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第15話 スマホという裏切り者

 ファミレスの冷房が効きすぎた空間から外へ出ると、初夏の重く湿った空気が全身にまとわりついてきた。

 サフィヤとは駅前で別れた。彼女は怯えた小動物のような目で何度もお辞儀をし、休日の雑踏の中へ逃げるように消えていった。

 仁は自分のジーンズの右ポケットの上から、手のひらを強く押し当てた。

 分厚いデニム生地越しでも、中に入っている黒い端末が不快な微熱を帯びているのが分かる。


『AIが作ったベースの上に、あなたの顔のパーツをパッチワークみたいに貼り合わせている、ただの合成画像です』


 サフィヤの震える声が、耳の奥にへばりついて離れない。

 俺はこの数年間、1日何時間この黒い板の画面を見つめてきた?

 薄暗いアパートの万年床の上で。コンビニのイートインスペースで。深夜の物流センターのトイレの個室で。

 暇さえあれば無意識にこの端末を顔の前に掲げ、SNSのタイムラインやどうでもいいニュースサイトをスクロールし続けていた。誰かと繋がっているような錯覚を得るためだけに、無防備な顔をガラスの板に晒し続けていた。

 その間ずっと、こいつのフロントカメラは起動し続け、俺の顔面を、疲労で歪む筋肉の細かな動きを、毛穴の一つ一つに至るまで克明にスキャンして、見知らぬサーバーへ送り続けていた。

 自分の最もパーソナルな領域に、得体の知れない寄生虫を飼い慣らしていたようなおぞましさ。

 頭蓋骨の裏側を冷たい泥水で直接洗われているような強烈な悪寒を覚え、仁は路地裏の電柱に肩を預けて荒い息を吐いた。

 俺の人生を監視し、解体し、フリー素材として貪り食っていた本当の裏切り者は、ずっと俺の右ポケットの中にいた。


 翌日の午後2時。

 仁は指定された通り、物流センターの裏側にある従業員用の搬入口へと足を運んだ。

 今日は昼間の稼働日で、大型のトラックがひっきりなしに出入りし、排気ガスの臭いとアスファルトの熱気が渦巻いている。

 搬入口の巨大なシャッターの横、自販機の陰に人影があった。

 アリアだ。

 彼女はいつものタートルネックやスラックスではなく、黒いライダースジャケットに、身体のラインに沿った色落ちしたスキニーデニムを合わせていた。長い黒髪は無造作にクリップでまとめられている。職場でのシステム管理者としての顔とは違う、どこかストリートの空気に馴染んだ攻撃的な装いだった。


「遅い」


 アリアは仁の姿を認めるなり、挨拶もなく短く告げた。


「……すまない」

「ここじゃ誰に見られるか分からない。歩くわよ」


 彼女はそれだけ言うと、仁の返事を待たずに歩き出した。

 仁は少し距離を開けて、彼女の背中を追う。

 休日の昼下がり、駅前の賑やかな商店街へと向かう道。すれ違う人々には、休日に待ち合わせて歩く平凡な男女に見えるのだろう。

 だが、前を歩くアリアの歩調は一定で隙がなく、背後を歩く仁の神経も極限まで張り詰めている。二人の間に甘い空気など微塵もない。

 駅前の喧騒を抜け、アリアは裏路地にある古びた雑居ビルの地下階段を下りていった。

 錆びた真鍮の看板には『純喫茶・琥珀』と書かれている。

 カラン、とドアベルが鈍い音を立てた。

 店内はタバコのヤニで壁が黄ばみ、焙煎された古いコーヒー豆と湿った布の匂いが染み付いていた。客は誰もいない。カウンターの奥で、白髪のマスターがスポーツ新聞から顔を上げただけだ。

 アリアは一番奥の、革が破れたボックス席に滑り込み、仁にも向かいに座るよう顎で促した。


「ブレンドを2つ」


 マスターに注文を済ませると、彼女は肩から下げていた大きめの黒いトートバッグのジッパーを開けた。

 中から取り出されたのは、分厚く無骨なノートPCだ。ステッカーも何もない、つや消しの黒い筐体。


「出して」


 短い要求。

 仁はポケットから、絶縁テープでぐるぐる巻きにされたスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。

 アリアの細い指先が、PCの側面から伸びた黒いケーブルを、仁のスマホのポートに無造作に突き刺す。

 まるで、死体から血液を抜き取るような冷徹な動作だった。

 PCの電源が入り、画面が真っ暗なコマンドプロンプトに切り替わる。

 アリアはキーボードの上に両手を置き、一瞬だけ目を閉じた。

 次の瞬間、凄まじい速度で打鍵音が鳴り響いた。

 カタカタカタカタッ、という音が、静かな喫茶店内に異質なノイズとして響く。画面上には、素人には全く理解できない緑色の文字列が、眼球を切り裂くような速度で下から上へとスクロールしていく。

 仁は固唾を呑んで、その横顔を見つめた。

 彼女のダークブラウンの瞳には、画面のコードが猛スピードで反射している。そこには獲物の喉笛を狙うような、底知れない冷たさと集中力が宿っていた。


「……」


 数分間の沈黙の後、アリアの指の動きがピタリと止まった。

 緑色の文字列の動きが停止し、画面の中央に赤い警告文のようなダイアログが表示される。


「……ビンゴね」


 アリアは低く呟き、PCから視線を外さずに言った。


「何が分かった」


 仁は身を乗り出し、声を潜めた。


「OSのカーネル部分。一番深い、脳みそにあたる場所に、悪意のあるプログラムが寄生してる。ただのマルウェアじゃないわ。かなり高度にカスタムされたスパイウェア」


 アリアの指先が、画面の赤い文字列の一部をトントンと叩く。


「カメラのレンズは、あなたがテープで物理的に塞いでる。でも、このスパイウェアは端末の『視覚以外の機能』を全部ジャックして、バックグラウンドで24時間、特定のIPアドレスに向けてパケットを投げ続けてる」

「じゃあ……俺の顔の映像は、今は送られていないのか?」


 仁の問いに、アリアはゆっくりと首を横に振った。


「送る必要が、もうないのよ」

「どういうことだ」

「このスパイウェアが仕込まれたのがいつかは分からない。でも、あなたがカメラを塞ぐまでの間に、フロントカメラが捉えたあなたの顔の表情や筋肉の動きは、すでにすべて向こうのサーバーに送られきっている」


 テーブルの下で、仁の両手が固く握りしめられた。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。


「奴らはあんたの過去の映像データを素材として食い尽くしたのよ。今はもう映像なんていらない。スマホのセンサーが拾うタップの癖や足音の響きだけで、向こうのシステムが『今のあんたの表情』を勝手に計算して合成してる」


 アリアの言葉が、冷たい刃物のように仁の脳髄を抉る。

 俺の感情の揺れ、疲労、絶望。それらすべてがセンサーの数値として変換され、見えない遠くのサーバーで、俺の顔をした不気味なCG人形の表情として再構築されている。

 ポケットに入れて持ち歩いていたこの小さな黒い板は、俺という人間の輪郭を削り取るための、完璧な裏切り者だった。


「……ふざけんな」


 仁の口から、殺意に近い低い唸り声が漏れた。

 コーヒーを運んできたマスターが、その声のトーンにビクッと肩を震わせ、無言でカップを置いてそそくさとカウンターの奥へ引っ込んだ。

 仁はテーブルの上の、黒いケーブルで繋がれた自分のスマホを睨みつけた。

 叩き割ってやりたい。今すぐコンクリートの床に叩きつけて、中の基盤ごと粉々に踏み砕いてしまいたい。

 だが、ここでこの端末を破壊すれば、俺の人生を盗み続けているストーカーとの唯一の繋がりも断たれてしまう。


「……送信先は、分かるのか」


 仁は湧き上がる破壊衝動を無理やり飲み込み、アリアを見据えた。


「このデータを吸い上げている相手の居場所は、特定できるのか」


 アリアはコーヒーカップの取っ手に指をかけたまま、画面の赤い文字列を見つめた。


「ダミーの海外プロキシをいくつも経由させて、足跡を消すように組まれてる。かなり神経質なやり方ね」

「無理なのか」

「……」


 アリアはコーヒーを一口だけ口に含み、ゆっくりとカップを置いた。


「私を誰だと思ってるの」


 彼女の細い指が、再びキーボードの上に置かれた。


「これだけ執拗にデータを要求するシステムなら、必ずデータの『受け取り口』が開いている瞬間がある。そこへ逆向きのパケットを流し込んで、強制的にプロキシの壁をこじ開けるわ」


 激しい打鍵音が、再び純喫茶の静寂を切り裂く。

 画面のプロンプトに、無数のIPアドレスが、網膜に焼き付く間もなく表示されては上書きされていく。

 仁はアリアの横顔を見つめた。

 彼女がなぜ、リスクを冒してまで俺のような人間にここまでするのか、その理由は分からない。だが、彼女の放つ圧倒的な有能さと、モニターを見つめる冷たい闘志だけは、確実に本物だった。

 仁はテーブルの上に転がる自分のスマホを睨みつけた。

 画面に映り込むプロンプトの青白い光が、仁の濁った黒目に反射する。

 アリアの指先がエンターキーを強く叩き、ターンと鳴る乾いた音が、純喫茶の淀んだ空気を切り裂いた。

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