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第14話 視覚的偽装の解体

 カフェの大理石のテーブルが、ピクセルの塊に分解されて見えたあの日から、仁は自分が今どこに立っているのか、本気で見失いかけていた。

 呼吸をするたびに、肺に入ってくる空気がデジタルの乱数に変換されているような錯覚が消えない。職場でタイピングをしていても、自分の指先が他人のリモコンで遠隔操作されているように感じられる。

 自我の輪郭を完全に喪失してしまう前に、俺の肉体が俺のものであるという「物理的な証明」が必要だった。

 仁がすがりつける唯一の手がかりは、深夜のコンビニでぶつかった、あの外国人女性しか残されていなかった。


 深夜2時。

 雨上がりの湿ったアスファルトの匂いが漂う、コンビニの駐車場。

 仁は店舗から少し離れた暗がりにある車止めのブロックに座り込み、入り口の自動ドアをじっと見張り続けていた。

 待ち伏せを始めてから、今日で3日目になる。

 夜勤がない休日の夜をすべてここに費やしていた。自販機で買ったブラックコーヒーはとっくに冷めきり、結露した水滴が指先を濡らしている。寝不足で充血した両目は乾ききり、まばたきをするたびに砂粒が擦れるような痛みが走った。

 自動ドアがウィーンと音を立てて開く。

 出てきたのは、ジャージ姿の大学生らしき男だ。

 違う。

 仁は冷えた缶コーヒーの表面を親指で無意味になぞりながら、視線を再びアスファルトに落とした。

 俺は幽霊じゃない。ここにいる。

 そう自分に言い聞かせるように、ジーンズの太ももを何度も強くつねる。鈍い痛みが走るが、それすらも作り物のリアクションのように思えてしまう。

 午前3時半を回った頃だった。

 大通りの向こうから、傘も差さずに小柄な人影が歩いてくるのが見えた。

 淡いブルーのヒジャブ。小脇に抱えられた大きな黒いタブレットケース。

 間違いない。あの夜、俺の部屋の画像を加工していた女だ。

 仁は車止めから勢いよく立ち上がった。足が痺れてよろけたが、構わずアスファルトを踏みしめて彼女の正面に回り込む。


「……待ってくれ」


 女性はビクッと肩を跳ねさせ、顔を上げた。

 充血した目と、伸びかけの無精髭。街灯のオレンジ色の光の下に立つ仁の顔を見た瞬間、彼女の顔からサッと血の気が引いた。


「ひっ……!」


 悲鳴を飲み込み、彼女は反射的に踵を返して逃げようとした。

 仁は咄嗟に彼女の腕を掴もうとして、空中でギリギリのところで手を止めた。他人の身体に触れれば、完全な不審者として通報される。


「何もしない! 頼む、俺は……俺の人生がどうなってるのか、知りたいだけなんだ」


 アスファルトに両膝をつく勢いで、仁は深く頭を下げた。

 深夜の静寂の中、仁の荒い呼吸音だけが響く。

 数秒の膠着状態。

 女性は逃げる姿勢のまま、仁の様子を窺っていた。彼女の目には、獲物を狙うストーカーへの恐怖よりも、正体不明のエラーに直面したような激しい混乱が浮かんでいる。


「……あなた、本当に『素材』の人?」


 掠れた、警戒心に満ちた声だった。


「ああ。高田仁だ。あの画像に写っていた壁のシミも、擦り切れた畳も、俺の部屋だ」


 顔を上げた仁と、ヒジャブの女性の視線が交差する。

 互いに一睡もしていないのだろう。疲労で目の奥がひどく落ち窪み、焦点が合いきっていない。監視とパラノイアに精神を削られた男と、底辺のブラック労働で搾取され続けている女。二人の間に、警戒と疲弊が入り混じったヒリヒリとするような沈黙が落ちた。


「……サフィヤ・ラムリです」


 彼女がぽつりと名乗った。


「ここで話すのは、無理。……明日の昼間なら」


 サフィヤは周囲を警戒するように見回し、小さな声で場所と時間を指定した。

 その言葉を聞き届けた瞬間、仁の膝から完全に力が抜け、冷たく濡れたアスファルトに手をついた。


 翌日の午後1時。

 休日のファミリーレストランは、家族連れや学生たちの騒々しい喧噪で満ちていた。ドリンクバーの氷がグラスにぶつかる音、子供の泣き声、厨房から聞こえる食器の重なる音。

 窓際のボックス席で、仁とサフィヤは向かい合って座っていた。

 周囲の平和な喧噪から完全に切り離されたように、二人のテーブルだけが泥のように重く殺伐とした空気に沈んでいた。

 サフィヤは地味なベージュのブラウスに身を包み、手元のホットティーのカップを両手で包み込むようにして握っていた。仁も洗いたてのパーカーを着てきたが、緊張で手のひらにはびっしょりと嫌な汗をかいている。


「私は、映像や画像のレタッチを下請けする会社で働いてます。……とても、小さな会社です」


 サフィヤが顔を伏せたまま、探り探り口を開いた。


「クライアントから送られてくる大量の画像データの中に、あなたの部屋の画像が混ざっていました。AIが自動生成で背景を高級ホテルに書き換えるんですけど、元の部屋の汚れやゴミが多すぎて、AIが処理しきれずに残ってしまうんです。それを、私が手作業のスタンプツールで消して、綺麗なペルシャ絨毯に馴染ませる仕事をしていました」


 淡々と語られる労働の実態。

 俺の生活の痕跡が、システムのエラーとして弾かれ、この手でピクセル単位で消し去られていた。


「俺の……顔は?」


 仁は身を乗り出し、テーブルに肘をついた。


「あいつは、MINATOは、俺の顔を使ってる。俺の傷跡も、髭の生え方も全部同じだ。俺の顔が、あいつに乗っ取られてるんだ。俺のオリジナルが消えかけてる」


 一気に捲し立てる仁の言葉に、サフィヤは少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。

 彼女は黒いタブレットケースのジッパーを開け、巨大なiPadを取り出してテーブルの中央に置いた。

 パスコードを入力し、画像編集ソフトを立ち上げる。


「……勘違いしています」


 サフィヤの細い指先が、画面を数回タップする。


「あなたの顔は、奪われてなんていません」


 画面に表示されたのは、MINATOがSNSにアップしていたあの『無精髭と傷跡のある顎』の画像だった。

 サフィヤはスタイラスペンを取り出し、画面の右端にあるレイヤーパネルを操作し始めた。


「この画像、元から不自然なんです。私はただのレタッチャーだから裏のプログラムのことは分かりません。でも、加工ソフトで見ればすぐに分かります」


 ペンの先で、レイヤーの目玉マークが次々とオフにされていく。

 MINATOの完璧な肌の質感が消え、荒いノイズが現れる。さらに別のレイヤーをオフにすると、顎のラインのシャープさが失われ、輪郭がわずかに横に広がった。


「クライアントが送ってくるベースの顔画像があって、そこに『別の誰かのパーツ』を切り貼りしているんです。光源の向きも、影の落ち方もバラバラで、いつも私が手作業で自然に見えるように修正させられています。これを見てください」


 サフィヤが一番下のベースレイヤーだけを表示させた。

 そこに映っていたのは、仁の顔ではなかった。のっぺらぼうのような、特徴のない灰色の3Dポリゴンのマネキンだった。


「……え?」

「これがベースです。このマネキンに、別の画像のテクスチャを貼り合わせてる。一番上に重ねられている『傷跡』や『無精髭』のパーツが、あなた自身の写真から切り抜かれたものです。それを、このマネキンの上にスタンプのように合成しています」


 サフィヤはタブレットから顔を上げ、仁の目を真っ直ぐに見据えた。


「魂を乗っ取るような技術じゃありません。AIが作ったベースの上に、あなたの顔のパーツをパッチワークみたいに貼り合わせている、ただの合成画像です。あなたの顔は、あなた自身の顔の上にちゃんとあります」


 ただの、合成画像。


 その言葉が、仁の鼓膜を震わせ、脳の奥深くまで突き刺さった。

 テーブルの上のタブレット画面を見下ろす。のっぺらぼうのポリゴンモデル。

 ここに、俺の顔は乗っていない。俺の存在が丸ごと吸い取られたわけじゃない。

 奴らは、どこかから盗んだベースの上に、俺の無精髭や傷跡をただの着せ替えパーツとして乗せ、その上にフィルターを被せてごまかしている。

 MINATOが俺に似てきているんじゃない。奴が俺の顔のテクスチャを剥ぎ取り、精巧なマスクとして悪用している。

 仁はゆっくりと右手を上げ、自分の顎にある三日月型の傷跡に指先を触れた。

 少し隆起した、硬い皮膚の感触。

 指の腹で強く押し込むと、チクリとした痛覚が確かに脳に伝達される。

 血が流れている。体温がある。

 俺の輪郭は、俺の肉体の中に確固たる重さを持って存在している。

 誰にも奪われていない。俺は、幽霊でもフリー素材でもない。血と肉を持った、生身の人間だ。

 視界を覆っていた不気味なピクセルのノイズが、ファミレスの騒がしい現実の空気の中で、パラパラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


「ただの……デジタルの切り貼りか」


 絞り出すように呟いた仁の言葉に、サフィヤは無言でこくりと頷いた。

 得体の知れないバケモノへの恐怖が、パソコンの前に座って画像を切り貼りしている「生身の人間」という輪郭を持った敵へと姿を変えた。

 幽霊じゃないなら、殺すことができる。システムなら、破壊することができる。

 胃の底でドス黒く凍りついていた恐怖の塊が、急速に熱を帯び、マグマのような怒りへと変貌していく。


「……ありがとう」


 仁が短く礼を言うと、サフィヤは少しだけ驚いたように目を丸くし、それから力なく視線を落とした。


「お礼を言われる筋合いはありません。私は……あなたの生活を消して、偽物を作る手伝いをしてたんですから」

「あんたも、使われてるだけだろ。その目を見れば分かる」


 仁の言葉に、サフィヤは唇を強く噛み締めた。

 仁はテーブルの上の冷水が入ったグラスを掴み、一気に飲み干した。

 氷がカランと乾いた音を立てる。

 俺の部屋を覗き、俺の顔を盗み、俺の好きな女とフレンチを食っているクソ野郎。

 グラスを握りしめる右手にギリギリと力が込められ、手の甲に青い静脈がはっきりと浮き上がっていた。

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