第7話 アリアの視線
真っ赤に染まったモニターが、仁の網膜をチカチカと刺激し続けていた。
ポップアップしたエラーウィンドウが画面を埋め尽くし、無機質な警告音が周囲のタイピング音を完全に掻き消している。
酸欠で視界の端が明滅を繰り返している。肺の奥が凍りついたように強張り、何度浅い呼吸を繰り返しても、酸素が血液に溶け込んでいく感覚が全くなかった。額から滲み出た脂汗が、カミソリで力任せに削り落として傷つけたばかりの顎の絆創膏に染み込み、ヒリヒリとした鋭い痛みを引き起こす。
「ちょっと、高田さん」
フロアの奥から、エリアマネージャーがバインダーを片手に小走りで近づいてくる。不機嫌そうに眉根を深く寄せ、コンクリートの床を叩く足音には明らかな苛立ちと呆れが混じっていた。
「システムの動きがおかしいんだけど。そっちの端末、なんか変な操作した? これ全部リセットかけないと……」
マネージャーの太い手が仁のマウスに伸びかけた、その瞬間だった。
いつの間にか仁の背後に、黒いタートルネック姿のアリアが立っていた。足音も気配も全く感じなかった。彼女はマネージャーを軽く一瞥しただけで、すぐに視線を仁の真っ赤なモニターへと移した。
「……退いて」
短い指示。感情の起伏は一切ないが、そこには他者の拒絶を許さない絶対的な合理性と圧があった。
仁は弾かれたように立ち上がり、パイプ椅子を後ろに引いた。睡眠不足と極度の緊張で膝がガクガクと震え、パイプの脚が床に擦れて甲高い嫌な音を立てた。
アリアが仁の空けたスペースに音もなく滑り込み、中腰の姿勢のままキーボードに両手を置く。
カタタタタ、と小気味良い打鍵音が鳴り始めた。
彼女の細く白い指先が、一切の迷いなくキーを叩き続ける。ショートカットキーを駆使し、仁がパニックに陥って開いてしまった無数のウィンドウを、瞬きする間もなく次々と強制終了させていく。
隣に立つ仁の鼻先に、彼女の髪から微かにミントのような冷たい香りが漂ってきた。
マネージャーは後ろで腕を組み、「まったく、頼むよ」とだけ吐き捨てて自分の席へ戻っていった。隣の乙女は、嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜め、自分のモニターの隅をじっと見つめている。
アリアの視線は画面に釘付けになったままピクリとも動かない。バックグラウンドで暴走している処理のプロセスを止め、システムのキャッシュを手動でクリアしていく。その横顔には一切の焦りも戸惑いもなく、ただ目の前のバグを処理するためだけの完璧な無表情が張り付いていた。
3分後。
最後のEnterキーが叩かれ、モニターを埋め尽くしていた赤色がスッと消え去った。見慣れた入力待ちの初期画面が戻ってくる。
「……直った」
アリアはキーボードから手を離し、ゆっくりと身体を起こした。
「ああ……すまない」
仁がカラカラに乾いた声で礼を言うと、アリアは初めて仁の方へ顔を向けた。
彼女の深いダークブラウンの瞳が、仁の顔面を真っ直ぐに捉えた。
先ほどの異常なモニターを見つめていた時と同じ、一切の感情を排した分析的な目。
その視線が、不格好にいくつも貼られた絆創膏と、血が滲む無精髭の跡をなぞるようにゆっくりと下へ移動する。
見えない釘で首の骨を打ち付けられたように、仁は顔を背けることすらできなかった。見透かされている。俺の顔が、俺のものではなくなろうとしているという狂気を、この女は皮膚の表面から読み取ろうとしているのではないか。
アリアの視線は、仁の顔からさらに下へ、ヨレた灰色のパーカーの腹部へと移った。
カンガルーポケットが、不自然な長方形に膨らんでいる。
「……端末が、熱を持ってる」
アリアの唇が微かに動き、周囲の誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「っ!」
仁は咄嗟にポケットを両手で覆い隠した。
彼女の言う通りだった。手のひら越しに、ポケットの中の黒い塊が異常な温度を帯びているのがはっきりと伝わってきた。
「関係、ない」
声が裏返った。自分でも信じられないほど怯えた、情けない声だった。
アリアは仁の震える手をじっと見つめ、淡々と告げた。
「……社内ネットワークが重い。そのポケットから、異常な量のデータが送られ続けてる。……暴走する前に、電源を切れば」
それだけを言い残し、アリアは背を向けて自分の席へと歩き去っていった。
仁はポケットの中の異物を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
異常な量のデータが送られ続けている。
その言葉が、耳の奥で呪いのようにリフレインする。
俺がこうして震え、冷や汗を流し、パニックに陥っている今この瞬間も。ポケットの中でテープに巻かれた端末は、俺の心拍音、荒い呼吸、衣類が擦れる微かな音、そして位置情報を、途切れることなく奴のサーバーへとアップロードし続けている。
レンズを塞いでも無駄だった。
電源を落とせばいい。アリアの言う通りだ。電源ボタンを長押しして、この通信の息の根を止めれば、少なくともこれ以上のデータの流出は防げる。
だが、仁の手はポケットの中で硬く強張ったまま、どうしてもボタンを押し込むことができなかった。
電源を切ってしまったら、もうMINATOの投稿を確認できなくなる。
奴が俺の顔を使って、俺の傷跡を見せびらかして、次に何を企むのか。それが全く見えなくなる恐怖。
暗闇の中で、見えない刃物を突きつけられているようなものだ。目を逸らせばいつ刺されるか分からない。常に奴の行動を見張っていなければならない。たとえ俺のデータが吸い取られ続けているのだとしても、この通信機器を手放すことだけは絶対にできない。
俺の存在証明は、もはやこの小さな長方形の中にしかないのだから。
午前6時。
長い深夜シフトが終わり、仁は鉛のように重い足を引きずりながら物流センターを後にした。
朝の冷え込んだ空気が、火照った身体の表面だけを急激に冷やしていく。
駅へ向かう道すがら、仁の頭の中はアリアのあの冷たい瞳で埋め尽くされていた。
彼女はなぜ、わざわざ通信量の異常などと忠告してきたのか。単なるシステム管理者としての職務か? それとも、俺が外部と異常な通信を行っている理由を、知っているのか。
もしかして、あの女がMINATOの協力者なのか。
いや、考えすぎだ。彼女はずっとあのフロアにいる。
疑心暗鬼が肥大化し、道ですれ違うすべての人間が、自分を嘲笑いながらデータを収集するスパイに見えてくる。向かいから歩いてきたスーツ姿の男が、胸ポケットからスマホを取り出す動作をしただけで、仁はビクッと肩をすくめて道の端へ飛び退いた。自転車で通り過ぎる学生の笑い声が、俺の顔を盗んだMINATOの笑い声に変換されて耳にこびりつく。
狂いそうだ。
フラフラとした足取りでアパートへたどり着き、重い鉄の扉を開けて鍵をかける。
狭く薄暗い部屋の真ん中で、仁はパーカーのポケットから真っ黒な塊を取り出した。
絶縁テープのゴムの臭いが、異常な温度で少し溶け出している。手のひらを火傷しそうなほどの不快な温度だ。
震える親指でロックを解除する。
真っ先に開いたのは、MINATOのアカウントだった。
更新を知らせる通知は来ていない。最新の投稿は、昨日のあの「傷跡のある顎」の自撮りのままだ。
だが、何もアップされていない事実が、かえって仁の恐怖を煽った。
今この瞬間も、奴は俺の送ったデータを元に、次の作品の合成をしているのではないか。
次はどこだ。
目か? 鼻か? それとも、俺の全身をスキャンして、完全に「俺そのもの」として画面の中に現れるつもりか。
仁はちゃぶ台の前に座り込み、テープでぐるぐる巻きにされた画面を凝視し続けた。
画面の中のMINATOの顎にある三日月型の傷跡が、生き物のように蠢いて見えた。
指先を右側面の電源ボタンにかける。
押し込め。長押しして、この呪いの通信を切れ。
頭の中では警報が鳴り響いているのに、親指の関節は固まったように曲がらなかった。
もしここで通信を遮断し、画面を暗転させてしまえば、奴が今どこで俺の顔を晒しているのか、永遠に知る術を失ってしまう。それは、暗闇の中で両目を塞がれ、見えない敵に背中を向けるのと同じことだ。
静まり返った部屋の中、ちゃぶ台の上に置かれたスマホの画面だけが、仁の歪んだ顔を青白く照らし出し続けていた。




