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第9話 橘栞の影

 段ボール箱の中から、ミィ、ミィという、ひどく掠れた細い声が絶え間なく聞こえてくる。

 秋の冷気が忍び込む薄暗い四畳半の部屋。仁はちゃぶ台の前にあぐらをかき、その小さな箱の中をじっと覗き込んでいた。

 昨日、古びた児童公園の植え込みで泥まみれになっていたところを拾ってきた子猫だ。

 泥と排泄物でガチガチに固まっていた毛並みは、コンビニで買ってきたペット用のお湯で温めるウェットティッシュを使って、昨夜のうちに何度も丁寧に拭き取った。完全に汚れが落ちたわけではないが、こびりついていた黒い塊の下からは、淡い茶色と黒の縞模様、キジトラの柄がわずかに姿を現していた。

 まだ目は開いていない。両手の手のひらにすっぽりと収まってしまうほどの、重さすらろくに感じない、ただの小さな命の塊。

 仁はドラッグストアで買ってきた子猫用の哺乳瓶に、人肌に温めた粉ミルクを入れた。手首の内側に数滴垂らし、熱すぎないことを慎重に確認する。

 箱の中にそっと手を差し伸べると、子猫は目が見えないまま、ミルクの甘い匂いと仁の手の熱だけを頼りに、不器用な足取りで這い寄ってくる。前足が空を切り、何度も段ボールの底でつまずきながら、必死に熱源を探している。

 哺乳瓶のゴムの乳首を口元に寄せると、小さな口をありったけの力で開けて吸いついた。

 チュパッ、チュパッという、水っぽい音が静まり返った部屋に響く。

 哺乳瓶を支える仁の親指に、針のように細く尖った前足の爪が突き立てられている。ミルクを飲むため、ただ今日を生き延びるために、本能のままにすがりついているのだ。皮膚に食い込むチクリとした微かな痛みが、今の仁にとっては唯一の、決して揺るがない現実の感触だった。


「……ゆっくり飲め。誰も取らない」


 誰に聞かせるわけでもない、低く穏やかな声が自然と口をついて出た。何年も使っていなかった声帯の筋肉が、少しだけ引きつるような感覚があった。

 子猫の小さな腹が、ミルクを飲み込むたびにリズミカルに膨らんだり縮んだりする。その薄い皮膚とあばら骨の内側で、人間よりも驚くほど早い心拍がドクドクと脈打っているのが、指先から直接伝わってくる。

 この温もりは、GPSの座標データでも、加速度センサーの無機質な数値でもない。

 どれだけあの見えないシステムが俺の日常をハッキングし、歩幅や傾きのデータを吸い上げてエモい偽物の画像を出力しようとも、この手の中にある命の脈動と重さだけは、絶対に奴らには再現できない。

 それが、得体の知れない監視の恐怖に狂いそうになっていた仁の精神を、ギリギリのところで現実の世界へと繋ぎ止める、小さな錨になっていた。

 腹を満たした子猫は、仁の親指に頭を擦り付けたまま、コトンと泥のように深い眠りに落ちた。

 その微かな寝息をしばらく聞いてから、仁はゆっくりと立ち上がり、ちゃぶ台の上に置かれた黒い絶縁テープ巻きのスマホを掴むと、ジーンズの右ポケットに深くねじ込んだ。


 午後9時30分。

 物流センターの休憩室は、蛍光灯の白々しい光で隅々まで満たされていた。

 夜勤のシフトに入る前の、短い待機時間。パイプ椅子と長机が並ぶだけの殺風景な空間には、これから深夜の単純作業に向かう覇気のない派遣社員たちと、日勤の残務処理を終えて疲労困憊で帰宅する正社員たちが入り混じり、特有の気怠く淀んだ空気が漂っている。

 仁が自販機で紙コップのブラックコーヒーを買い、振り返ると、休憩室の奥のテーブルに、見慣れた女性の姿があった。

 橘栞。31歳。

 この物流センターの、昼間のデータ管理部門を束ねる正社員だ。

 オフホワイトの柔らかいニットカーディガンに、首から下げた青い社員証のストラップ。綺麗に巻かれた栗色の髪から、ほのかに甘いフローラル系のシャンプーの香りが漂ってくる。ホコリと機械油の匂いが染み付いたこの殺伐とした職場で、彼女の周囲だけが別の世界から切り取られてきたように華やかで、そして清潔だった。

 仁にとって彼女は、ただの「昼間の管理職」ではない。

 入ったばかりでシステムのエラーを連発し、周囲から冷ややかな目で見られていた頃、誰よりも丁寧に、根気よく仕事を教えてくれたのが栞だった。底辺の派遣社員である俺を、決して見下すことなく、一人の人間として対等に扱ってくれる。彼女の屈託のない笑顔を見るだけで、深夜シフトですり減った自尊心が少しだけ修復されるような気がしていた。

 密かな、そして今の俺には絶対に手が届くことのない想い。


「あ、それめっちゃ可愛いですね。秋っぽくてエモい」


 テーブルの向かい側に座っていた乙女が、身を乗り出して高い声を上げた。


「本当? 良かった。昨日、恵比寿のサロンでやってもらったんだけど、ちょっと派手すぎたかなって気になってて」


 栞が嬉しそうに、自分の両手を顔の前にかざして見せた。

 仁はコーヒーの苦味を喉の奥に流し込みながら、少し離れた位置からそのやり取りを横目で見ていた。

 栞の指先には、新しいネイルアートが施されていた。

 ベースは深いボルドー色。人差し指と小指には、べっ甲のような複雑なマーブル模様が入っている。そして、左手の薬指には、極細のゴールドのワイヤーがS字にうねるように配置され、その中心に極小のパールが1粒だけ埋め込まれていた。


「全然派手じゃないですよ。そのワイヤーのうねり方とか、超絶妙じゃないですか。さすが橘さん、センス良すぎです。絶対高いでしょ、そのサロン」

「ふふ、ありがとう。今週末、ちょっと良いフレンチに行く予定があるから、気合入れちゃった」


 栞は両手を頬に当て、少し照れたように笑った。

 良いフレンチ。その言葉に、仁の胸の奥がチクリと痛んだ。

 彼女のような綺麗で仕事もできる女性に、相手がいないはずがない。週末のフレンチなんて、間違いなくハイスペックな男とのデートだろう。

 俺には一生縁のない世界だ。ポケットの中で無骨に丸まった絶縁テープの感触が、自分の立ち位置を残酷なまでに思い出させる。

 自嘲気味に息を吐いた時、不意に栞がこちらに気づき、パッと顔を輝かせた。


「あ、高田さん。おはようございます」

「……おはようございます。今日はずいぶん遅いですね」

「ええ、月末の棚卸しのデータがちょっと合わなくて。今やっと終わったところなんです」


 栞は立ち上がり、仁のすぐ近くにあるゴミ箱へ、空のミネラルウォーターのペットボトルを捨てに来た。

 すれ違いざま、彼女の左手が仁のすぐ目の前を通る。

 ボルドーとべっ甲のネイル。ゴールドのワイヤー。そして、左手首の少し上にある、薄茶色い小さなほくろ。


「高田さんも、最近お疲れみたいですね。顔色、あんまり良くないですよ。無理しないでくださいね」

「……ええ。ありがとうございます」


 栞の優しい声と、こちらを見上げる心配そうな瞳。

 それだけで、仁はポケットの中の黒い端末の不快な熱や、見えない監視の恐怖をほんの数秒だけ忘れることができた。

 彼女の存在だけが、この狂った日常における唯一の光だった。


 午前6時。

 深夜シフトを終え、仁は足早にアパートへ帰宅した。

 システムのエラーも出さず、今日は比較的スムーズに作業を終えることができた。アリアからの冷たい視線を感じることもなかった。

 重い鉄の扉を開け、部屋に入る。

 段ボール箱の中では、子猫が丸まって静かに寝息を立てていた。その小さな毛玉が呼吸に合わせて上下に動いているのを確認し、仁はホッと息を吐いてちゃぶ台の前に座り込んだ。

 ジーンズのポケットから、絶縁テープで巻かれたスマホを取り出す。

 昨日のヨガポーズの実験で、相手のシステムが「俺のセンサー数値を強引に解釈して絵を描き出しているだけのプログラム」だと分かった。

 ならば、必要以上に怯えることはない。次に奴がどんなフェイク画像を出力してくるのか、冷静に観察して、さらにシステムの矛盾を突くためのデータを集めるだけだ。

 仁は親指でロックを解除し、MINATOのアカウントを開いた。

 数時間前に、新しい投稿がアップされていた。


『忙しい日常を抜け出して、週末のささやかなご褒美。最高の時間。』


 添えられた気取ったテキスト。

 画像が表示される。

 薄暗く、間接照明だけがテーブルを照らす、高級レストランのような背景。

 大理石のテーブルの上には、2つのワイングラスと、美しく盛り付けられたフランス料理の皿が置かれている。

 画面の右側には、ダークグレーのジャケットを着た男の腕が写り込んでいる。MINATOの腕だ。

 そして、画面の中央。

 その男のジャケットの袖口に、そっと重ねるように置かれた「女性の左手」。

 仁の視線が、その女性の手の指先に吸い寄せられ、ピタリと止まった。

 仁はスマホの画面を親指と人差し指で弾くようにピンチアウトし、女性の左手だけを極限まで拡大した。


 ボルドーのベースカラー。

 薬指のゴールドワイヤーのミリ単位の歪なカーブ。

 そして、手首の薄茶色いほくろ。


 見えない巨大な手で胸ぐらを掴まれたように、肺から空気が根こそぎ奪われた。

 見間違えるはずがない。昨日、休憩室で見たあの手だ。橘栞の左手そのものだった。


「……なんで」


 喉の奥から、空気が擦れるような音が漏れた。

 合成? AIの仕業か?

 馬鹿な。カメラのレンズは黒いテープで完全に塞いでいた。ポケットから出してもいない。あの微細なワイヤーのカーブやほくろの位置を、環境音やGPSのデータだけで描けるわけがない。

 カメラからの視覚データじゃない。なら、なんだ。どうやって。

 脳内で警報が鳴り響く。思考回路が焼き切れそうに熱い。

 画像じゃない。

 現実だ。

 今、この瞬間、画面の向こう側の現実世界で。

 奴は、橘栞の向かいの席に座っている。


『今週末、ちょっと良いフレンチに行く予定があるから』


 休憩室での彼女の弾んだ声が、耳の奥で再生された。デートの相手。彼女が微笑みかけている男。

 見えないストーカーが、俺の皮を被った化け物が、すぐ手の届く距離で彼女の手首に触れている。

 視界がぐらりと傾いた。胃袋がひっくり返りそうになり、仁は畳の上に強く手をついた。

 指先が震え、手の中の黒い端末が音を立てて畳の上に滑り落ちる。

 画面の中のボルドーの爪先が、仁の惨めな姿を嘲笑っているように見えた。

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