第10話 アイデンティティの消失
畳の上に滑り落ちた黒い端末の画面。その中央で大写しになった、ボルドー色のネイルと極細のゴールドワイヤーが、網膜に焼き付いたまま離れない。
縁の欠けた古いちゃぶ台の横で、仁の呼吸は完全に止まっていた。
やがてバックライトがふっと途切れ、画面は漆黒へと暗転した。傷だらけの液晶フィルムが、薄暗い天井の豆電球をぼんやりと反射している。
四畳半の部屋の中は、息が詰まるほどの完全な静寂に包まれた。冷蔵庫の低いモーター音すら、遠い別の世界で鳴っているように聞こえる。
仁はイグサの擦り切れた畳の上に両手をつき、四つん這いのような無様な姿勢のまま、指先一つ動かすことができなかった。
気道に重いセメントを流し込まれたように、一切の空気が肺に届かない。パニックや激しい恐怖といった、心臓を叩くような動的な感情すら湧き上がってこなかった。ただ、頭のてっぺんから足の指先に向かって、急速に血液の温度が奪われ、内臓を丸ごと冷たい泥水に浸されているような、圧倒的で底なしの空洞感が全身を支配している。
自分が今、息をしているのかどうかも分からない。手足の先端から少しずつ皮膚の感覚が失われ、自分という人間の肉体の輪郭が、少しずつ室内の淀んだ空気に溶け出して消えていくような錯覚。
昨日、薄明るい休憩室で嗅いだ、フローラル系のシャンプーの甘い香り。
『今週末、ちょっと良いフレンチに行く予定があるから』
はにかむように頬に手を当て、少しだけ嬉しそうに笑っていた橘栞の表情。
その彼女の視線のすぐ先に、すぐ手の届くテーブルの向かい側に。俺の皮を被り、俺の肉体をスキャンして切り刻み、俺の顔面パーツを身に纏った見えないストーカーの姿が、生々しい質量を持って重なる。
頭蓋骨の内側を、無数の羽虫が這い回るようなノイズがチリチリと焼いていく。
栞は、今、誰と向かい合ってフレンチを食べている?
あのストーカー男と? 俺の顔のパーツを継ぎ接ぎして作った、あの不気味な化け物と?
なんで、何の疑問も持たずにテーブルに向かい合って座っていられる。
あの傷跡のある顎の自撮りを見て、違和感を覚えないはずがない。「高田さん」と毎日名前を呼び、データ入力の作業中に俺の酷い顔を直接見ている栞が、目の前の男の顔の作りに気づかないはずがない。
いや。
行き着く残酷な答えはただ一つ。
橘栞の記憶の中に、「高田仁」という派遣社員の顔など、最初から全く残っていなかった。
挨拶を交わし、仕事のミスを庇ってくれていたあの優しい時間は、彼女にとっては道端に転がっている石ころに声をかけるのと何ら変わらない、視界の端を通り過ぎるだけの無意味な背景ノイズでしかなかった。俺の顔の造作など、初めから彼女の意識には存在していなかった。
俺という存在の、耐え難いほどの希薄さ。
社会の歯車としても、好きな女の記憶の中の風景としても、俺は最初からこの世界のどこにも存在すらしていなかった。
カサッ、カサカサッ。
張り詰めた冷たい沈黙を破るように、部屋の隅に置かれた段ボール箱の中から、不規則な摩擦音が聞こえた。
仁は、まるで関節にガラスの破片が詰まっているような軋みを感じながら、ゆっくりと顔を上げた。ミリ単位で視線を動かすたびに、頸椎がギシギシと嫌な音を立てる。
箱の中を見ると、昨日拾ってきたキジトラの子猫が、敷いてある古タオルの端を必死に前足で引っ掻き、モゾモゾと落ち着きなくその場で回転していた。目やにで汚れた細い声で短く鳴きながら、タオルの繊維を懸命に掘ろうとしている。排泄のサインだ。
仁は抜け殻のように力が入らない身体をなんとか引きずり起こし、部屋の隅の壁際に置いてあったスーパーのレジ袋を引き寄せた。固く結ばれた持ち手を震える指で解き、中に買っておいた鉱物系の細かい猫砂の袋を取り出す。ハサミを使わずに手で袋の端を無理やり破り、百円均一で買った浅いプラスチックの書類トレーへとザラザラと流し込んだ。
摩擦で生じた、石灰と土の混じったような埃っぽい匂いが、部屋の淀んだ空気に舞い上がる。
仁は両手で子猫の柔らかく頼りない胴体を掬い上げ、猫砂の山の上にそっと下ろした。
子猫は、肉球に初めて触れる冷たくざらついた砂の感触にビクッと身体を震わせ、短い尻尾をピンと真っ直ぐに立てて硬直した。まだ完全に開いていない細い目で周囲の状況を把握しようと、小さなピンク色の鼻をヒクヒクとせわしなく動かし、鉱物の匂いを嗅いでいる。
やがて、その小さな脳の奥底に眠る野生の本能のスイッチが入ったのか。子猫は不器用な前足を交互に動かし、シャッ、シャッと一生懸命に砂を掘り始めた。まだ柔らかい爪がプラスチックの底まで達し、カン、カンという硬い音が部屋に響く。
ブルブルと後ろ足を小刻みに震わせながら、小さな腰を落として不格好に踏ん張る。
数秒間の、真剣な静寂。
無事に用を足し終えると、子猫は今度はクルリと向きを変え、後ろ足を使い、自分の排泄物を隠すために砂をかけようとする。だが、まだ神経と筋肉の発達が追いついていないため、全くバランスが取れない。自分の前足に砂をかけたり、何もない空気を空振りして必死に掻いたりして、あちこちによろけながら何度も砂の上に転がっている。
あまりに滑稽で、無防備で、不器用すぎる動作。
仁は畳の上に座り込んだまま、その小さな生き物の奮闘をぼんやりと見つめていた。
誰の目も気にせず、ただ自分の生理的な欲求に従って、必死に存在の痕跡を隠し、また生きていこうとする獣の姿。
昨日、公園でこの命の温もりに触れた時は、確かに現実の世界との強固な繋がりを感じたはずだった。自分を監視する得体の知れないシステムに対抗するための、確かな現実の重さだと思っていた。
しかし今、目の前で繰り広げられる子猫の必死な動きを見ても、仁の腹の底は氷のように完全に冷え切ったままだった。
確かな体温を持って懸命に足掻く小さな命の躍動を前にして、自分という人間の内側がいかに空っぽに干からびているかという事実だけが、ただ残酷に浮き彫りになっていく。
仁は薄汚れた壁に手をついて、ふらつく足取りで立ち上がり、ユニットバスへと向かった。
冷え切ったプラスチックのドアノブを回して押し開け、洗面台の蛇口を力任せにひねる。
冷たい水が勢いよく流れ出し、水飛沫が飛び散る。両手で水をすくい、顔に何度も何度も叩きつけた。水滴がボタボタとステンレスのシンクに落ち、シャツの胸元をぐっしょりと濡らしていくが、水の冷たさすら現実味を帯びてこない。
顔を上げ、水に濡れたままの状態で、正面の薄汚れた鏡を見据えた。
水垢のついた曇ったガラスの向こう。そこに映っているのは、社会の底辺でひっそりと腐敗していく孤独な男の姿だった。
かつては頑丈だったはずの骨格の上で、頬の肉は不健康に削げ落ち、目の下には消えることのない濃い土気色のクマがべっとりと張り付いている。
昨日、カミソリで力任せに削り落とした顎のラインには、血の滲んだ剥がれかけの安物の絆創膏が、不格好にいくつも貼られている。
これが、俺だ。
だが、鏡に映るその視覚情報が、仁の脳内で急速にゲシュタルト崩壊を起こし始めていた。
スマホの画面の中で、羨望を集めて完璧な笑みを浮かべる『MINATO』の顔が、鏡の中の自分の映像とノイズ混じりにオーバーラップする。
あの完璧な男の顔は、俺の肉体をスキャンして作られたものだ。
俺の骨格、俺の目つき、俺の顎にある三日月型の傷跡。
全く同じ素材、同じパーツで構成されているはずなのに。鏡の中の自分は、まるで出来の悪い失敗作か、製造過程で捨てられた粗悪なコピー品のように見えた。
「俺」というオリジナルの人間は、もうこの世界のどこにも存在しない。
鏡の表面に、水に濡れた右手の指先を這わせる。
冷たいガラス越しの、自分のひび割れた唇。窪んだ頬。
触れている指先の皮膚の感触と、鏡に映る映像の動きが、わずかにズレているように感じる。水滴が頬を伝い落ちるスピードすら、現実の重力に従っていないように見える。自分の肉体が自分の意志で動いているという確信が、音を立てて崩れていく。
俺の顔のパーツを着込んだ見ず知らずの化け物に、栞はテーブル越しに微笑みかけている。
俺の人生の惨めな断片は、エモい風景として見知らぬ他人に消費されている。
なら、今ここに立っている、この絆創膏だらけの惨めな肉体は、一体誰なんだ?
自分の目をじっと見つめ返す。
血走った濁った黒目の奥に、他人の視線が混ざっているような強烈な錯覚。
皮膚の下を流れる血液の温度も、呼吸のために規則的に動く横隔膜も、すべてが遠隔で入力されたプログラムコードのように感じられる。
「お前は……誰だ」
乾燥した喉から絞り出した声は、自分でも聞いたことのない、ひどく歪んで掠れた響きを持っていた。
鏡の中の男は、何も答えない。
ただ、どこか他人事のように、完全に焦点の狂った空っぽの目で、こちらを見つめ返しているだけだった。




