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第6話 初めての自撮り

 画面に映る無精髭の顎。その右下にある、三日月型の歪な傷跡。

 肋骨の裏側を氷の塊で直接撫でられたように、一瞬だけ心臓の鼓動が止まった。

 仁は手の中のスマホをちゃぶ台に放り投げ、転がるように立ち上がった。薄暗い部屋を横切り、ユニットバスのドアを勢いよく開ける。黄ばんだプラスチックのスイッチを強く押し込み、洗面台の安っぽい蛍光灯を点けた。

 ジージーと古臭い音を立てて点滅した光が、鏡の中の男を照らし出す。

 血走った目、落ち窪んだ頬。ひどく不健康で、惨めな男の顔だ。

 仁は鏡に顔を近づけ、少しだけ顎を上げた。

 右下の傷跡。高校最後の大会で、タックルに入った際に相手のスパイクのスタッドが深く食い込んでできた、白く引きつった皮膚。泥にまみれたグラウンドの匂いや、肉が裂けた瞬間の鈍い痛みの記憶ごと、この肉体に刻み込まれた俺だけの歴史だ。

 震える指先で、鏡の中の自分ではなく、自分自身の顎にあるその傷跡を直接なぞる。少し隆起した、硬い皮膚の感触。

 間違いない。さっき画面で見た「MINATO」の顎にある傷と、位置も、角度も、長さに至るまでミリ単位で一致している。

 それだけではない。無精髭の生え方。右の頬のラインだけ少し疎らに生える不規則なパターンまで、見事に重なる。

 風景のパクリではない。AIによる単なる合成でもない。

 俺の顔面が、皮膚が、毛根の一つ一つまでが、カメラレンズを通してスキャンされ、物理的なデータとして完全に剥ぎ取られている。

 いつだ。

 満員電車の中でうたた寝をしている時か。トイレの個室で便座に座り、放心している時か。暗い部屋で、ただ天井のシミを見上げている時か。俺の最も無防備で惨めな瞬間の顔を、あのフロントカメラのレンズは冷徹に記録し続けていたのだ。

 そして、AIという不可視のフィルターを通し、疲労や不潔な要素だけを都合よく取り除き、洗練された「成功者・MINATO」の顔面パーツとして再構築した。

 画面の中の『MINATO』は、眩しいほどの光を浴びて完璧に微笑んでいる。だが、その下にある骨も、筋肉も、皮膚も……全部、俺だ。俺の皮を被って、こいつは嗤っている。

 胃袋がひっくり返るような強烈な悪心が込み上げ、口の中に酸っぱい唾液が溢れた。仁は洗面台に両手をつき、えづきそうになるのを必死に堪えた。

 洗面台の横のプラスチックのコップに立てかけられていた、使い捨てのT字カミソリを引っ掴む。

 シェービングフォームも石鹸もつけず、乾いた顎にそのまま刃を押し当てた。

 ジョリッ、と嫌な音を立てて無精髭を削り落とす。滑りのない2枚刃が乾燥した皮膚に引っかかり、薄い表皮が削げた。

 チクッとした痛みの後、ジワリと血が滲む。それでも手は止めない。顎から頬へ、さらに首筋へと刃を滑らせる。皮膚の表面ごと削り落とすような、無軌道で力任せのストローク。

 削って、剥がして、変えなければ。画面の中の完璧なアバターと、この俺の惨めな生身の肉体が同じ素材だなどと、認めるわけにはいかない。

 何度も刃を往復させる。泡のない刃はすぐに目詰まりを起こし、ただ皮膚を傷つけるだけの凶器になる。顎のラインから赤い血が数カ所、ぷつぷつと玉のように滲み出た。錆びた鉄のような血の匂いが鼻をつく。

 蛇口をひねり、冷水で顎を洗う。

 痛みに顔をしかめながら、タオルを押し当てて鏡を睨みつけた。

 髭は消えた。所々にカミソリ負けの赤い血の滲みがある。

 だが、その奥にある三日月型の傷跡は、当然だが消えない。

 骨格も、皮膚に深く刻まれた過去も、数百円のカミソリごときで削り落とすことなどできない。

 鏡の中の自分が、自分ではない誰かの「皮」に見えてくる。俺は本当に高田仁なのか? それともMINATOを形作るためのただの部品なのか? 自分の顔に触れる手が、他人の手のように感じられる。皮膚の下を這う血管の拍動すら、遠隔操作されているのではないかという妄想が膨れ上がり、仁の脳を激しく揺らした。


 午後10時。

 顔の下半分のあちこちに絆創膏を貼り、仁は物流センターのフロアのパイプ椅子に座っていた。

 全身の筋肉が泥を吸ったように重く、関節の節々が熱を持って痛む。一睡もしていない。目を閉じても、フラッシュバックのようにあの三日月型の傷跡が網膜に焼き付いて離れなかった。

 フロアの空気はいつも以上に重く、隙間風が足元を這い回り、ズボンの裾から直接骨を冷やしてくる。巨大な換気扇が回る低い重低音が、今の仁には処刑を待つ時計の秒針のように聞こえた。

 パーカーの腹のポケットには、黒い絶縁テープでぐるぐる巻きにしたスマホが入っている。

 家を出る前、スマホをゴミ箱に投げ捨てようとした。しかし、どうしても指が言うことを聞かなかった。もし俺が目を離した隙に、奴が俺の人生を、肉体を、すべて奪い去ってしまったら。画面から目を離せば、こいつが俺の全てを奪い尽くしてしまいそうで怖かった。奪われているのに、見ずにはいられない。そんな自分がひどく気持ち悪かった。

 周囲では、同じように疲弊した派遣社員たちが無言でキーボードを叩いている。誰も他人に興味などない。この閉鎖された空間では、隣の人間がどんな顔をしているかさえ、意識に上ることはない。


「先輩、どうしたんですかそれ」


 隣の乙女が、キーボードを叩きながら仁の顎を指差した。


「……カミソリ負けしただけだ」

「うわ、痛そう。肌荒れてる時はちゃんと保湿しないとダメですよ。てか、髭ないとなんか雰囲気変わりますね」

「……」

「なんか、今日めっちゃ顔色悪いですし。マジで倒れないでくださいよ」

「ああ……大丈夫だ」

「ならいいですけど」


 乙女はそれ以上追及してこなかった。彼女の視線はすぐに自分のスマホの画面へと戻り、親指で色鮮やかなタイムラインを高速でスクロールし始める。彼女の瞳には、次々と流れてくる美容液の広告や、インフルエンサーの旅行写真が反射している。彼女にとって、派遣社員の先輩の顔の傷など、数秒で消費されるSNSの画像以下の価値しかないのだ。


 仁は深く息を吐き、自分のモニターに向かった。

 入庫伝票のロット番号と、システム上の在庫数。紙の伝票と画面を交互に見比べる。

 単純な照合作業のはずなのに、画面上の8桁の英数字が、チカチカと点滅する無意味な記号の群れに見える。

 テンキーに置いた指が、小刻みに震えて定まらない。

 自分が自分でないような感覚。自我の境界線が溶け出している。

 自分が入力しているこの数字も、本当は俺の意志ではなく、どこかの誰かに操られている結果なのではないかというパラノイア。

 焦れば焦るほど、指先は空回りする。


「A749... 228...」


 乾いた唇を動かし、小さく呟きながら叩く。だが、モニターに打ち込まれた数字は「A749229」だ。


「違う……」


 バックスペースを押し、打ち直す。

 次は桁が一つ飛んだ。


「クソ……」


 歯鳴りがするほど奥歯を強く噛み締める。血の滲んだ顎に鋭い痛みが走ったが、今の仁にはそれすらも遠い出来事のように感じられた。

 画面の数字が、MINATOのフォロワー数に見えてくる。

 150,000。

 150,001。

 今この瞬間にも、奴は俺の顔を使って賞賛を浴びている。

 俺がここで冷や汗を流し、血の滲む顎を引きつらせて数字と格闘している間に、俺の皮膚と骨格を被ったあの化け物は、15万人の羨望の眼差しを一身に集めているのだ。

 なぜ俺なんだ。なぜよりによって、こんな底辺の男の皮を被る必要がある。ふざけるな、返せ。俺の顔を返せ。

 ブブーッ。

 突然、モニターに赤いエラーウィンドウがポップアップした。


『在庫数不一致。入力形式が不正です』


 無機質なエラー音が、静かなフロアに響き渡る。


「あーもう、先輩」


 乙女が舌打ちをした。


「アラート鳴らさないでくださいよ、こっちまでビクッとするんで」

「悪い……」


 仁は震える手でマウスを握り、エラーウィンドウの「OK」ボタンをクリックしようとした。

 だが、カーソルがうまく合わない。

 カチッ、カチッ。

 手が滑り、関係ないセルをクリックしてしまい、さらに別の警告ウィンドウが連鎖的にポップアップする。

 画面が真っ赤に染まる。

 警告音が連続して鳴り響き、周囲のタイピング音が微かに止まったのを感じた。

 誰かが舌打ちをする音。遠くで椅子のきしむ音。

 酸素がうまく吸えない。気道が狭くなり、過呼吸になりかけていた。


「ちょっと、高田さん」


 フロアの奥から、エリアマネージャーの苛立った声が聞こえた。


「システムの動きがおかしいんだけど。そっちの端末、なんか変な操作した?」

「すみません、今、直し……」


 言いかけて、仁は顔を上げた。

 視界の端。

 フロアの斜め前方。

 アリアが、こちらを見ていた。

 キーボードから手を完全に離している。

 彼女のデスクにある複数のモニターには、仁が今しがた引き起こしたエラーログが滝のように流れているはずだ。

 だが、彼女の深いダークブラウンの瞳は、モニターの画面を追っていない。

 仁の顔面――正確には、無精髭を削り落とし、いくつもの絆創膏を不格好に貼った顎のあたりを、真っ直ぐに射抜いていた。

 単なるシステムエラーに対する視線ではない。俺の腹の底にある狂気や、今にも破裂しそうな恐怖を、ただじっと計測するような、感情の抜け落ちた目だ。

 首筋にじっとりと冷たい汗が伝い落ちる。

 彼女は何かを知っているのか。それとも、単なる異常行動に対する不審感か。

 張り詰めた静寂の中、アリアは瞬き一つしない。彼女の視線が、絆創膏の下に隠した俺の傷跡を暴き出そうとしているように感じられ、仁はマウスを握る手をさらに硬く震わせた。

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