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第13話 ピクセルの真実

 深夜のコンビニエンスストア。白々しいLEDの光が、タイルの床に散乱した栄養ドリンクの茶色い小瓶やカップ麺を無機質に照らし出している。

 衝突した反動で尻餅をついた若い外国人女性は、腰を抜かしたままズルズルと後ずさりをした。ヒジャブからこぼれ落ちた黒髪が汗で額に張り付いている。極度の疲労で赤黒く落ち窪んだ彼女の大きな瞳は、目の前に立つ仁の顔面――無精髭を削り落とした顎と、三日月型の傷跡――を、信じられないものを見るように凝視していた。


「あなた、嘘……なんで、素材の、本物が……」


 震える唇から漏れ出た、たどたどしい日本語。

 仁は床に片膝をつき、彼女の足元に落ちていた大型のタブレット端末を拾い上げた。

 衝撃でスリープが解除された画面が、青白い光を放っている。

 そこには、高度な画像編集ソフトの作業画面が表示されていた。

 タバコのヤニで黄ばんだ壁紙。擦り切れてささくれた畳の縁。

 俺の部屋だ。

 今朝まで俺が座り込み、子猫にミルクをやっていた四畳半のアパートの風景。

 だが、その画像は異様な状態にあった。

 画面の右側に、無数の『レイヤー』と呼ばれる階層パネルが縦に並んでいる。

 一番底にあるパネルの名前は『Base_Image』。そこに映っているのは、薄暗い部屋でうなだれる俺自身の惨めな姿だ。

 その上に、『AI_Lighting』『骨格調整_03』『肌質置換』といった不気味な名前のフィルターが何重にも積層し、俺の姿を完全に別の何かに作り変えている。

 そして、今まさに彼女が作業していたと思われる、一番上にアクティブになっているレイヤー。


『ノイズ消去_手作業(生活感)』。


 スタイラスペンによる赤い手書きの指示書が、画面の端に添えられていた。


『AIの補正漏れ。壁のシミと畳の擦り切れを手作業で完全に消去すること。ペルシャ絨毯のパース合わせ。納期厳守』


 見えない鈍器でみぞおちを殴りつけられたように、仁の身体がくの字に折れ曲がった。

 喉の奥から、ヒューッという情けない音が鳴る。

 俺の生きた痕跡。染み付いたコーヒーの汚れ、生活の匂い。俺という人間が形作ってきた泥臭い現実が、ここでは単なる『ノイズ』として処理されている。AIのアルゴリズムでは消しきれなかった微細なゴミを、この目の前で震えている女が、手作業でピクセル単位で削り落としている。


「素材って、なんだ」


 自分でも驚くほど、重く濁った声が出た。


「知らない……私、ただ、チャットで送られてくる仕事を……」

「俺の部屋だぞ、これ。お前、何者だ」


 一歩距離を詰めると、女性はビクッと肩を跳ねさせ、自分の両腕をきつく抱きしめた。焦点の合わない目で、首を激しく横に振る。


「やめて……! 納期、明日……間に合わなかったら、クビ……また国に……」


 彼女は悲鳴に近い声を上げ、仁の手からタブレットをひったくるように奪い取った。

 仁は抵抗しなかった。指先から完全に力が抜け、冷たい金属の板が手のひらをすり抜けていく。

 彼女は床に散らばった自分のカゴの商品を拾うこともせず、立ち上がり、自動ドアに激突しそうになりながら夜の闇へと逃げ出していった。

 床に残された栄養ドリンクの小瓶が、コロコロと音を立てて冷たいタイルの上を転がっていく。

 仁は膝をついた姿勢のまま、空になった自分の手のひらを見つめていた。

 ピクセル単位で解体され、ゴミとして削り取られていく俺の人生。

 MINATOの輝かしい虚像の裏側には、高度なAIシステムと、底辺で酷使される人間の手作業という、あまりにも泥臭くグロテスクな真実がへばりついていた。


 数日後の休日。

 初夏に近い強い日差しが、表参道のアスファルトを白く照り返している。

 仁は人混みの中、少し前を歩く丸山乙女の背中を無言で追っていた。

 発端は昨日の終業時だった。


『先輩、MINATOが昨日アップしてたお洒落なカフェ、見つけたんですよ。一緒に行きません? 先輩、最近MINATOに寄せてるから、並んで歩いたら絶対映えるし』


 断る気力も湧かなかった。アパートの狭い空間にいると、削り取られた自分のピクセルの残骸が部屋の隅々に散らばっているような錯覚に陥り、頭がおかしくなりそうだった。段ボール箱の中で少しずつ大きくなる子猫にミルクをやる時以外は、何かにすがりついていないと自我が崩壊しそうだった。

 それに、俺がMINATOの「聖地」に行けば、あの監視システムはどう反応するのかという、自暴自棄な好奇心もあった。


 乙女は普段のくたびれた作業着姿とは全く違い、肩を大胆に出した水色のブラウスとタイトなスカートに身を包んでいた。綺麗に巻かれた明るい茶髪から、ココナッツのような甘い香水が漂ってくる。

 彼女は人波を縫って歩きながら、常にスマホを顔の高さに構えていた。

 ガラス張りのショーウィンドウ、並木道の緑、そして自分自身の顔。息をするようにシャッターを切り、画面を確認し続けている。


「あ、先輩。そこ立ってください! 光の入り方めっちゃ良いんで」


 乙女が唐突に振り返り、スマホの背面レンズを真っ直ぐに仁の顔へ向けた。

 黒く、丸い、無機質なガラスの穴。

 その瞬間、仁の首筋の筋肉が反射的に硬直した。

 あのレンズの奥に、俺の日常を吸い上げ、切り刻み、ノイズとして消去していく巨大なシステムが直結している。


「やめろッ!」


 仁は腕を強く振り払い、乙女のスマホを持つ手を乱暴に弾いた。


「キャッ!」


 スマホが手から滑り落ちそうになり、乙女が慌てて両手でキャッチする。


「な、なんですか急に。落とすところだったじゃないですか」


 彼女が本気で不満げに眉をひそめる。


「……悪い。カメラは、嫌いなんだ」

「もう、びっくりさせないでくださいよ。せっかく盛れるフィルター見つけたのに」


 乙女はすぐに気を取り直し、画面を数回タップして何事もなかったかのように自分の自撮りを再開した。


 目的のカフェは、大通りから路地を1本入った、コンクリート打ちっぱなしの建物の2階にあった。

 テラス席に座る。大理石風の白いテーブル。

 乙女はパンケーキと色鮮やかなラテを注文し、それが運ばれてくると、フォークを持つ前に何十枚も角度を変えて写真を撮り始めた。

 仁は目の前のブラックコーヒーのカップを見つめたまま、その様子を沈黙して眺めている。


「ほら、見てください先輩」


 乙女がスマホの画面を見せてくる。


「ここの影、アプリで飛ばすとこんなに明るくなるんですよ。あと、奥に写り込んじゃったおじさんも……」


 乙女の親指が画面を軽くスワイプする。

 すると、背景の席に座っていた無関係の初老の客が、背景のコンクリート壁と同化するようにスッと歪み、消え去った。


「消すのは、簡単なんだな」


 ひどく乾いた声が出た。


「簡単ですよ。いらないものは、サクッと消しちゃえばいいんです。その方がタイムラインが絶対綺麗になるし」


 無邪気で、何の悪気もない残酷な言葉。

 俺のヤニ汚れも、コーヒーのシミも、この女が指先でやっているように『いらないもの』としてサクッと消された。

 あの深夜のコンビニで怯えていた、得体の知れない下請けの女の手によって。

 乙女は加工を終え、満足そうにパンケーキにナイフを入れる。

 甘いメープルシロップの匂いが初夏の風に乗って鼻を突き、胃液がじわりとせり上がってくる。

 俺の現実は、どこまでが本物なのか。

 目の前で無邪気に笑っているこの女も、本当にただの職場の後輩なのか。俺が今日、このカフェに連れ出されたことすら、あのシステムが計算して誘導した結果なのではないかと、疑心暗鬼が肥大化していく。


「先輩、今日なんか中身が空っぽですね」


 口の端にクリームをつけた乙女が、可笑しそうに笑う。

 その笑顔の奥に、俺の顔のパーツを継ぎ接ぎして作られたMINATOの薄気味悪い笑みが重なって見えた。

 頭の芯がグラグラと揺れる。

 テーブルの大理石の模様が、ピクセル状の四角いノイズに分解されていくように歪んで見えた。仁は手元のコーヒーカップを握りしめ、自分が今いるこの現実の世界の解像度が、少しずつ荒く崩れ落ちていく感覚に、ただ目を閉じて耐えることしかできなかった。

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