第5話 監視される視界
コンクリートの床に叩きつけて、粉々に踏み砕きたい。
右手の平の中で黒い絶縁テープに何重にも巻かれたスマホが、まるで不快な熱を持った異物のように感じられた。
午前6時。物流センターの夜勤明け。
疲労で関節には砂が噛んだように軋み、血の巡りがひどく悪くなっている。吐き気を伴う眩暈に耐えながら、仁は駅からの道を機械的に歩いていた。朝の冷たい空気が、寝不足で過敏になった皮膚を容赦なく刺す。すれ違う人々は皆、足早にそれぞれの現実へ向かっている。パリッとしたスーツを着た男、制服姿の学生、イヤホンをしてスマホを見つめる女。彼らの視界の端に、油臭いパーカーを着て血走った目をしている自分の姿がどう映っているのか。誰もが俺を嘲笑い、誰もが俺を監視しているのではないか。そんな錯覚が、歩みを進めるごとにべっとりと足元に絡みついてきた。吐き気をこらえ、奥歯を強く噛み締めながら、仁はただひたすらに自分のアパートを目指して歩き続けた。
昨夜、乙女はあっけらかんと言った。
スマホのレンズが塞がっていても、マイクが拾う環境音と足音の反響、そしてGPSの位置情報から、AIがネット上の過去の画像データを引っ張り出し、今の風景を自動合成しているのだと。
レンズを物理的に塞いだところで、電源が入っている限り、自分のあらゆる生体データと環境音が途切れることなく奴のサーバーへ垂れ流されている。その事実に、仁は一度は完全に打ちのめされた。見えない無数の糸で手足を縛られ、一挙手一投足をデータとして貪り食われているような絶望感だった。
だが、痛む足を引きずり、アパートの錆びた外階段を上りながら、仁の脳内である疑念がゆっくりと頭をもたげ出していた。
「……いや、おかしい」
かすれた声が、冷たい朝の空気に溶けた。
重い鉄の扉を開け、薄暗い4畳半の部屋に戻る。電気もつけず、カーテンも閉め切ったまま、仁はちゃぶ台の前にドサリと座り込んだ。手の中で握りしめていたテープ巻きのスマホを、木目の剥がれたちゃぶ台の上に置く。部屋の中は静まり返り、自分の荒い呼吸音だけが嫌に大きく響いていた。
乙女の推測は、タイムラインに流れる都市伝説としては面白い。技術的にもあり得る話なのかもしれない。だが、現実の事象に当てはめてみると、どうしても埋められない決定的な矛盾が生じるのだ。
もし、MINATOの投稿がGPSと環境音からAIが生成した「予測風景」だとするなら。
あの半額弁当の、1番上に乗っていた肉の「欠け方」はどう説明する?
現場のラックに擦り付けてできた、あのパーカーの腹部の油の「飛沫の散らばり方」は?
位置情報や足音の反響データだけで、物質のランダムな形状や、偶然についた不規則な汚れのシミまで、ミリ単位で寸分違わず再現できるわけがない。あれは予測やAIの合成といったレベルを遥かに超えている。
物理的な視覚情報だ。
カメラのレンズが光を捉えて記録した「本物の映像データ」が、間違いなく奴のサーバーに送られていた。
昼間に絶縁テープでレンズを物理的に塞ぐまでの間、このスマホのカメラは確実に生きていて、俺の生活を、俺の惨めな失敗を、余すところなく映し出していたのだ。
だが、どうやって? どういう角度で?
俺は自撮りなどしない。スマホを風景に向けてシャッターを切った覚えもない。カメラアプリを起動した記憶すら、ここ数ヶ月はないはずだ。
仁はちゃぶ台の上のスマホを手に取り、ロックを解除した。
暗い部屋の中、バックライトの青白い光が仁の疲弊した顔を不気味に照らし出す。
MINATOのアカウントを開き、過去の投稿を一つ一つ、穴が開くほど見つめ直す。
弁当の写真。油シミの写真。昨夜の裏路地の写真。
仁は各画像が持つ「アングル」と、その瞬間に自分がとっていた「姿勢」の相関関係に意識を集中させた。
まずは、高級弁当に加工されていた半額弁当の写真。
構図は、ちゃぶ台を斜め上から見下ろす角度だった。あの時、俺は左手でスマホを持ち、SNSの画面を見ながら、右手で割り箸を持とうとしていた。スマホの背面にあるメインカメラの角度は、ちゃぶ台を見下ろす俺自身の視線の角度と完全に一致する。
次に、ヴィンテージシャツに加工されていたパーカーの油シミの写真。
深夜の薄暗いトイレの鏡の前で、服の裾を引っ張り、首を曲げて自分の腹を惨めに見下ろした。その時、スマホを持った左手は腹の前にあった。これも、端末の背面カメラが腹部のシミを捉える角度として完全に一致する。
そして、昨夜の裏路地。
俺はスマホをパーカーの腹のポケットに入れていた。だから、画像のアングルは極端に低く、下から上を見上げるような構図になっていた。乙女が「お腹の高さから撮ってる」と指摘した通りだ。
すべて、その瞬間に「スマホが存在していた物理的な位置」と、「端末が傾いていた角度」から撮影されている。
フロントカメラか背面カメラかは分からない。だが、レンズが確実に光を捉え、映像として記録し、バックグラウンドで送信し続けていたことは疑いようのない事実だ。
そこまで思考が進んだ時、仁のスクロールする指の動きがピタリと止まった。
画面に表示されているのは、1週間ほど前にMINATOがアップした投稿だ。
『都会の喧騒の中に見つけた、一瞬の静寂。』
添えられた気取ったテキストと共に投稿されているのは、駅のホームから見た夕暮れの空と、線路の向こうにある古びた看板の写真。
全体にオレンジ色のフィルターがかけられ、エモーショナルな色合いに加工されているが、構図のバランスは異常なほど整っていた。
仁はその写真を見て、胃の底に氷の塊を落とされたような冷たさを感じた。
はっきりと、思い出した。
1週間前の夕方。夜勤に向かうため、俺は駅のホームのベンチに座っていた。
疲れ切った身体を持て余し、電車を待つ間、手持ち無沙汰でスマホを取り出した。猫背になりながら、どうでもいいニュースサイトのテキストを読むために、画面を顔の高さまで持ち上げていた。
その時、スマホの向こう側に、ちょうどあの看板と夕暮れの空が見えていた。
仁は、画面の中の風景と、自分の網膜に焼き付いている記憶の中の風景を、頭の中で慎重に重ね合わせる。
手前にぼやけて写り込んでいる黄色の点字ブロックと、ホームの手すり。線路を挟んで向こう側にある、錆びた消費者金融の看板。
その相対的な高さと距離感。
腹の高さから見上げたアングルではない。手元を見下ろしている角度でもない。
「……俺の、目の高さだ」
極度に乾いた声が、静まり返った部屋に落ちた。
……顔の高さでスマホを持った時、背面のレンズは、俺の眼球と全く同じ高さになる。
つまり、こいつが捉えていたのは、俺の『視界』そのものだ。
喉がヒューッと鳴り、部屋の酸素が突然半分に減ったように息苦しくなった。
俺が画面を見つめ、ニュースを読み、SNSをスクロールしているその間ずっと。俺の「目」が見ている世界と全く同じものを、この背面のレンズが同時に見つめていたのだ。
俺は自分の視界を、そっくりそのまま奴のサーバーに垂れ流していた。
ドス黒い吐き気が胃袋を駆け上がってきた。仁は口元を手の甲で強く押さえた。
MINATOがアップした夕暮れの写真は、仁自身の眼球を直接くり抜いて、そこから視覚神経のデータを引っこ抜いて再生しているかのように生々しかった。
絶縁テープでレンズを塞いだのは、つい昨日の昼間のことだ。
それまでの間、俺はどれほどの時間、この端末の画面を見つめてきた?
薄暗い自分の部屋の中、ゴミ捨て場へ向かう道、深夜の誰もいない倉庫のトイレ、始発電車の中。
暇つぶしにSNSを見ている時も、無意味なネットサーフィンをしている時も、俺の目は常にハッキングされていた。
奴のサーバーには、俺の視覚そのものが、数千、数万時間分の膨大な映像データとしてストックされている。俺が見た汚い部屋の惨状も、スーパーの半額弁当も、すれ違った見ず知らずの人間の顔も、すべてが奴の監視下にあった。
遅すぎたのだ。俺の日常の視覚データベースは、とうの昔に奴の手に渡りきっている。俺が見たものは、すべて奴の所有物になっていた。
その時だった。
ピコン。
静寂を切り裂くように、ちゃぶ台の上のスマホから軽快な通知音が鳴った。
呼吸の仕方を忘れたように胸が詰まった。
MINATOの新しい投稿を知らせる赤いバッジが、画面の上部に灯っている。
レンズは物理的に塞いでいる。何重にもテープを巻き、光すら通さないようにした。今、この瞬間の俺の姿や、この暗い部屋の様子は、絶対に撮れない。上がってくるのはせいぜい、GPSと環境音から推測された、不完全で歪んだ風景画像のはずだ。
そう分かっているのに、指先の震えが止まらない。強張る指を無理やり動かし、画面をタップする。
通知のポップアップを押す。画面が一瞬だけ白く暗転し、MINATOの最新の投稿が表示された。
『古い殻を脱ぎ捨てて、新しい自分を定義する。アップデートの時間は近い』
不穏なテキスト。
画像が表示された瞬間、仁の喉が完全に干からび、声にならない痙攣が起きた。
そこに写っているものは、風景ではない。高級な料理でも、ハイブランドの小物でもない。
画面の中央に大写しになっていたのは、無精髭の生えた、男の「顎先」と「首筋」だった。
肌の質感はAIによって滑らかに補正され、不潔な無精髭は計算されたワイルドな陰影へと美化されている。
だが、顎の右下にある、小さな三日月型の傷跡。
ラグビーの試合中、相手のスパイクのスタッドが掠って皮膚が裂けた、俺の傷跡だ。
フロントカメラだ。
俺が画面を見つめ、背面カメラで夕暮れの景色や部屋の惨状を垂れ流していたあの数え切れない時間。同時に起動していた画面側のフロントカメラが、俺の顔を下から嘗め回すように記録し続けていたのだ。
補正された骨格のラインも、傷跡の位置も、間違いなく今この部屋で震えている「高田仁」の肉体そのものだった。
風景や持ち物のパクリではない。
奴はついに、俺の生身の肉体を切り刻み、自分の顔として着込み始めたのだ。
暗い部屋で一人、画面の中の俺の顎が、薄気味の悪い笑みを浮かべているように見えた。




