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第12話 予期せぬ出会い

 休日の深夜。

 雨上がりの湿った空気が、アスファルトの熱を吸って生温かい靄のように街の底に滞留している。

 仁は目的のない足取りで、オレンジ色の街灯が等間隔に並ぶ大通りを歩いていた。水たまりを避ける気力もなく、すり減ったスニーカーの底が泥水を跳ね上げる不快な感触だけが、足先から伝わってくる。

 四畳半のアパートに引きこもっていても、カビ臭い空気に息が詰まるだけだった。段ボール箱の中で丸くなる子猫の微かな寝息を聞いていると、どうしても乙女の無邪気な声が耳の奥で再生されてしまう。


『ここ最近の先輩、MINATOにめっちゃ似てきてません?』


 違う。俺が似ているんじゃない。俺の顔を盗んで着込んでいる化け物が、堂々と世間を歩き回っている。

 だが、そんな狂った真実を誰が信じるというのか。

 俺の顔も、人生の惨めな失敗も、すべては顔の見えないストーカーの養分として搾取されている。そして誰も、その異常さに気づいていない。


「……クソっ」


 吐き出した息は、濡れた夜の空気にすぐに溶けて消えた。

 喉のひどい渇きを覚え、道沿いにある古びた自動販売機の前に立ち止まる。蛍光灯の明かりに群がる羽虫をぼんやりと見上げながら、小銭入れを探ろうとジーンズのポケットに手を入れた時だった。

 横から不意に伸びてきた白い手が、自販機のボタンを迷いなく押した。

 ガコン、と硬い音を立ててブラックコーヒーの缶が取り出し口に落ちる。


「……え?」


 仁が驚いて横を向くと、そこに黒いトレンチコートを着たアリア・ラフマーニが立っていた。

 深夜の街角。周囲に人影はない。濡れたアスファルトに、彼女の長い影がくっきりと伸びている。彼女は落ちた缶コーヒーを拾い上げ、仁の胸元に無言で押し付けた。


「え、いや……」

「……歩くわよ」


 有無を言わせない、短く平坦な声。

 彼女は自分の分の微糖コーヒーを買い、仁の返事も待たずにさっさと歩き出した。深いダークブラウンの瞳は、いつも通り一切の感情を読ませない。職場のシステム管理者と、底辺の派遣社員。休日の深夜に偶然会って、連れ立って歩くような間柄ではないはずだ。

 仁は押し付けられた冷たい缶コーヒーを握りしめたまま、狐につままれたような気分で彼女の背中を追った。


 10分後。

 二人は、国道沿いにある24時間営業のダイナーのボックス席に向かい合って座っていた。

 深夜の店内はガラガラで、遠くの席でトラック運転手らしき男が突っ伏して寝ているだけだ。コーヒーのロースト臭と、染み付いた油の匂いが漂う空間に、BGMの古いジャズがやけに輪郭を帯びて聞こえる。

 客観的に見れば、男女の深夜の密かなデートだ。だが、安っぽいビニール張りのテーブルを挟んだ二人の間の空気は、氷を浮かべた水のように冷たく張り詰めていた。

 アリアはトレンチコートを脱ぎ、いつもの黒いタートルネック姿になった。彼女は目の前のコーヒーカップには一切手をつけず、真っ直ぐに仁を見据えている。


「……何の用だ」


 仁が耐えきれずに口火を切った。

 アリアは瞬き一つせず、淡々と答えた。


「この間の、トラフィックの異常。……原因は分かってるの?」


 職場での彼女の言葉が蘇る。


『そのポケットから、異常な量のデータが送られ続けてる』


 仁は無意識に、右のポケットの上から手を当てた。そこには今も、絶縁テープでぐるぐる巻きにされたスマホが入っている。布越しに、不快な熱を持っているのがはっきりと伝わってきた。


「……俺にも、よく分かってない。ただ、俺の生活が……俺の顔が、盗まれてる」


 誰にも信じてもらえないと分かっていながら、精神的な限界に達していた仁の口から、無防備な言葉がこぼれ落ちた。

 アリアは鼻で笑うことも、怪訝な顔をすることもなく、ただ静かに頷いた。


「……端末を出して」


 感情のない、静かな命令だった。

 仁は躊躇したが、彼女の瞳の奥にある、バグを解析するプログラマー特有の鋭利な光に押され、ポケットから真っ黒な塊を取り出した。

 テーブルの上に置かれたそれを見て、アリアの整った眉がわずかに動いた。


「……物理的遮断。カメラレンズの封鎖」


 彼女は黒い革手袋を外し、冷たい素手でそのテープ巻きのスマホに触れた。裏返し、側面のボタンを確認し、再び表に戻す。


「馬鹿ね」


 静かな、だが確信に満ちた声だった。


「カメラを塞げば、視界を奪えると思った? 今のモバイル端末のセンサーを甘く見すぎ」

「どういう意味だ」

「……音声データ、位置情報、それに端末の微細な傾きや加速度。あんたが持ち歩いているその箱から垂れ流される膨大なメタデータさえあれば、視覚情報がなくても、周囲の空間や骨格の動きなんてサーバー側でいくらでもモデリングできる」


 シャツの下で、じっとりと嫌な汗が滲み出し、脇腹を伝い落ちるのを感じた。

 丸山乙女が都市伝説として語っていた「AIによる風景の自動生成」が、プロの口から現実の技術として裏付けられた瞬間だった。


「奴らは、俺の歩幅や心拍から……俺の行動を予想して、絵を作ってるのか」

「……予想じゃないわ。入力された数値を、向こうのシステムが勝手に都合のいい絵として出力してるだけ」


 アリアはスマホから手を離し、仁の目を真っ直ぐに見返した。


「……明日、職場の裏口にそれを持ってきなさい」

「え?」

「私が中身を抜いてあげる。どんなバックドアが仕掛けられているか、パケットの送信先IPはどこか。……知りたいんでしょ」


 彼女の提案は、暗闇の底に垂らされた蜘蛛の糸のようだった。

 なぜ、そこまでしてくれるのか。職場の同僚というだけの俺に。


「どうして……」


 仁が理由を問おうとした瞬間、アリアはコートを手に取り、素早く立ち上がった。


「……気分よ」


 それだけを言い残し、彼女は伝票を持ってレジへと向かってしまった。

 残された仁は、テーブルの上の黒い端末を見下ろした。彼女の冷たい指先が触れた部分だけが、わずかに結露している。

 見えない敵の正体に、初めて物理的に手が届くかもしれない。腹の底で、死にかけていた闘志の火種がチリッと音を立てて爆ぜるのを感じた。


 午前1時。

 アリアと別れた仁は、アパートへの帰り道にある深夜のコンビニに立ち寄った。

 段ボールの中で待っている子猫のための、粉ミルクと離乳食のパウチを買うためだ。アリアとの対話を経て、少しだけ足取りが軽くなっていた。

 自動ドアがウィーンと音を立てて開く。

 白々しいLEDの光が、網膜をチカチカと刺激する。深夜特有の、揚げ油と床用洗剤が混ざったような匂い。

 猫用品のコーナーへ向かおうと、飲料ケースの並ぶ通路の角を曲がった瞬間だった。


「あっ」


 小柄な人影と、激しく正面衝突した。


「痛っ……すみません!」


 相手は若い女性だった。衝突の反動で彼女は尻餅をつき、抱えていた大きめのタブレット端末と、カゴに入っていた栄養ドリンクやカップ麺が床のタイルに散乱した。


「悪い、大丈夫か」


 仁は慌ててしゃがみ込み、散らばった商品を拾い集めた。

 女性が顔を上げる。

 頭には、現代風にアレンジされた淡いブルーのヒジャブが巻かれている。東南アジア系の、エキゾチックで愛らしい顔立ち。だが、その大きな瞳の周りには、痛々しいほど濃い、赤黒いクマがべっとりと張り付いていた。肌の血色も悪く、極度の疲労困憊で今にも倒れそうな顔色だ。


「本当にごめんなさい、私、ちょっとぼーっとしてて……」


 たどたどしいが、綺麗な日本語だった。

 彼女が自分の商品をカゴに拾い集めている隙に、仁は彼女の足元に裏返って落ちていたタブレット端末に手を伸ばした。

 仕事用の機材だろうか。かなり大型のiPadだ。

 拾い上げ、表に返す。

 落とした衝撃でスリープが解除されたのか、画面が明るく点灯していた。


「……ん?」


 仁の動きが、完全にフリーズした。

 画面に表示されていたのは、高度な画像編集ソフトの作業画面だった。

 右側には無数のレイヤーが重なり合い、中央には1枚の画像が表示されている。

 そこにあったのは、見慣れた壁紙だった。

 タバコのヤニと日焼けで黄ばんだ、昭和の安アパート特有の壁紙。

 下の方には、イグサが擦り切れてささくれた畳の縁が写り込んでいる。壁の隅にある、俺がコーヒーをこぼして作ったシミの形まで同じだ。

 俺の部屋だ。

 間違いなく、俺が今朝まで座っていた四畳半の部屋の背景だった。

 だが、その画像は「加工」の途中だった。

 黄ばんだ壁紙の上から、半透明の「大理石風のテクスチャ」のレイヤーが被せられようとしている。擦り切れた畳の上には、毛足の長い高級なペルシャ絨毯の画像が、パースを正確に合わせて合成されている最中だった。

 画面の端に、スタイラスペンで手書きされた赤い修正指示の文字が見える。


『AIの補正漏れ。壁のシミ(生活感)を手作業で完全に消去すること。納期厳守』


 首を直接絞め上げられたように、気道が完全に塞がった。

 鼓膜の奥で、警報のような耳鳴りが激しく鳴り始める。

 俺の部屋のデータが、なぜこんなところに。

 この女は、何者だ。


「あの、それ……」


 タブレットを返してもらおうと、女性が仁の手元を覗き込んだ。

 そして、画面の向こう側にいる仁の顔を、間近で見た瞬間。


「えっ……?」


 彼女の大きな瞳が、極限まで見開かれた。

 濃いクマのある目が、仁の骨格、鼻筋、そして顎にある三日月型の傷跡を、信じられないものを見るように凝視している。


「あなた……」


 震える声。

 彼女は床に座り込んだまま、怯えたようにズルズルと後ずさりした。


「あなた、嘘……なんで、素材の……本物が、ここに……?」


 彼女は腰を抜かしたまま、ガタガタと肩を震わせ、目の前に立つ仁の顔を幽霊でも見るかのような目で見上げていた。

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