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第17話 トロイの木馬

 カビの匂いが染み付いた薄暗い四畳半の部屋に、カリッ、カリッというリズミカルな硬い音が響いている。

 100円均一で買った浅いプラスチックの小皿に入れられた子猫用のドライフードを、小さな顎が一生懸命に噛み砕く音だ。

 アリアの要求に従い、純喫茶で自分のスマホを預けてから、3日が経過していた。

 水曜日の夕暮れ。仁の現在の通信手段は、アパートの引き出しの奥で眠っていた、画面の端がクモの巣状に割れた古い代替機だけだ。必要最低限の連絡先と通話アプリしか入っていない、ただの古びた機械。タイムラインの更新を知らせる赤いバッジも、精神を削り取るような不快な通知音も鳴らない。

 部屋の中は、耳鳴りがしそうなほどに静まり返っていた。


「……食い終わったか」


 仁が低く声をかけると、皿の底に残った粉をザラザラとした舌で丁寧に舐め回していたキジトラの子猫が顔を上げた。口の周りにフードのカスをつけたまま、短い尻尾をピンと真っ直ぐに立てて駆け寄ってくる。

 雨の日の公園で泥と排泄物にまみれていた姿が嘘のように、お湯で何度も拭き上げた毛並みは本来の艶を取り戻している。目やにで完全に塞がっていた両目もパッチリと開き、ビー玉のような金緑色の瞳が、部屋の中を舞う埃や、西日の反射を忙しなく追っていた。

 子猫は仁のあぐらをかいた膝の上に不器用に這い上がり、ヨレたスウェットのズボンの紐を前足で器用に捕まえた。そのまま細く鋭い乳歯で紐に噛み付き、後ろ足でケリケリと激しく蹴り上げ始める。


「痛っ……」


 細い爪がスウェットの布地を貫通し、仁の太ももの皮膚をチクリと引っ掻いた。

 小さな、だが確かな痛覚。

 仁は太ももにじゃれつくその柔らかな毛玉を、大きな手のひらでそっと包み込んだ。

 人間とは違う、驚くほど高く規則的な心拍が指先に直接伝わってくる。喉の奥でゴロゴロと鳴らす微かな振動。

 指先の神経を刺激するその体温と痛みが、デジタルデータとして解体され、見知らぬ誰かに食い尽くされようとしている俺の自我を、かろうじて物理的な現実世界へと引き留めていた。


 午後9時。夜勤に向かうため、仁は物流センターの最寄り駅の改札を抜けた。

 水曜日の夜。すれ違う人間の多くが、イヤホンで外界の音を遮断し、手元の発光する小さな画面の奥の世界へと没入している。誰とも目を合わせず、ただ液晶越しの情報だけを貪りながら歩く人々の群れ。誰もが俺を監視しているのではないかというパラノイアが、じわりと背筋を這い上がる。

 駅前のロータリーにある薄暗い自販機コーナーへ向かうと、見慣れたシルエットが先に立っていた。


「あ、先輩。お疲れ様です」


 缶のミルクティーを買っていた丸山乙女が、仁の姿を認めて軽く手を上げた。


「お疲れ。早いな」

「今日、夕方まで友達と新宿で遊んでたんですよ。そのまま直行してきたんで」


 乙女は手元のスマホのインカメラを鏡代わりにして、前髪の崩れをチェックしている。彼女の周囲だけ、甘い香水の匂いが漂っていた。

 アリアからの解析完了の連絡を待つ間、仁は古い代替機を使って乙女にメッセージを送り、MINATOのSNSの不審な動きを引き続きチェックしてもらっていた。


「で、どうですか先輩のスマホ。直りました?」

「いや、まだ修理に出したままだ」


 適当に誤魔化し、仁は自販機でブラックコーヒーを買った。ガコンという硬い音と共に落ちてきた冷たい缶を拾い上げた、その時だった。


「あ、先輩ちょっとそのままストップ」


 乙女が唐突に、自分のスマホの背面レンズを仁の手元に向けた。


「は?」

「いいから。ちょっとそのまま、缶コーヒー持った手だけ見せてください」


 言われるがままに静止すると、乙女は自分のミルクティーの缶と、仁のゴツゴツとした右手だけが画角に収まるようにスマホを傾け、カシャッとシャッターを切った。


「何してるんだ」

「匂わせですよ。『出勤前に年上の人とチル』的な。顔は出さないで、手とか服の一部だけ写すのが一番インプレッション稼げるんです。誰といるの?ってコメント欄がざわつくんで」


 乙女は手慣れた指先で画像にフィルターをかけ、スタンプを配置していく。

 仁の胃の奥底で、冷たくてドロドロとしたものがせり上がってくる感覚があった。

 ファインダー越しに他人の身体の一部を勝手に切り取って、ただの背景の飾りとして消費することに、こいつは何の疑問も持っていない。その無神経な笑顔の奥に、俺の顔を盗んで着飾っているあの見えないストーカーと同じ、どす黒い執着が透けて見えた。


「……やめろ。SNSには上げるな」


 仁は缶コーヒーを持った手を下ろし、乙女を鋭く睨みつけた。


「えー、なんでですか。減るもんじゃないし、顔写ってないから絶対バレないですよ」


 不満げに唇を尖らせる乙女に、仁は一歩だけ距離を詰めた。


「嫌だと言ってるんだ。今すぐ消せ」


 低く押し殺したような仁の声色と、その異様なまでの眼光の鋭さに、乙女は目を丸くして言葉を詰まらせた。


「……わかりましたよ。消せばいいんでしょ、消せば。冗談通じないなぁ」


 彼女は不貞腐れたように画面をタップし、画像をゴミ箱のアイコンへスワイプした。

 気まずい沈黙が自販機コーナーに落ちる。

 ふと、仁のポケットの中で、古い代替機が短くバイブレーションした。

 画面を見る。アリアからの、たった一言のメッセージ。


『終わった。裏口』


 仁は缶コーヒーのプルタブを開けることなく、踵を返した。


「悪い、先に行く」

「え、ちょっと先輩!」


 乙女の困惑する声を背中で聞き流し、仁は足早に物流センターの裏手へと向かった。


 午後9時半。

 物流センターの裏手にある、普段は誰も使わない非常階段の踊り場。

 錆びた鉄格子の向こう側には、遠くを走る国道のヘッドライトが等間隔に光の帯を作って流れている。

 タバコの吸い殻が散乱するコンクリートの床に、アリアが壁に寄りかかって立っていた。

 彼女は黒いスラックスのポケットから、見慣れた黒い端末を取り出し、仁に向かって放り投げた。

 仁はそれを空中で掴み取る。絶縁テープの巻かれた、俺のスマホだ。


「……抜いたわ。バックドア」


 アリアの冷ややかな声が、薄暗い踊り場に響く。

 仁は手の中の冷たい板を見下ろした。


「……何が仕込まれていた」


 アリアは腕を組み、仁の顔を真っ直ぐに見据えた。


「マルウェアの一種よ。でも、その辺のダークウェブで数千円で転がってるような、ガキの監視アプリやリベンジポルノ用の安物じゃない」


 彼女の語気が、いつもよりわずかに強い。


「OSのカーネル層……システムの最も深い中枢部分に、完全に同化するように食い込んでいた。特定のセンサーからデータを吸い上げて、暗号化して外部に逃がす処理が、OSの正規のプロセスに偽装されて組み込まれていたのよ」

「……」

「ゼロデイ脆弱性を突いたコードが使われていたわ」


 仁は眉をひそめた。


「ゼロデイ?」

「……メーカーすら気づいていないシステムの致命的な穴を、塞がれる前に突く攻撃よ」


 アリアは一歩だけ仁に近づき、そのダークブラウンの瞳で仁を射抜いた。


「その辺のスクリプトキディがツールで遊ぶのとは次元が違う。国家の諜報機関か、プロのクラッカー集団がインフラを落とす時に使うような代物よ。莫大な金と時間、異常な技術力が要る」


 足元のコンクリートが、泥沼のようにぐらりと傾く感覚があった。


「それが……俺のスマホに、入ってたって言うのか」

「ええ。たかがフォロワー15万人のインフルエンサーの遊びや、素人の嫌がらせのために使うような代物じゃない。莫大な価値がある切り札のコードを、あなたという『一個人の素人』を監視して、素材をパクるためだけに贅沢に使い潰しているのよ」


 アリアの言葉が、冷たい鉄の杭のように仁の脳天に深く打ち込まれる。


「このマルウェアを組んだ人間は、頭のネジが完全に飛んでるわ」


 アリアが吐き捨てるように言った。

 非常階段の鉄格子を吹き抜ける風が、排気ガスの匂いを運んで生温かく頬を撫でる。

 仁は手の中の黒い端末を見下ろした。ただの安っぽいガラスとプラスチックの塊を持つ右手が、骨の髄まで凍りついたように小刻みに震え、どうしてもその震えを止めることができなかった。

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