第16話 サイバーセキュリティのプロ
ターン、というエンターキーの硬い打鍵音が、純喫茶のヤニ臭い淀んだ空気を鋭く切り裂いた。
アリアの分厚いノートPCの画面上で、青白い文字列が網膜の処理速度を遥かに超えるスピードでスクロールを始める。
向かいの古い革張りのソファに座る仁は、コーヒーカップから立ち上っていた湯気が完全に消え、表面に薄い油膜が張っていくのを見つめながら、ただ息を殺してそのモニターの光の反射を追っていた。
おびただしい数のログが猛スピードで雪崩れ込み、その無機質な文字列の壁の中に時折、血のように赤いエラーコードが暴力的に割り込んでくる。アリアのダークブラウンの瞳は瞬きすら忘れ、画面の奥深くで息を潜める見えない敵の構造を丸裸にしようと、冷酷なまでに研ぎ澄まされた光を放っていた。
彼女の細い指が、再び黒いキーボードの上を正確に舞う。
ダミーとして幾重にも張り巡らされた海外プロキシを一つずつ物理的に潰し、相手のサーバーの本当のIPアドレスへと続く、針の穴のような細い裏道をこじ開けようとしている。
「……っ」
不意に、アリアの指の動きがピタリと止まった。
画面の激しいスクロールが唐突に静止し、真っ黒な背景の中央に『Connection Refused』という無機質な白い文字だけが冷たく点滅している。
「……逃げられたのか」
仁が身を乗り出して尋ねた。極度の緊張で喉の奥がカラカラに乾ききり、声が掠れていた。
アリアはすぐには答えず、キーボードから手を離して自分の顎に指を当てた。その横顔には、想定していた防壁に阻まれた焦りや落胆というよりも、理解し難い異質でグロテスクな物体に遭遇した時のような、静かな困惑が浮かんでいた。
「……プロキシの壁は3層。そこまでのフェイクは予測通り。でも、一番奥のルーティングの組み方が異常よ」
彼女は画面の端に表示された、素人には意味不明な数行のコードを指差した。
「普通、情報を隠蔽して足跡を消すなら、もっと論理的で洗練された暗号化のアルゴリズムを使うわ。でもこいつの防御壁は、無駄なダミーファイルや意味のないループ処理が何重にも不規則に絡み合って、まるでスラム街の違法建築みたいな醜い構造になってる」
アリアはノートPCの蓋を半ばまで下ろし、鋭い視線を真っ直ぐに仁へ向けた。
「これ、国家機関やプロのサイバー犯罪グループの仕事じゃない。……異常な執着を持った『個人』のやり方。自分の痕跡を消すことだけに異常に特化して、あらゆるガラクタを継ぎ接ぎしたような、パラノイアのコードよ」
個人の、パラノイア。
その単語が、仁の冷え切った胃の底に重く、鉛のように沈み込んだ。
何かの巨大な組織的な犯罪や、金銭目的のハッキンググループに巻き込まれたわけではない。どこかの顔も知らない誰かが、個人的な異常な執着を持って、俺の底辺の生活を、俺の顔の筋肉の動きを、ただひたすらに監視し続けている。
「……特定は無理なのか」
「時間が要るわ」
アリアは躊躇いなく断言した。
「この不規則に絡み合ったスパゲティコードを一つずつ解きほぐすには、数時間じゃ到底足りない。……この端末は、私が一時的に預かる」
彼女はテーブルの上の、黒い絶縁テープでぐるぐる巻きにされた仁のスマホを手にとり、自分の黒いトートバッグの奥底へ滑り込ませた。
「いいのか。そんな面倒なこと……」
「言ったでしょ。ただの私の気分」
アリアは傍らのトレンチコートを手に取り、静かに立ち上がった。
「解析が進んだら、職場で声をかける。あなたは普段通り、何も知らないふりをして働きなさい。ここで下手に動いて、向こうのシステムに警戒されるのが一番厄介だから」
それだけを言い残し、彼女は伝票すら見ずに純喫茶の狭い階段を上っていった。
手元から、あの黒い板が消えた。
自分の人生を吸い上げ、切り刻み、見知らぬサーバーへ垂れ流し続けていた不気味な装置がなくなったことで、ジーンズの右ポケットはひどく軽く、そして何かの臓器を一つ摘出されたような、心許ない空洞になっていた。
翌日の日曜日。
初夏の強い太陽が、渋谷のスクランブル交差点のアスファルトを白く焼き付けている。
仁は人混みの圧倒的な熱気と、四方八方から押し寄せる行き交う人々の騒音に揉まれながら、ハチ公前の広場で額の脂汗を手の甲で拭った。
誰も彼もが、手のひらに収まる長方形のガラス板を見つめながら歩いている。その無数のレンズがすべて自分を監視しているのではないかという被害妄想が首筋を這い回り、周囲の無関係な人間の視線すらも異常に突き刺さる。
「先輩! お待たせしました!」
背後から明るい声が響き、肩をポンと軽く叩かれる。
ビクッと肩を跳ねさせて振り向くと、丸山乙女が立っていた。
オフショルダーの白いブラウスに、淡いブルーのデニムのタイトスカート。手にはパステルカラーの小さなショルダーバッグを下げている。深夜の物流センターで見せるヨレた作業着姿とは全く違う、街の空気に完全に溶け込んだ若々しい装いだった。
「悪いな、休みの日にいきなり呼び出して」
「全然いいですよ。先輩からLINEくるなんて珍しいし、どうせ今日も暇してましたから」
乙女は人懐っこく笑い、当然のように仁の隣に並んで歩き始めた。
アリアにスマホを預けた後、仁はアパートの古い引き出しの奥から、数年前に使っていた画面の端がクモの巣状に割れた古い代替機を引っ張り出し、乙女にだけメッセージを送っていた。
目的は一つ。MINATOの情報を引き出すためだ。
アリアがサイバー空間の醜いコードの塊と格闘している間、仁はただ四畳半の部屋で指をくわえて待っているわけにはいかなかった。相手が狂気的な執着を持った「個人」であるなら、SNSの表面上の振る舞いに必ず何かの綻びや癖が表出しているはずだ。
その「SNS上の微細な違和感」を読み解くのに、四六時中タイムラインに浸かっている乙女の嗅覚は適任だった。
「で、今日はどこ行くんですか? 先輩と渋谷で待ち合わせなんて、なんかウケますね。それにしてもそのスマホ、画面バキバキすぎじゃないですか?」
乙女が面白そうに仁の手元の古い端末を指差す。
「……落として壊れたんだ。で、行く場所はカフェだ。お前がこないだ言ってた、裏路地にある映えるパンケーキの店。あそこに行きたい」
「えっ、あそこ? 意外すぎ。先輩甘いものとか食うんですか? でもあそこ、休日は2時間待ちとかザラですよ」
乙女は呆れたように笑いながらも、自分のスマホの地図アプリを素早く立ち上げ、慣れた足取りで人混みを縫って歩き始めた。
大通りから入り組んだ路地裏にある雑居ビルの2階。
運良く窓際の小さな大理石のテーブル席に座れた二人の前には、雪山のように大量のクリームが盛られたパンケーキと、色鮮やかな季節のフルーツが乗ったパフェが置かれている。
乙女はナイフとフォークには手をつけず、スマホを様々な角度に傾けて何十枚も写真を撮り続けていた。
「……なあ」
仁は冷めたアイスコーヒーのグラスの表面に張り付いた水滴を指先でなぞりながら、低い声で切り出した。
「MINATOのことなんだけど」
「あ、やっぱり。最近先輩、めっちゃMINATO気にしてますもんね」
乙女は画面から目を離さずに、写真の明るさを調整しながら相槌を打つ。
「お前、MINATOのこと詳しいだろ。……あいつの最近の投稿、何か変わったところはないか?」
その質問に、乙女の指の動きがピタリと止まった。
彼女はスマホをテーブルの上に裏返して伏せ、少しだけ真面目な顔を作って仁を見た。
「変わったところって……先輩も気づいてました?」
「何に」
「いや、最近のMINATO、なんかキモくないですか?」
予想外のストレートな言葉に、仁は眉をひそめた。
「キモい?」
「はい。前までは、もっと余裕ぶってるっていうか、忘れた頃に洗練された写真だけをポンってアップして、純粋なファンがそれに食いついてる状態だったじゃないですか。でも、ここ数日、なんか必死すぎるっていうか」
乙女は再びスマホを取り出し、MINATOの直近の投稿画面を開いて仁の目の前に突き出した。
「ほら、これ。1日に何回も投稿してるし、アップして5分でいいねが1万件とかついてるんですよ。でもコメント欄見るとスカスカで、ついてるコメントも外人のbotみたいなアカウントとか、『最高です!』しか言わないテンプレばっか。明らかにお金払って数字水増ししてますよ、これ」
画面に並ぶ、無機質な絶賛コメントの羅列と、不自然に膨れ上がったハートの数字。
仁の胸の奥で、ドロドロとした黒い液体が逆流するような感覚があった。
相手は、強大で余裕のある成功者などでは全くない。
俺の生活を盗み、俺の顔のテクスチャを加工して作った偽物の仮面で、15万人のフォロワーを集めた。その承認の快感に、奴自身が完全に狂わされている。
少しでも「いいね」の伸びが悪いと不安で発狂しそうになり、金で数字を買ってでも自分の虚像を必死に維持しようとしている。俺の人生を貪り食っておきながら、それでもまだ足りずに、空っぽの数字にすがりついているのだ。
「なんか、いいねに飢えすぎてて引くわーって感じです。自分の本当の姿なんて、もう本人も分かんなくなってるんじゃないですかね」
乙女がストローを軽く噛みながら、冷めた声で吐き捨てた。
そう言いながら、乙女は自分のパンケーキの写真をインスタグラムのアプリにアップロードした。
数秒後。
テーブルの上の彼女のスマホがブルッと震え、画面に『〇〇さんがあなたの写真にいいねしました』という通知が立て続けにポップアップする。
その通知の文字を見た瞬間、乙女の顔に、無意識の深い安堵と喜びの表情がふわりと浮かんだ。
彼女のその無自覚で矛盾した行動に、仁は背筋が凍るような薄ら寒いものを感じた。
程度の差こそあれ、乙女もまた、この手のひらの上の小さな液晶画面から供給される承認の麻薬に完全に依存している。
もし俺がこのまま逃げ出せば。俺の顔を盗んだあのパラノイアは、いずれ俺から搾り取るものがなくなった時、次は乙女のような無防備な人間を新たな標的にして、その人生のピクセルを削り取り始めるのではないか。
「……先輩?」
黙り込んだ仁の顔を、乙女が小首を傾げて見る。
「なんでもない」
仁はグラスに残っていた冷えたコーヒーを胃の奥へ流し込み、短く息を吐いた。
グラスの底で、残った氷が濁った音を立てて崩れる。
カフェのやかましい喧騒と甘い匂いの中で、仁はテーブルの下の自分の膝に爪を立て、液晶画面の中で不毛な数字を弄り続ける見えない敵の、ひどく歪で醜悪な輪郭をはっきりと捉えていた。




