第11話 同化する周囲
午後4時。
四畳半の部屋は、どんよりと淀んだ重い鉛色の空気に深く沈んでいた。
朝から降り続く冷たい雨が、薄いガラス窓を不規則なリズムで叩き続けている。結露で白く濁ったアルミサッシの向こう側、ベランダの手すりの上に、ぼんやりとした黒い塊がうずくまっているのが見えた。
仁はイグサの擦り切れた畳の上に胡座をかいたまま、その影をじっと見つめた。
近所を縄張りにしている、片耳の欠けた巨大な野良の雄猫だ。雨風を凌ぐためか、アパートの2階のベランダの給湯器の上に乗って、背中を丸めている。黄色く濁った鋭い眼光が、ガラス越しに部屋の中を値踏みするようにギョロギョロと動いていた。
その時、部屋の隅の段ボール箱から、昨日拾ってきたキジトラの子猫がよちよちと這い出してきた。
ミルクを飲んで体力をつけ、少しだけ歩き方がしっかりしてきた子猫は、覚束ない足取りで部屋の探索を日課にし始めている。
子猫は、窓の向こうの巨大な影に気づき、ピタリと動きを止めた。
次の瞬間、小さな身体に備わっているすべての防衛本能が弾けた。
子猫は短い尻尾をタワシのようにボワッと膨らませ、全身の毛を逆立てた。小さな4つの足を踏ん張り、背中を極端な弓なりに曲げて、精一杯自分を大きく見せようとしている。
「……シャ、シャーッ」
ガラス越しに見えない敵へ向かって、威嚇の声を上げる。
だが、その声はひどく掠れていて、情けないほど細かった。踏ん張っているはずの細い足は小刻みにガクガクと震え、すぐにでも崩れ落ちそうに見える。
窓の外の雄猫は、そんな小さな命の必死な抵抗など全く意に介していない。ただつまらなそうに大きくあくびをし、鋭い牙を見せつけた。
その圧倒的な体格差と野生の圧力に、子猫はついに耐えきれなくなった。
「ミィッ」と短い悲鳴を上げ、クルリと背を向けて猛ダッシュで逃げ出した。擦り切れた畳の上で必死に爪を滑らせながら、一目散に向かった先は、微動だにしない仁の足元だった。
仁の着ているヨレたスウェットの裾の隙間に、小さな頭を強引に突っ込み、全身を丸めて隠れる。薄い布地越しに、人間とは違う小動物特有の異常なほど早い心拍と、恐怖に震える小さな筋肉の痙攣が直接伝わってきた。
仁は重い手を動かし、スウェットの裾から少しだけはみ出している柔らかな毛玉にそっと触れた。
指先に触れる、怯えきった命の生々しい振動。
俺を避難所にして、外の脅威から身を隠そうとしている。
だが、仁の腹の底には、この小さな命を守らなければというような前向きな感情は一切湧いてこなかった。
お前は間違えている。俺のところへ逃げ込んでも、誰も守ってなどくれない。俺には、自分自身の輪郭すら繋ぎ止める力がない。
窓の外の雄猫は、ひとしきり毛繕いを終えると、ベランダの手すりを蹴って雨の中へと消えていった。
「……もう、いないぞ」
ひび割れた声で呼びかけても、子猫はスウェットの裾から出てこようとしない。ただ暗くて狭い場所に身を潜め、脅威が完全に去るのをじっと待っている。
その震える小さな背中が、今の仁自身の惨めな姿と重なって見えた。薄暗い部屋の隅で、ただ嵐が通り過ぎるのを待つしかない無力な存在。膝を抱え、冷えた足先に伝わる畳の湿っぽい感触だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めている。
午後10時。
深夜の物流センターのフロアは、相変わらず冷え切った無機質な空気に満たされていた。
等間隔に並んだ長机。何十人もの派遣社員たちが、背中を丸め、無言でキーボードを叩き続けている。巨大な空調設備が発する低い唸り声が、空間全体に重くのしかかっていた。
仁はパイプ椅子に深く腰掛け、モニターに表示される在庫データの数字をただ機械的に入力していく。
数日前に洗面台でカミソリを使い、力任せに削り落とした顎の無精髭は、再びまばらに生え始めていた。カミソリ負けで炎症を起こし、赤黒く爛れた皮膚の上に、不揃いな黒い毛が中途半端に伸びている。数日前の絆創膏の跡がうっすらと残り、ひどく不潔で、疲れ切った男の顔だった。
「あ、先輩」
不意に、隣のデスクから丸山乙女が声をかけてきた。
「……なんだ」
仁はテンキーから指を離さず、モニターのチカチカする光に視線を固定したまま短く返す。
普段なら、乙女はそのまま自分のスマホに目を落とし、最新のコスメやSNSの愚痴を独り言のように続けるはずだ。
だが、今日に限って、彼女はキャスター付きの椅子を仁のデスクの境界線ギリギリまで寄せてきた。
そして、無言のまま、仁の横顔をじっと観察し始めた。
キーボードを叩く音だけが響く中、数秒の奇妙な沈黙が流れる。視界の端で、乙女の視線が自分の顎のラインや、伸びかけの無精髭のあたりを舐めるように動いているのが分かった。
「……どうした」
耐えきれず、仁が顔を向ける。
乙女は少し首を傾げ、本気で不思議そうな顔を作っていた。
「なんか、先輩……最近、雰囲気変わりました?」
胸の奥で、冷たくて重い鉛の塊がドスリと落ちる感覚があった。
「雰囲気?」
「はい。なんていうか……」
乙女はデスクの下に置いていた自分のスマホを手に取り、画面を数回タップする。派手なネイルを施された親指が、素早く画像を検索していく。
そして、その明るい画面を、仁の顔の目の前に突き出した。
表示されていたのは、MINATOのアカウント。
1週間ほど前に投稿された、あの『無精髭と傷跡のある顎』の自撮り写真だった。
「ここ最近の先輩、このMINATOにめっちゃ似てきてません?」
息が止まった。
フロアに響く巨大な空調の音が、突然遠ざかっていく。
乙女は無邪気な、しかし確信を持った声で続ける。
「前はもっと、ただ疲れて覇気がないおじさんって感じだったじゃないですか。でも、数日前にいきなりヒゲ剃って絆創膏だらけにしてきたあたりから、なんか顔の輪郭っていうか、雰囲気が変わったなって思ってて。で、今日またヒゲ伸びてきたの見たら、完全にこれじゃんって」
乙女の細い指先が、画面の中のMINATOの三日月型の傷跡をトントンと叩く。
「この傷の感じとか、髭の生え方とか、MINATOのこの写真にそっくりですよ。先輩、もしかして密かにMINATOのファンで、意識して寄せてます?」
寄せてる?
俺が、こいつに?
仁の口の中で、奥歯がギリリと嫌な音を立てて削れ合った。
全身の毛穴が一斉に粟立ち、首筋から背骨に沿って氷水を流し込まれたような鋭い寒気に襲われる。
違う。
逆だ。
こいつが、俺の顔を盗んでいる。
俺の生活、俺の惨めな失敗、俺の顔のパーツ。全部ハッキングして奪い取り、勝手に自分の素材として加工している。俺の顎だ。俺の傷跡だ。
俺がオリジナルで、こいつが偽物だ。
そう叫び出したくなる衝動が喉の奥まで込み上げたが、声帯は完全に麻痺してピクリとも動かなかった。
なぜなら、乙女のその悪気のない言葉が、決定的な残酷さを持って仁の喉を塞いでいたからだ。
世間の人間から見れば。
フォロワー15万人を抱え、高級フレンチを食べ、綺麗な女とデートをしている『MINATO』こそが、輝かしい『本物』として君臨している。
そして、深夜の倉庫で時給で働き、薄汚れたパーカーを着ている俺は、ただの惨めな底辺だ。
もし今、俺が「こいつが俺の顔をパクっているんだ」と叫んだところで、一体誰が信じる?
「痛いおっさんが、憧れのインフルエンサーの真似をして、ついに頭がおかしくなった」
そう嘲笑われて、気味悪がられるのがオチだ。
俺の顔は、もう俺の所有物ではなくなった。俺が俺であることを証明する手段は、完全に断たれている。
「……気のせいだろ」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れて、弱々しかった。
「えー、絶対寄せてますよ。まぁ、MINATOかっこいいから参考にするのは良いと思いますけど、やりすぎると痛いですよ」
乙女は興味を失ったようにスマホの画面を伏せ、キャスターを蹴って自分のデスクへと戻っていった。
仁の視界がグラグラと歪む。
俺が似ているのか? それとも奴が俺なのか?
自分の中にある自我の境界線が、どろどろに溶け出していく。
手先から急速に体温が失われ、テンキーに置いた指の感覚が完全に消失した。モニターに並ぶ数字の羅列が、意味を持たない虫の死骸の群れのように見えてくる。
俺が生きているこの現実より、画面の中の虚像の方が強い力を持っている。
俺の顔を着たMINATOに、栞はテーブル越しに微笑みかけている。職場の人間からは、インフルエンサーの真似をしている痛い男として処理される。
指先が震え、呼吸が浅くなる。周囲のタイピング音すら、俺を嘲笑う不協和音に変換されて耳を劈く。
ふと、強い視線を感じた。
視界の端。斜め前方の席。
アリアが、タイピングの手を完全に止めて、こちらを見ていた。
彼女のダークブラウンの深い瞳が、モニターの青白い光に照らされながら、瞬き一つせず真っ直ぐに仁の顔面を射抜いている。




