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第8話 実験と確信

 午前10時。

 アパートの薄暗い部屋で、仁はちゃぶ台に置かれた端末を睨み続けていた。

 夜勤から帰り、すでに4時間が経過している。

 電源を切って通信を遮断してしまえば、見えない敵に背中を向けることになる。その強迫観念に縛られ、俺はただじっと真っ黒な板と睨み合い、すり減っていく精神をどうすることもできずにいた。

 まばたきをするたびに眼球が熱を持ち、耳鳴りが止まらない。

 だが、ただ怯えて息を潜めているだけでは、いずれ確実に気が狂う。

 昨夜のアリアの平坦な声が、脳の裏側にこびりついて離れない。


「異常な量のデータが送られ続けている」


 俺が動くたび、この端末の中にあるセンサーが、俺の身体の傾きや歩幅を数値として送り続けている。なら、奴らはその数字の羅列をどうやって画像にしている? 俺が歩けば「エモい裏路地を歩くインフルエンサー」になり、弁当を食えば「高級焼肉を楽しむ男」になる。

 奴の使っているシステムは、俺から送られてきた位置や姿勢の数値から、「日常のありふれた動作」を勝手に当てはめて、あの気味の悪い絵を描き出しているだけなんじゃないのか。食事、歩行、睡眠。どれも人間なら必ず行う、パターン化された動きだ。

 ならば。

 どんなパターンにも当てはまらない、全く意味のない出鱈目な動きをしてやったら、あのシステムはどう反応する?

 仁はゆっくりと立ち上がった。

 絶縁テープでぐるぐる巻きにされたスマホを掴み、スウェットの右ポケットに深くねじ込む。


 ユニットバスのドアを開ける。

 窓のない、狭くカビ臭い四畳半の備え付け空間。

 便器とバスタブの間の、わずかなタイルの隙間に立つ。黒ズミの浮いたタイルの目地を見下ろしながら、大きく深呼吸をした。

 ここで、絶対に日常ではあり得ない、どんな行動パターンにも当てはまらない姿勢をとる。

 仁はもう一度息を吸い込み、右足を高く持ち上げ、便座の蓋の上に置いた。

 そのまま上半身を左側へ極端に捻り、右腕を背中の後ろから回して、自分の左脇腹の肉を強く掴む。

 空いた左腕は頭の真上に真っ直ぐ伸ばし、手首を直角に曲げる。

 最後に、首を右斜め下へ限界まで倒した。

 全身の筋肉が軋み、普段使わない関節がギチギチと悲鳴を上げる。

 鏡を見るまでもなく、不格好で、無様で、何の目的もない滑稽なポーズだ。

 だが、この「意味のなさ」こそが重要だった。

 右ポケットの中のスマホが不自然な角度に傾き、俺の現在の異常な姿勢を数値データとして絶え間なく計測しているはずだ。

 息が止まりそうになる。引き伸ばされた脇腹の筋がひきつり、額からじわっと脂汗が滲み出る。

 足の裏から伝わるタイルの冷たさと、不自然な体勢からくる肉体的な苦痛。額から垂れた汗の滴がバスタブの縁に落ち、ポツリと小さな音を立てた。

 1分、2分。

 便座に乗せた右足の太ももが痙攣し始める。左脇腹を掴む右手の指先が白く鬱血し、感覚が麻痺してきた。


「……っ」


 3分が経過したところで、仁はたまらず体勢を崩し、冷たいタイルの床に両手をついて荒い息を吐いた。

 肩で激しく息をしながら、震える手でポケットのスマホを取り出す。

 これでデータは送られたはずだ。あとは、奴のシステムがこの「意味不明な数値」をどう処理して出力するかを待つだけだ。


 午後3時。

 タイムラグを考慮し、仁は結果が出るまで部屋を出ることにした。

 息苦しい四畳半の空間から物理的に逃れたかった。

 財布と鍵だけをジーンズのポケットに入れ、スマホはあえてちゃぶ台の上に置いてきた。

 アパートの錆びた階段を下りる。

 秋の終わりの冷たい風が、汗ばんだままの首筋を撫でていく。

 ポケットにあの端末がないだけで、背中にのしかかっていた見えない重圧がスッと消え去ったような気がした。

 今の俺は、奴の監視網から完全に外れている。GPSもマイクもセンサーも俺を追えない。ただの「高田仁」という透明な存在だ。

 目的もなく、駅とは反対方向の古びた住宅街を歩く。

 サビだらけの遊具だけが置かれた児童公園に差し掛かった時だった。

 塗装の剥げたベンチの奥にある、枯れ葉が吹き溜まっている植え込みのあたりから、微かに何かが擦れるような音が聞こえた。

 立ち止まり、耳を澄ます。

 カサッ、ミィ、というひどく掠れた音。

 仁は植え込みの枝を掻き分け、薄暗い奥を覗き込んだ。

 捨てられたコンビニのビニール袋の横で、泥にまみれた手のひらサイズの毛玉が震えていた。

 生後数週間にも満たないような、痩せこけた子猫だ。

 目やにで両目が完全に塞がり、本来の毛色が黒なのか茶色なのかも分からないほど泥と排泄物にまみれている。

 親猫とはぐれたのか、カラスにでも突かれたのか。かすれた悲鳴のような声で、見えない宙に向かって鳴き続けている。

 普段の仁なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていた。明日の自分の生活すら保障されていない、社会の底辺で摩耗している人間に、他人の命を拾う余裕などどこにもない。

 だが、仁は無意識のうちに膝をつき、その泥だらけの毛玉を両手でそっと掬い上げていた。

 驚くほど軽い。だが、浮き出たあばら骨のすぐ裏側から、異常に早い心拍がドクドクと手のひらに直接伝わってくる。微細な爪が、俺の指の腹に必死にしがみつこうと引っかかっている。

 温かい。

 俺の手の中にある、確かな「生」の温度。

 GPSの座標データでもなく、センサーの無機質な数値でもない。

 この泥の臭いと、必死に生きようとする心臓の震えは、奴のシステムがどれだけ高度なフェイク画像を合成しようとも絶対に変換できない、圧倒的な現実そのものだ。

 仁は子猫をパーカーの胸元にそっと抱え込み、冷たい風から守るようにして、駅前のスーパーへと足早に向かった。


 午後5時。

 アパートに戻る。

 部屋の隅に空の段ボール箱を置き、古タオルを敷いてその上に子猫を下ろす。

 スーパーで買ってきた子猫用のレトルトパウチを開け、紙皿に出してやった。

 子猫は目が見えないまま匂いを頼りに這い寄り、ガツガツと必死な音を立てて肉片に食らいついた。

 その小さな背中が呼吸に合わせて上下する様子を、仁は床に座り込んで無言で眺めていた。

 その時だった。

 不意に、淀んだ部屋の空気を震わせるように、無機質な電子音が鳴った。

 仁の肩がわずかに動く。

 ゆっくりと立ち上がり、ちゃぶ台に近づく。

 黒い絶縁テープに巻かれた端末の画面が、青白く光っている。

 MINATOの更新通知。

 息を呑むような恐怖はもうなかった。代わりに、刃物のように冷たい緊張感が腹の底に広がっていく。

 震えのない指で、画面をタップする。

 アプリが開く。


『心と身体の対話。オリジナルのヨガポーズで、深層のコアを刺激する休日の夕暮れ』


 画像が表示される。

 背景は、打ちっぱなしのコンクリート壁がお洒落な、広々としたヨガスタジオ風の空間。

 大きな窓の外には、わざとらしい夕焼けの空が合成されている。

 そして画面の中央には、ダークグレーのスタイリッシュなヨガウェアに身を包んだMINATOがいる。

 そこにいたMINATOのポーズは、俺が数時間前、あのカビ臭いユニットバスのタイルの上で耐え抜いた、あの無様で意味不明な姿勢そのものだった。関節の不自然な曲がり具合から、苦痛で歪んだ筋肉のねじれ方に至るまで、俺の肉体が送った異常なノイズが、寸分違わず反映されている。

 俺が送った出鱈目な数値を処理しきれず、奴のシステムは無理やり「意識の高いヨガポーズ」だと勘違いして絵を描き出しやがったのだ。

 滑稽なほどのフェイク。


「……ハッ」


 仁の口から、低く乾いた笑い声が漏れた。

 悪魔の魔法でも、超常現象でもない。

 こいつは全知全能のバケモノなんかじゃない。俺の端末から送られてくる数字の羅列を、都合の良いフィルターに通して絵にしているだけの、ただの融通の利かないプログラムだ。

 ならば、いくらでも罠にかけられる。

 意図的にノイズを混ぜ込み、誤作動を誘発すれば、その裏側でシステムを操っている生身の人間を確実に引きずり出せるはずだ。

 段ボール箱の中で、パウチを食べ終えた子猫が身をすり寄せるように小さく鳴いた。

 仁は青白い画面を見下ろしたまま、冷え切った指先でスマホの側面を強く握りしめた。

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