第4話 SNSネイティブの指摘
畳の上に転がったスマホは、ただの黒い長方形の塊だった。
だが、ディスプレイの上部にぽっかりと開いたフロントカメラの極小のレンズが、こちらを見据える真っ暗な瞳のように思えてならない。
仁は引き出しを開け、工具箱の底から黒いビニール製の絶縁テープを取り出した。端を爪でめくり、歯で乱暴に食いちぎる。粘着質のゴムの臭いが鼻をついた。
そのテープを、フロントカメラのレンズにきつく貼り付ける。さらに裏返し、背面のメインカメラにも何重にもテープを重ねて貼った。指の腹で何度も強く擦りつけ、光の入る隙間が1ミリもないことを物理的に確認する。
不格好な黒い絆創膏を貼られたスマホを見て、ようやく少しだけ肺に空気が入った気がした。
休日だった。しかし、この狭く薄暗いアパートの四畳半に居続けることは、見えない視線に四方を囲まれているようで耐えられなかった。
仁はいつものヨレた灰色のパーカーを羽織り、テープで完全に目隠しをしたスマホを、腹のカンガルーポケットに押し込んで外に出た。
太陽の光を避けるように、駅の反対側へと足を向ける。
辿り着いたのは、シャッターが閉まったままの寂れた商店街の、さらに裏手にある路地だった。トタン屋根の古びた家屋が並び、足元には苔むしたコンクリートとひび割れたアスファルトが続いている。すれ違う人間はおろか、野良猫の気配すら見当たらない。
誰の視界にも入りたくない。誰にも俺の惨めな姿を見られたくない。
湿った日陰を歩きながら、仁は何度も足を止め、背後を振り返った。誰もいない。見上げても、開いた窓や電柱の監視カメラのようなものはない。
腹部の布越しに伝わるスマホの硬い重みだけが、自分の歩調と重なって嫌に生々しく感じられた。
その日の午後10時。
物流センターのフロアに出勤した仁は、いつもと同じパイプ椅子に腰を下ろした。一睡もできずに歩き回ったせいで、鉛のように重い疲労感が全身にのしかかっている。だが、昼間にカメラのレンズを物理的に塞いだことで、わずかながら精神的な余裕を取り戻してはいた。
「あー、今日なんか肩凝る」
隣のデスクで、乙女が首をぐるぐると回しながら背伸びをした。
彼女は机の上にスマホを置き、右手でテンキーを叩きながら、左手で器用に画面をスクロールしている。
少し離れた席では、アリアが相変わらず無言でタイピングを続けている。彼女の視線は自身のモニターに固定されており、こちらの様子を伺うようなそぶりは全くない。
作業開始から1時間が経過した頃、乙女が不意にキャスター付きの椅子を寄せてきた。
「先輩、今日なんか外歩いてました?」
「……なんで」
背筋に冷たいものが走った。
昼間の裏路地のことか。あんな寂れた場所、知り合いに見られるはずがない。
「いや、なんかこれ見て思ったんですけど」
乙女が自分のスマホを持ち上げ、仁の顔の前に突き出した。
画面に表示されていたのは、MINATOのアカウントだった。
更新時間はつい先ほど。添えられた短いテキストが目に飛び込んでくる。
『誰も知らない路地裏の静寂。世界から切り離されたような、この孤独な空気が好きだ。』
息が止まりそうになった。
画像は、レンガ調の壁と石畳が続く、外国の裏町のようなお洒落な風景だ。しかし、道のうねり方、奥にある電柱の傾斜、そして左端に写り込んでいる錆びた塩ビパイプの配置。
フィルターで鮮やかに加工され、建物の質感こそ石造りに書き換えられているが、空間の構造は、昼間に俺が歩いたあの苔むした裏路地そのものだった。
「このパイプのカーブしてる感じ、西口の裏手にある廃れた通りにそっくりじゃないですか。で、この画面の右端」
乙女の親指と人差し指が、画面の隅をピンチアウトして拡大する。
そこには、不自然に引き伸ばされたような黒い影が写り込んでいた。灰色の服を着て、背中を丸め、腹のあたりに両手を突っ込んで歩く男のシルエット。
「この猫背の感じと歩き方、完全に先輩だなって思って。MINATOの撮影の時に、たまたま近く通りかかったんですか?」
他愛のない、ただの無邪気な指摘だ。
仁は極度の喉の渇きを覚え、無意識に唾を飲み込んだ。
近くを通りかかったわけがない。あの路地には、確実に俺しかいなかった。
「……ただの他人の空似だろ。顔も写ってないし」
かすれた声で答える仁に、乙女は「えー、絶対そうですよ」と不満げに唇を尖らせた。
「でもこれ、写真自体がなんか変なんですよね」
「変?」
「はい。パッと見はエモいんですけど、拡大するとめっちゃAIっぽくて。ほら、背景の看板の文字」
乙女はさらに画像を拡大し、画面の端を指差した。
「ここ、アラビア語みたいにぐちゃぐちゃじゃないですか。最近のAIイラストでよくある作画崩壊ですよね。あと……」
彼女は画面全体を縮小し、首を傾げた。
「アングルが不自然すぎます。これ、お腹の高さくらいから撮ってますよね。普通、風景撮るなら顔の高さにスマホ構えるじゃないですか。なんか、歩きながらパーカーのポケットにでも入れたまま適当に撮った、みたいな」
お腹の高さ。
パーカーのポケット。
その単語を聞いた瞬間、仁の全身から一気に血の気が引いた。
俺は昼間、スマホをパーカーの腹ポケットに入れていた。
「……おい」
「はい?」
「ポケットに入れたスマホで……どうやって撮る。カメラのレンズは布で隠れてるんだぞ」
自分でも驚くほど低く、ひび割れた声が出た。
乙女はきょとんとした顔で、少し考えてからあっけらかんと答えた。
「あー、それこないだTikTokの都市伝説系の動画で流れてきましたよ。なんか、レンズ塞がってても、スマホのGPSの場所とか、マイクが拾う足音の響きだけで『今いる場所の風景』を勝手にAIが作るヤバい裏アプリがあるらしいです。ネットのストリートビューの画像パクって、歩く音に合わせて景色を合成するみたいな。マジキモくないですか?」
彼女にとっては、タイムラインに流れてきたゴシップ動画で仕入れた知識の一つでしかないのだろう。
「でも、そんなめんどくさいことしてまで盛る意味わかんないですけどね。普通に撮ればいいのに」
乙女は興味を失ったように肩をすくめ、スマホを伏せて作業に戻った。
仁の耳には、周囲のタイピング音すら届かなくなっていた。
右手をゆっくりとパーカーのポケットに入れ、自分のスマホを取り出す。
裏返す。
背面カメラのレンズには、昼間に貼った黒い絶縁テープが、シワ一つなくしっかりと張り付いている。剥がれた形跡は全くない。フロントカメラも同様だ。
視覚は、完全に物理的に遮断したはずだった。
だが、敵はカメラのレンズなど必要としていなかったのだ。
位置情報。マイクが拾う環境音と足音の反響。歩幅を検知するジャイロセンサーの揺れ。
スマホという小さな箱の中にあるあらゆるセンサーが、俺の歩調、心拍、周囲の空間の広がりをリアルタイムで数値化し、どこか見知らぬサーバーへと送信し続けている。
そして、そのデータと過去の風景画像をAIが掛け合わせ、全く新しい「MINATOの現実」として出力する。
テープを貼って安心していた昼間の自分が、ひどく滑稽に思えた。
レンズを塞いだところで、電源が入っている限り、この黒い板は俺のあらゆる生体データと環境音を垂れ流す裏切りの装置だ。
足元から床が抜け落ちるような、底知れない悪寒が走った。
「先輩、どうしたんですか?」
隣から乙女の声がする。
「なんか、急に黙り込んじゃって……手、震えてますよ?」
心配そうな彼女の声が、分厚いガラス越しのようにひどく遠く聞こえた。
仁は手の中にある黒い板を、そのままコンクリートの床に叩きつけて粉々に踏み砕きたくなる衝動を必死に堪えていた。




