第1章幕引き「道標」
博士が死んだ。しかしその事実を口にしようとするものはここにはいなかった。リオは受け取ったメリケンサックを両手で握り締めたまま、しばらく博士の顔を見つめていた。つい先程まで自分と拳を交えていた男が、今は穏やかな顔で眠っている。その事実がどうしても現実のものとは思えなかった。
「博士…」
静かな声でゆっくりと呼びかけるが返事はない。リオは再び呼ぼうとするが、開いた口をすぐに閉じる。欲しいものは得られない、その事実が痛いほどに理解しているから唇を噛み締め涙を流した。
隣ではガドが俯いたまま動かない。握り締めた拳から流れていた血もいつの間にか止まっている。それでも手を開こうとはしなかった。ルゥも同様になにか行動を起こす素振りはない。
静寂。地下室は、先程までの戦闘の痕跡だけが残されていた。壁にはリオを叩きつけた跡があり、床には砕けた瓦礫が散らばっている。その中央で、博士だけが静かに横たわっていた。
ふらつく足元で、リオがゆっくりと立ち上がった。博士との戦いの最中は何度も攻撃をくらい立つのが精一杯だったのに、不思議にも体は軽かった。受け取ったメリケンサックに視線を落とし、初めてそれをまじまじと見つめた。
使い込まれた鉄には、無数の傷が刻まれている。長い年月をかけて、この拳で何人もの敵と向き合ってきたのだろう。そう思うと、ただの武器にはどうしても見えなかった。
不意に、先ほど自分が口にした言葉が蘇る。
――きっと強くなるから。あんたよりもさ。
あの時は、涙で何も見えなくなっていた。ただ博士に何かを返したくて、思いついた言葉を口にしただけだった。けれど今になって、その言葉の重さが少しずつ胸へ落ちてくる。
博士はもういない。
だからこそ、あの言葉をなかったことにはできなかった。リオはメリケンサックを握り締める。傷だらけの鉄が手のひらへ食い込むのが、何故か心地よかった。
「なれるかな……」
誰に問いかけるでもなく、ぽつりと呟く。
リオ自身、博士とそれほど親しかったわけではない。けれど、ファストの記憶が自分の一部となった今、もう完全な他人だと言い切ることもできなかった。
それに、先程の戦いで見た博士の強さ。何十年もの間、英雄として生き続けてきた男の背中。その名を呼ぶだけで人々が憧れ、敬意を向けるほどの存在。一部しか知らない。それでも、あの人を超えるということがどれほど途方もないことなのかくらいは分かる。
「なるんだろ。俺より、あいつより」
不意に頭の上から声が落ちてきた。
「うわっ」
顔を上げるより早く、ガドの大きな手がリオの頭を乱雑に撫で回す。髪がぐしゃぐしゃになっていくのも構わず、リオはされるがままになった。
先程まで項垂れ、涙を堪えていた男とは思えない。そこにいるのはもう、いつものガドだった。頼りになって、無茶苦茶で、時々どうしようもなく甘い、リオにとって父のような男。
「ガドは超えられる気がする」
「舐めすぎだ」
即座に返ってきた言葉に、リオは思わず小さく笑った。
即座に返ってきた言葉に、リオは思わず小さく笑った。ほんの一瞬だけだったが、地下室に漂っていた重苦しい空気が僅かに和らいだような気がした。けれど、顔を上げればそこにはもう動かない博士がいる。その現実まで消えてくれるわけではない。
「ガド、ヴェイルに連れてってくれよ」
「来ると思ったぜ……」
ガドは渋い顔を浮かべた。今の身体でヴェイルまで向かうことがどれほど無茶なのか、言われなくてもリオには分かっている。それでも、決意が揺らぐことはなかった。
英雄たちが追い求めたもの。博士が何十年もの時間を費やしてまで探し続けたもの。そして、最後まで語られることのなかった願い。それを何も知らないまま、この場所を離れて生きていくことだけはできなかった。
「きついぜ」
「ああ」
「……なら、行こう」
ガドは大きく息を吐いた。
反対すると思っていたリオは少し意外そうに顔を上げたが、ガドはそれ以上何も言わなかった。ただ、いつものように自分の荷物を背負い直す。
それだけで十分だった。
二人の間に、これ以上言葉はいらなかった。
「博士の埋葬はどうする?」
リオが横たわる博士へ視線を向ける。
「出来ればヴェイルに持って帰ってやりてぇが……」
ガドはそこで言葉を止めた。
ここからヴェイルまでの距離を考えれば、今の自分たちに博士を運び続ける余裕があるとは思えない。かといって、この場所へ一人残していくのも、どうしても気が進まなかった。
どうするべきか決めかねていると、部屋の隅から小さな声が響いた。
「だいじょうぶ」
二人が同時に振り返る。ルゥが地下室の奥を指差していた。
「どういうこと?」
「はかせがゆってた。つくえのぼたん、さんかいおして、すぐにげろって」
その言葉にふたりは顔を見合わせる。
「……いつの話だ?」
「連れてこられた時じゃねぇのか」
「そういや、何か酷いことされたのか?」
「んーん、ちょっとしゃべって、すぐおわるからねてなさいって」
ルゥは何でもないことのように答えた。しかし、その言葉を聞いたリオは僅かに眉を寄せた。
博士をここで見つけた時、明らかに様子がおかしかった。長年追い求めていたものに辿り着いたのだから当然と言えばそうだが、少なくとも、リオの記憶にある博士は、そんな穏やかな口調でルゥと話していたようには思えない。
けれど、今さらそこを深く考えたところで答えが出るわけでもない。リオは小さく首を振り、頭の片隅へ追いやった。
「それじゃあ、その時に見たんじゃないのか?」
「ううん」
ルゥは首を横に振った。
「でも、そのときじゃない」
「じゃあ一体いつだ?」
「さっき」
ルゥは少しだけ間を置いてから、リオを見る。
「はかせのきおくを、もらったとき」
「……博士の記憶を?」
「うん」
「さっき手を握った時か、!」
ガドが目を丸くして大きな声を上げた。
「るぅは、博士の記憶を読んだのか?」
「んーん。るぅ、きおくみるの、にがて」
ルゥは困ったように首を振った。
「しかも、はかせみせてくれない」
その言葉に2人はと少しだけ納得した。恐らく博士はまだ伝え足りないことがあったのだ。だからルゥに託した。しかし今は、見られるのを拒んでいる。
「何もわかんないの?」
「なにもわかんない」
「何も分かんねぇのかよ」
ガドが呆れたように呟くと、ルゥは思い出したように話し出した。
「でも、はかせがいってた」
「何を?」
「つくえのぼたん、さんかいおして。そしたら、すぐにげろって」
その言葉に、リオとガドは同時に机へ視線を向けた。
「机と言っても、らしいのはあれしかないぜ」
ガドが指差した先には、地下室へ入った時から置かれていた古びた机があった。先程までの激しい戦闘によって周囲には瓦礫が散乱しているというのに、机だけは不自然なほど原形を留めている。
「あれまで壊れなくてよかったな」
ガドが机へ近づき、天板を端から端まで眺める。しかし、ボタンらしきものはどこにも見当たらない。
「どこだよ、ボタンなんてねぇぞ」
「たぶん、した」
「下?」
ルゥに言われるまま、リオが机の下をのぞき込む。すると、埃にまみれた小さな装置が机の裏側へ取り付けられていた。目立たないように作られているのか、そこにあると知らなければ机の一部としか思えない。その中央には、小さなボタンが一つだけ鎮座していた。
「押していい?」
リオが何の躊躇もなく手を伸ばす。
「ちょっと待て」
ガドは慌ててその手を掴んだ。
「すぐ逃げろって言ったんだな?」
「うん」
「埋葬する必要はねぇってことか?」
「うん」
ガドは押し黙った。机の下に隠された装置。三回押せという妙に具体的な指示。そして、押した後はすぐに逃げろという博士の言葉。それらを頭の中で繋ぎ合わせるように、ガドは装置をじっと睨みつけた。
「……くせぇな」
「何が?」
「博士の考えが、だよ」
ガドは立ち上がると、地下室の周囲を見回した。逃げるとすれば、今来た道を戻るしかない。しかし、そこまでの距離を考えれば、何かが起きてから走り出したのでは間に合わない可能性もある。
「これ、押したら建物ごとぶっ壊れるんじゃねぇか?」
リオが目を丸くする。
「建物を?」
「ああ。あの博士ならやりかねないぜ。もし何者かにここの存在がバレたとして、資料なんかをすぐに移動させるのは無理な場合、、」
そう考えれば、博士が「すぐ逃げろ」と言ったことにも説明がつく。
ガドはもう一度ボタンを見る。
「まず逃げ道を作れ」
「分かった」
リオはすぐに瓦礫を退かし始めた。
負傷しているとは思えないほど真剣な顔で、出口までの道を塞いでいた瓦礫を一つずつ脇へ寄せていく。ガドも黙って手を貸し、二人でどうにか人が走れる程度の道を確保していった。
ルゥはその様子を少し離れた場所から見つめている。5分も経たないうちに、逃げ道ができた。地下室の奥から入口まで、何とか走り抜けられるだけの空間ができている。
「これでいいか?」
「ああ……たぶんな」
そう答えたものの、ガドの顔から不安は消えなかった。博士のことだ。自分が逃げ切れる程度の仕掛けにはしているだろう。だが、どの程度の規模なのかは分からない。そもそも本当に建物が崩れるだけなのか、それすら確信はなかった。
「ガド」
「なんだ?」
「押すぞ」
「……ああ」
リオがボタンへ近づこうとする。
「待て」
ガドはルゥを抱き上げた。
「俺が押す」
「なんで?」
「お前は足がふらついてんだろ。押した瞬間槍が降ってくる仕掛けだったらどう住んだ」
「でも」
「いいから行け」
有無を言わせぬ声だった。リオは一瞬だけガドを見ると、素直に頷いて出口へ向かう。ガドはその背中を見届けてから、ゆっくりと机の下へ手を伸ばした。
指先がボタンへ触れる。その瞬間、不意に博士の顔が脳裏へ浮かんだ。何年もこの場所に残り続けた男。
最後まで自分たちの前では弱さを見せず、それでも最後には、友に撃たれることでリオを救った男。
「……ほんと、最後まで人使いが荒ぇんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、ガドは一度だけ目を閉じた。
そして――。
カチッカチッカチッ。
三回ボタンを押した。直後、地下室のさらに地下から低い地鳴りが響いた。
ゴゴゴゴゴゴゴ――。
「っ!」
足元が大きく揺れる。壁が軋み、天井から細かな砂埃が降り注いだ。恐らくガドの予想は当たっていた。
「やっぱりな!」
叫ぶと同時に、ガドはルゥを肩へ担ぎ上げた。
「落ちるなよ!」
「ガド、早く!」
リオが出口からガドを手招きする。しかし、その横をガドが目にもとまぬ速さで追い抜いた。
「自分より速ぇやつの心配すんな!」
「ちょ、待てよ!」
「待ってたら死ぬぜ!」
ガドはルゥを抱えたまま、リオよりも速い勢いで走り抜けていく。背後では建物そのものが悲鳴を上げるように軋み、壁の一部が崩れ落ちた。
三人が地下室への通路から飛び出した直後。轟音が通路一帯を震わせ、地上の部屋までもを呼応しているようだった。
リオが思わず振り返る。そこにはつい先程まで自分たちがいた空間があったの、に既にその姿はもうなかった。
壁が崩れ、天井が落ち、量の土煙が舞い上がり、瓦礫が次々と積み重なっていった。
「博士……」
リオの足が止まる。ガドも立ち止まり、肩に担いでいたルゥをゆっくりと下ろした。誰も奥へ戻ろうとはしなかった。戻ったところで、もう何もできないことを三人とも理解していたから。
土煙が少しずつ晴れていく。そこに先程の通路の姿はない。ただ、崩れ落ちた建物と、その下に眠る無数の瓦礫だけが残されていた。
リオは握り締めたメリケンサックへ視線を落とした。
「……これで、よかったのかな」
答えは返ってこない。代わりに、隣に立つガドが小さく息を吐き、前を向いた。
「あいつらしいよ」
そう言って寂しそうに笑う。
その笑顔はすぐに消えたが、ガドはもう一度だけ崩れた建物へ目を向けた。
「最後まで、自分で決めたことを曲げねぇんだからな」
リオも博士が眠る場所を見つめる。悲しさは消えない。けれど、それ以上に今は前へ進まなければならないという気持ちが強かった。
博士が命を懸けたものが、どこかにある。
ならば、自分たちはそれを確かめに行くしかない。リオはメリケンサックを腰へ収め、静かに前を向いた。
天蓋。
幾千の英雄が追い続け、バースが最後まで諦めなかった場所へ。
「何を考えてるのか知らねぇけど、天蓋に行くのってそんな楽じゃねぇぜ」
「え、俺声出てた?」
「かおにかいてた」
ルゥまでもが博士に便乗しリオを笑う。それにつられてりリオも笑い、3人の笑い声が薄暗い部屋に木霊する。外はもう日が顔を出し始めていた。
しんみりとした空気が和んだ頃、ガドがコホンと咳払いをして話を続けた。
「天蓋に行きたけりゃまずはヴェイルだな。」
「どのくらい遠い?」
「歩いてだと少なくとも半年、状況によっちゃ1年ってとこだな」
「強くなるには、ちょうどいい」
「そうと決まれば早く行こうぜ」
「まって、さきにいかないといけないとこがある」
2人が決意を固めたところに、ルゥが割って入る
「どこだ?」
「おうち」
「……そういや、俺たちもボロボロだな」
リオが自分の身体を見下ろして苦笑する。改めて自分の身体を見れば、まともに歩けていることすら不思議なくらいだった。
「まずは帰るか」
「うん」
ガドがリオの肩に腕を回す。
「ほら、肩貸してやるよ」
「……ありがと」
「俺に勝てるくらいには強くなってくれよ?」
「ガドにはすぐ勝てるって」
「まだ言ってんのかよ」
そんなくだらないやり取りをしながら、三人は部屋を後にした。家へ帰るために。
今度は、ヴェイルへ行くために。
第1章が完結しました
長い間お付き合い頂きありがとうございます
あんまり反応が良くないので2章書くか悩んでます
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