が現れる。
漆黒の髪を持つ、美しく気高い女性であった。
だが、その女王は、ただ美しいだけの女ではなかった。
言葉を武器にし、知恵で王座を動かそうとする者。
その名は、
クレオパトラ。
◇
エジプトの地は闇に沈んでいた。
父プトレマイオス十二世は、民の金でローマに媚びを売り、後ろ盾を得ていた。
それなのに、エジプトの領地であるキプロスをローマに奪われても、何もできなかった。
民からは無能の王と呼ばれ、王宮にも居場所を失い、ついにはローマへ逃亡した。
その後、クレオパトラの姉ベレニケ四世が王となり、エジプトを治めた。
しかし三年後、父プトレマイオス十二世は再びローマを後ろ盾にして王座へ返り咲いた。
復位後は、姉ベレニケ四世とその支持者たちを処刑し、さらにローマ兵と傭兵の力を借りて権力を保った。
そして四年後。
父王は、エジプトの民に「壊滅的な借金」を残した暗君として、およそ六十歳でこの世を去った。
◇
玉座の間に流れる香の煙は、高いドームへゆるやかに昇っていた。
神官の詠唱が響くなか、群臣たちは無言のまま両脇にひざまずいている。
二つの玉座が並んでいた。
十八歳のクレオパトラは正装に身を包み、左の玉座に座っていた。
右の玉座には弟、プトレマイオス十三世。
まだ十歳の少年である。
彼女の装いは、神殿より献上された純白のリネンに金銀の刺繍を施したものだった。
肩にはファラオの証たる蛇の意匠がきらめき、額に垂れた細い金の鎖が、ひとすじの髪をなぞるように揺れている。
その瞳はナイルの水面のように深く、見つめるだけで人の心を鎮める力があった。
誰も声を出さなかった。
ただ、その気品に息をのんでいた。
神官ですら、詠唱の調子をわずかに乱しかけるほどだった。
やがて、厳かな声が広間に満ちる。
「王プトレマイオス十三世と、女王クレオパトラ七世――二人のファラオが、神々の加護を受け、この地を治めることを宣す」
その宣言の中で、弟の手だけが小刻みに震えていた。
金の首飾りが胸元でかすかに揺れ、それが儀式の沈黙のなかで唯一の音のように思えた。
クレオパトラは、その震えを見た。
弟の瞳に映っていたのは、王の誇りではなく、不安と無力だった。
王冠は彼にとって、あまりに重い。
だが、彼女の胸に広がっていたのも、祝福ではない。
冷えた炎のような感情だった。
《この玉座は、祝福の場ではありませんわ》
《エジプトの地は痩せ、王宮は闇に沈んでいる》
《この王座の責任は、わたくしが負いましょう》
その誓いだけが、彼女の内で静かに燃えていた。
◇
アレクサンドリア王宮の中庭では、白檀の木の葉がやわらかく揺れていた。
クレオパトラは侍女カリスとともに椅子に腰掛け、葡萄酒をひと口だけ含む。
「皆、女王様に目を奪われておりました」
カリスの言葉に、クレオパトラは静かに視線を上げた。
「必要なことでしたわ」
その返答は穏やかだったが、迷いはなかった。
「ですが宮廷では、あまり評判がよくないようです。“女王が前に出すぎている”と」
クレオパトラは、わずかに微笑んだ。
「構いません。誰かが確かな姿を示さなければ、皆の心はたちまち不安に呑まれてしまいますもの」
春風が白い衣の裾を揺らし、黒髪をかすかにさらった。
その横顔は美しかったが、それ以上に、王としての意志がそこにあった。
その時、中庭の入口から低い声が届いた。
「評判だけなら、まだよいのですが」
カリスが振り向く。
入口に立っていたのは、護衛隊長だった。
名は、アポロス。
クレオパトラの叔父の三男であり、幼い頃から王宮で彼女とともに育った青年である。
王位を望む立場ではない。
だが幼い日に、父であるクレオパトラの叔父から、ただ一つの使命を受けていた。
――クレオパトラを守れ。
その言葉を、アポロスは今も胸に刻んでいる。
「民の前に立たれるのは危険です。女王様」
アポロスは膝をついていた。
「危険だからこそ、立つのです」
クレオパトラは、風に揺れる中庭の葉を見つめたまま答える。
「わたくしが王宮の奥に隠れていれば、民は誰を信じればよいのですか」
「ですが、ポテイノスが黙っているとは思えません」
「でしょうね」
「それでも、行かれるのですか」
「ええ」
迷いのない声だった。
アポロスは、わずかに眉を寄せた。
「……君は、昔から私に心配をかける」
カリスが驚いて彼を見る。
クレオパトラは、ゆっくりとアポロスへ視線を向けた。
「ここでは、女王とお呼びください」
アポロスはすぐに頭を下げる。
「失礼しました。女王様」
クレオパトラは少しだけ目を細めた。
「けれど……その呼び方を聞くと、少しだけ昔を思い出しますわ」
アポロスは顔を上げる。
その目には、護衛隊長としての忠誠と、幼なじみとしての心配が重なっていた。
「昔も今も、私の役目は変わりません」
「何です?」
「あなたを守ることです」
カリスは、そのやり取りを黙って見ていた。
女王の横顔。
護衛隊長のまっすぐな視線。
そして、二人の間に流れる、幼い日から続く確かな信頼。
だが、クレオパトラはやさしく首を振った。
「守られるだけの王では、国は動かせませんわ」
「では、私は何をすればよいのですか」
「周りの人の後ろ姿を見ていなさい」
「後ろ姿を?」
「人は、正面では礼をします。けれど、本心は後ろ姿に出るものです」
アポロスは一瞬黙り、それから深くうなずいた。
「承知しました」
クレオパトラは、遠く王宮の回廊へ視線を向けた。
《わたくしは、飾られた王では終わりませんわ》
その視線の先では、すでに宮廷の陰がわずかに動き始めていた。
◇
クレオパトラは書記を入れず、執務室で自ら筆を取っていた。
カリスが、そっと声をかける。
「女王様みずから、お書きになるのですか」
「ええ」
クレオパトラは短く答え、筆を止めなかった。
エジプトには、高度な統治制度が根付いていた。
ファラオ、すなわち王がエジプト全土を支配する。
そして全土はノモス、つまり州や県のような行政区に分けられていた。
穀物への課税だけではない。
畑、果樹園、ぶどう畑、神殿領など、土地の種類ごとに税が管理されていた。
王国が握る油などの専売。
王立銀行による金銀貨幣の管理。
商人に対する税の取り方。
それらまで、細かく決められていた。
アレクサンドリア王宮には、王に仕える側近、神官、将軍、財政官、地方長官、そして「王の友人」という称号を持つ人々が集まっていた。
すなわち、神殿、政治、軍事、経済の上層にいる者たちである。
彼らはナイル川が生む富を、民へ返すより先に奪い合っていた。
父プトレマイオス十二世は、その流れを正すどころか、ローマへの負債によって王座を保っていた。
机の上には、複雑に絡み合った国の金の流れを示す図が描かれていた。
カリスは、その図を不安そうに覗き込む。
「女王様。この流れを変えるのですか」
「そうです。この流れを、もっと単純にして、民にも分かる形で管理しなければ、エジプトは滅びますわ」
クレオパトラは、筆を止めずに言った。
「複雑な仕組みは、一見すると公平に見えます。けれど、その陰に隠れて搾取する者たちがいるのです」
「腐敗にまみれた現状を正すには、まず仕組みを民にも見える形に変えなければなりません」
アポロスの声が、低く落ちた。
「女王様。あまりにも危険です。多くの者が敵に回ります」
「分かっていますわ」
クレオパトラは静かに答えた。
「でも、この流れを正すしか道はありません。そのためにも、民に希望を示すのです」
布告文が広げられている。
『わたくし、女王クレオパトラ七世は、新たな王としてエジプトを治めます――』
それは、エジプト語で書かれていた。
静かな部屋には、紙をなぞる筆の音だけが細く響く。
「宮廷は、さらに騒ぎましょう」
カリスの言葉にも、クレオパトラは平然としていた。
「構いません。王たる者は、神と民の狭間に立たねばなりませんもの」
彼女は筆を置き、広げられた布告文を見つめた。
「暗く沈んだ民に、希望の芽を与える。わたくしの最初の仕事ですわ」
カリスは目を細めた。
「王家の方々は、ギリシア語で政を語られます。けれど女王様は、エジプトの民の言葉までお話しになる」
クレオパトラの筆が、ほんの少しだけ止まった。
「王が民の言葉を知らずに、どうして民の痛みを知れましょう」
「民の言葉を話せる王など、これまでおりませんでした。女王様は……まるでナイルの川のようです」
ナイル川。
エジプトの豊かさを支える大河。
幾度もの氾濫は時に民を呑み込むが、その氾濫こそが豊かな土壌を作っていた。
クレオパトラの人生もまた、ナイル川のように波乱に満ちたものとなる。
クレオパトラは、再び筆を進めた。
「ファラオは、語ることができねばなりませんわ」
紙の上に、静かな文字が重ねられていく。
「武力ではなく、声で国を導く。それが、いまのエジプトには必要なのです」
その言葉は、自らを鼓舞するように力強かった。
そこにはすでに、彼女の治世の形があった。
《わたくしは、この国を言葉で導く王になるわ》
◇
執務室に、壮年の男性が入ろうとしていた。
アポロスがそれに気づくと、護衛兵たちへ目で合図を送った。
兵たちが扉の前を塞ぐ。
だが壮年の男性は怯むこともなく、執務室の奥を見た。
「女王様に、お目通りをお伝えください」
執務室の奥から、クレオパトラが応じた。
「ポテイノス。何用ですか?」
ポテイノスは、王宮の奥に仕える宦官であった。
年若い王プトレマイオス十三世の後見人であり、政務を補佐する者。
だが実際には、幼い王の名を借りて王宮を動かす、影の支配者であった。
年のころは五十に近い。
柔らかな声で礼を述べ、深く頭を下げる。
けれど、その目だけは決して笑わなかった。
「女王様が自ら執務をされていると伺い、お手伝いに参りました」
執務室の奥から、柔らかい声が聞こえた。
「ポテイノス。あなたは弟の補佐が役目です。わたくしの補佐は不要ですわ」
ポテイノスの口元だけが、薄く動いた。
その笑みは、礼儀の形をしていながら、少しも温かくなかった。
「クレオパトラ様は、まだお若い。王宮のしきたりにも、うといところがあるかと存じます」
アポロスがポテイノスを鋭く見た。
「ポテイノス様。不敬では。女王様の名を直接呼ぶとは」
ポテイノスは下を向いたまま、さらに深く頭を垂れた。
「失礼いたしました。しかしながら、民の前に立ち、己の言葉を語るなど――」
彼は、わずかな間を置いた。
「やめられた方がよろしいかと。王として、あるまじき振る舞いでございます」
執務室の奥から、冷めた声が響いた。
「エジプトの今の状況は、あなたが最もお分かりでは?」
ポテイノスは答えなかった。
「このまま、ローマの属国に成り下がるのが、あなたの役目なのですか」
「そうでないことを、わたくしは願っていますわ」
ポテイノスは深く礼をすると、何も言わずに背を向けた。
最後まで、彼は礼を失わなかった。
クレオパトラが言った通り、アポロスはポテイノスの後ろ姿を見ていた。
刃を布で包んだような、危険な後ろ姿だった。
◇
クレオパトラは、アレクサンドリア王宮の近くの広場に立っていた。
護衛兵を従え、民の前に姿を見せている。
自らの意志で、民に直接、布告を読み上げるためだった。
金と青の装束は陽を受けて柔らかく光り、王冠から垂れる宝玉が額に揺れる。
まっすぐに立つその姿は、神話に語られるイシス神の化身のようであった。
少し離れた場所で、アポロスは群衆を見ていた。
民の顔。
兵の手。
建物の影。
屋根の上。
カリスは、女王のそばで布告文を抱えている。
その指先は、ほんの少し震えていた。
群衆の間に、さざ波のような驚きが走る。
クレオパトラは澄んだ声で告げた。
「わたくし、クレオパトラ七世は、新たな王としてエジプトを治めます」
広場に集まった民が、息をひそめる。
「エジプトは、ナイルの流れとイシス神に守られた豊かな国です」
「けれど今、その豊かさは民の心へ届かず、多くの者が暗い不安の中におります」
クレオパトラは、まっすぐに民を見つめた。
「わたくしは、王として宣言します」
「この国を、ふたたび民とともに富める国へ変えるために」
「暗く沈んだ民に、希望の芽を授けるために」
「わたくしは、あなたたちと共に歩みます」
人々の心を貫いたのは、その姿の美しさだけではなかった。
声だった。
澄みわたりながら、あたたかい。
強さと慈愛を湛えたその響きは、命令ではなく祈りのように広場へ届いた。
拍手は起こらなかった。
最初に満ちたのは、沈黙だった。
誰もが、言葉を忘れて見上げていた。
やがて一人が、そっと頭を垂れる。
その仕草は次々と広がっていった。
――まるで、神にひれ伏すように。
その日、人々は初めて感じた。
王に愛されている、と。
アポロスは、その光景を見ていた。
民が女王へ頭を垂れる。
その姿に胸が熱くなる一方で、彼は別の視線にも気づいていた。
広場の奥。
柱の陰。
ポテイノスの配下と思われる男が、じっと女王を見ていた。
アポロスは、静かにその男を見返した。
男はすぐに視線を逸らし、人混みに消える。
アポロスの手が、剣の柄に触れた。
女王が民を見る時、自分は女王を狙う影を見る。
それが、自分の役目だった。
◇
夜の王宮の一室で、クレオパトラは弟と短い会話を交わしていた。
「姉上……ぼく、王って何をすればいいの?」
幼い声に、彼女はやさしく向き直る。
「王とは、皆の不安をその胸に受け止める器でございます。そして何より、自らの意志によって歩む者のこと」
弟は首を傾げた。
「でも、姉上みたいにはできないよ……こわい」
「構いません。あなたは、まだ幼き者。少しずつでよいのです」
クレオパトラは弟の小さな手を取り、自らの胸に当てた。
「この国の鼓動は、ここにございます。あなたがそれを感じられる日が来れば――きっと、すべてが分かるはずです」
弟は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
部屋の外では、カリスとアポロスが控えていた。
カリスは小さく息を吐く。
「女王様は、いつもお強いですね」
アポロスは扉を見つめたまま答える。
「強いから、傷つかないわけではない」
カリスは、そっと彼を見る。
「分かるのですか」
「幼い頃から見守っていた」
アポロスの声は低かった。
「彼女は……いえ、女王様は、弱音を誰にも見せないのです」
カリスは何も言えなかった。
やがて夜更け。
クレオパトラは一人、塔の上に立ち、地中海を見つめていた。
アレクサンドリアの灯が、ちらちらと揺れている。
少し離れた階段の影には、アポロスが控えていた。
声はかけない。
近づきすぎもしない。
ただ、彼女の背を守る距離に立っている。
《わたくしは、言葉を持つ王》
《誰よりも孤独であろうとも――その責務だけは、決して譲りませんわ》
その胸には、確かな誇りと不安が同居していた。
だが、その背を支える者は、まだ少ない。
それでも、完全に一人ではなかった。
カリスは彼女の心を見ていた。
アポロスは彼女の周囲を見ていた。
そしてクレオパトラは、誰よりも遠く、エジプトの未来を見ていた。
塔の下では、ポテイノスが密かに動き始めていた。
「……女王の行動は、王家の掟を逸脱している。近いうちに、しかるべき処置を」
その声は冷たく、硬い。
小さな火種は、すでに政変の香りを帯びていた。
絶世の美女として知られるクレオパトラ。
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていた」とも言われますが、現代では彼女を単なる美女ではなく、優れた知性と政治力を持つ女性として評価する見方も多くあります。
今からおよそ二千百年前の人物でありながら、クレオパトラに関する資料は数多く残されています。
本作では、それらの史料や研究をもとに史実を押さえながら、歴史長編大河ドラマとして描いていきます。
趣味で書き始めた作品なので、最後まで書ききる予定です。




