第一章ハチワ「不穏」
博士の研究室を引きずり出された頃には、空はすでに夕暮れへ傾き始めていた。
結局出たあともガドはなにも喋ってくれなかった。
ラスティアの街並みは赤く染まり、鉄骨と廃材を継ぎ接ぎして作られた建物の影が長く路地へ伸びている。市場の喧騒はまだ続いていたが、昼間ほどの勢いはなく、仕事を終えた回収屋たちが酒場へ流れ始める時間だった。
リオは歩きながら何度か後ろを振り返った。
博士の研究室がある建物は薄暗い路地の奥に埋もれている。今はもう見えないはずなのに、妙に気になった。
博士の最後の言葉が頭から離れない。
――君、一人じゃないだろう?
意味が分からない。
神話の話、ヴェイルという街も、灰冠という聞いたこともない集団もそうだ。最近の夢といい気になることばかり増えていく。
だが当のガドは、それについて何も話そうとしなかった。先頭を歩く背中は妙に重たく見える。
いつとと同じ煙草を咥えているのに、いつものような軽い雰囲気がない。
リオはついに我慢できなくなった。
「なあ」
返事はない。
「おい」
ガドは面倒そうに肩越しに振り返った。
「なんだ」
「なんだじゃねぇよ。さっきからずっと気になってんだ」
「何がだ」
「全部だよ」
リオは思わず声を荒げる。
「ヴェイルだの灰冠だの博士の故郷だの、お前絶対知ってるだろ」
ガドは少しだけ目を細めたがすぐに前を向く。
「知らねぇな」
「嘘つけ」
「知らねぇ」
「絶対知ってる」
「知らねぇって」
あまりにも雑な返しに、リオは頭を抱えた。
ルゥはそんな二人を交互に見ている。
やがてルゥは小さな口を開いた。
「けんか?」
「違う」
「違ぇ」
二人の声が重なる。
ルゥは少し考えたあと、
「けんか」
と結論づけた。
あまりに雑な考えにガドが吹き出した。
久しぶりに聞いた笑い声だった。
リオは納得がいかないまま鼻を鳴らす。
市場を抜ける頃には夕日も沈み始めていた。
街の各所で発電灯が灯り始める。
青白い光が古い建物の隙間から漏れ、夜のラスティアがゆっくり目を覚ましていく。
どれだけ文明が壊れても、人は夜を照らすことをやめなかった。
リオはその光景が嫌いではない。
むしろ好きだった。
疎外感を感じない気がするから。
だが今日はどこか落ち着かない。
まるで街全体が静かに息を潜めているような気がした。
拠点へ戻ると、ガドは何も言わず椅子へ腰を下ろした。
火を点けた煙草から細い煙が立ち上る。
一本吸い終える前に二本目へ手を伸ばした。
それを見てリオは眉をひそめる。
「吸いすぎだろ」
「そうか?」
「そうだよ」
ガドは答えなかった。
ただ煙を吐く。
いつもなら適当な軽口が返ってくるのに、それすらない。
ルゥはそんなガドをじっと見ていた。
やがて椅子から降りると、ゆっくり近付いていく。
そして。
ぽん。
小さな手がガドの頭に乗った。
ガドは目を丸くした。
ルゥは真剣な顔をしている。
まるで何かを確かめるみたいに。
「なんだそれ」
「わからない」
「わからないのかよ」
「でもしたほうがいいきがした」
ガドは数秒黙ったあと、苦笑した。
「変なガキだな」
ルゥは首を傾げる。
「がど」
「ん?」
「かなしい?」
ガドの笑みが少しだけ止まった。
ほんの一瞬だけだった。
だがリオは見逃さなかった。
ガドは煙草を灰皿へ押し潰す。
そしていつもの調子を作るように肩をすくめた。
「そんな歳でもねぇよ」
「とし?」
「知らなくていい」
ルゥは納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
その夜は珍しく静かな夕食だった。
いつもならガドが余計なことを言い、リオが文句を言い、ルゥが意味不明な発言をして話が脱線する。
だが今日は違う誰も博士やヴェイルの話をしない。
触れてはいけないものが、テーブルの真ん中に置かれているようだった。
夜が更ける。
外では風が吹いている。鉄板を打つ乾いた音が時折聞こえてきた。
リオはいつもより早くソファーへ横になった。
眠ろうとしても頭が冴えている。
博士。
ヴェイル。
灰冠。
神話。
やっぱり考えれば考えるほど分からなくなる。
いつの間にか意識は薄れていった。
そして、数時間後に何か音がした。
かすかな金属音でリオはゆっくり目を開く。
部屋は暗く、静かな部屋のままだ、窓から月明かりだけが差し込んでいる。
リオは気のせいかと思ったが妙な違和感があった。
静かすぎる。
リオは少し焦り気味で身を起こし、隣を見る。
そこで違和感の正体に気付いた。
毛布が空だった。
ルゥがいない。
一瞬、頭が理解を拒否した。
寝ぼけているだけだと思った。
だが何度見てもいない。部屋のどこにも。
リオは立ち上がった。
心臓が嫌な音を立てている。
「ルゥ?」
返事はない。
ガドも起き上がっていた。
鋭い目が暗闇を見据えている。
その表情を見た瞬間、リオの背筋を冷たいものが走った。
窓が開いていた。
夜風が静かに吹き込んでいる。
そして窓際には、小さな白い髪が一本だけ残されていた。
ガドがそれを拾い上げる。
何も言わない。
だがその顔から血の気が引いていくのが分かった。
リオは嫌な予感を押し殺しながら口を開く。
「……なあ」
ガドは答えない。
代わりに壁へ立てかけてあった散弾銃を掴んだ。
その目はもう迷っていなかった。
「行くぞ」
低い声だった。
リオは息を呑む。
「どこに」
ガドは開いた窓の向こうを見つめる。
そして短く答えた。
「決まってる」
その声には、怒りとも諦めとも違う感情が滲んでいた。
「博士のところだ」




