第3話 見えないストーカー
便器の底に、胃液が勢いよくぶちまけられた。
「……っ、げほっ、おぇっ」
ひどく酸っぱい匂いが、狭いユニットバスの中に充満する。昨日から固形物をろくに口にしていないせいで、吐き出されるのは黄色く濁った液体ばかりだった。吐くものなど何もないはずなのに、胃袋が雑巾のように強く絞り上げられ、内臓が裏返りそうな痙攣が止まらなかった。
冷や汗が額から顎を伝い、ポタポタと便器の水だまりに落ちる。便座にしがみつく指先は白く鬱血し、小刻みに震えていた。吐き気と共に、得体の知れない恐怖が胃の底からせり上がってくる。自分が自分であることの境界線が、少しずつ削り取られていくような感覚。
5分ほどそうして便器を抱え込んだ後、仁はふらつく足で立ち上がり、洗面台の蛇口をひねった。両手ですくった冷たい水で何度も口をゆすぎ、顔を洗う。水の冷たさが、少しだけ乱れた心拍を鎮めてくれる気がした。
タオルを顔に押し当てて拭い、鏡を見た。
酷い顔だ。眼球の周りは落ち窪み、肌は生気を失っている。充血した両目は、まるで何かに取り憑かれたようにギラギラと濁った光を放っていた。
「……どこだ」
枯れた声が漏れた。
唇を噛み締め、仁は洗面所を出て部屋の中を見渡した。
確実にこの四畳半の部屋のどこかで、息を殺して俺を観察している奴がいる。
押し入れの戸を勢いよく引き開け、プラスチックの衣装ケースを畳の上に放り出した。その奥に突っ込んであった工具箱の中から、100円均一で買ったプラスドライバーを取り出す。
まずはコンセントカバーだ。
壁の下の方にある黄ばんだカバーの隙間にドライバーをねじ込み、強引に剥がす。バキッという嫌な音がして親指の爪が割れ、血が滲んだが、痛みなど感じなかった。構わずに懐中電灯で中を覗き込む。
埃まみれの配線が剥き出しになっているだけだ。黒い豆粒のような盗聴器や、小型カメラのレンズらしきものは見当たらない。
「次だ……」
這いつくばるようにして、テレビの裏側、冷蔵庫の隙間、ちゃぶ台の裏を這いずり回る。長年蓄積された埃が舞い上がり、喉の奥に張り付く。激しく咳き込みながらも、探索の手は止めなかった。
古いラグビー雑誌が積み上げられた束を蹴り飛ばし、パイプ椅子を部屋の中央に引きずってきて、その上に乗る。
天井の火災報知器のカバーを外し、エアコンのルーバーを無理やりこじ開け、スマホのライト機能を使って奥の奥まで照らし出した。
カビと、得体の知れない虫の死骸があるだけだ。
「どこだ、どこから見てるんだよ……!」
見えない敵への怒りと恐怖がないまぜになり、声が震える。
苛立ちと焦燥感が頂点に達し、仁は万年床になっていた布団を勢いよく蹴り飛ばした。
そのまま畳の縁にマイナスドライバーをねじ込み、強引に持ち上げる。ミシリと床板が鳴り、カビ臭い湿った空気が吹き出してきた。床下にもぐりこむほどの隙間はない。だが、念のために隙間からライトを当て、不自然な配線がないか目を凝らした。
1時間後。
仁は、泥棒にでも入られたように荒れ果てた部屋の真ん中で、力尽きたようにへたり込んだ。
何もない。
素人が隠せるような場所は、すべて物理的に破壊する勢いで探した。だが、レンズ1つ、マイク1つ出てこない。
部屋の中にないなら、外からか。
仁は這うようにして窓辺に寄り、遮光カーテンの隙間からわずかに外を覗き込んだ。
時刻は昼過ぎ。太陽の光が容赦なくアスファルトを照らし、揺れる陽炎を作っている。
見慣れた古びた路地。向かいには、3階建ての単身者向けマンションが建っている。いくつかあるベランダには洗濯物が干され、平日の昼下がり特有の気怠い静寂に包まれていた。
あのマンションのどこかの窓から、双眼鏡か望遠レンズで狙われているのか?
いや、あんな遠距離から、俺の手元の弁当の具材や、服の数ミリの油シミなんて鮮明に見えるわけがない。それに、俺の身体が死角になるはずだ。
だが、確認せずにはいられなかった。
仁は靴を突っかけ、アパートの外に出た。
太陽の眩しさに目を細めながら、自分の部屋の真下まで行き、そこから自分の窓を見上げる。2階の角部屋。やはり、下から中を覗き込むのは物理的に不可能だ。向かいのマンションからの角度も、窓際まで行かなければ部屋の奥までは見通せない。もし万が一、高性能なドローンでも飛ばしていれば別だが、そんな羽音は一度も聞いていない。
「……クソッ」
見えないストーカーの気配だけが、首筋にねっとりと張り付いている。
姿のない敵に四方を囲まれているような、圧倒的な無力感。
仁はアパートの階段の途中に座り込み、両手で頭を抱えた。誰かに見られているというパラノイアが、脳の血管を内側から圧迫してくるようだった。
そのまま一睡もできないまま、夜が来た。
午後10時。
物流センターのフロアは、いつもと変わらぬ無機質なタイピング音に包まれていた。まるで巨大な歯車が、人間という部品をすり潰しながら回り続けているような音だ。
モニターを見つめる仁の視界は、常にぼやけていた。画面の中の数字の羅列がゲシュタルト崩壊を起こし、意味のあるデータとして脳に認識されない。ただの黒い虫の群れが蠢いているように見えた。バックスペースキーを叩く回数が、普段の倍以上に増えている。指先がうまく動かず、別のキーを巻き込んでしまうのだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
隣から、丸山乙女の声がした。
キーボードから手を止めずに横目でチラリと見ると、彼女は露骨に顔をしかめていた。
「顔色、やばいですよ。なんか死んでますよ? ちゃんと寝てます?」
「……ちょっと、寝付きが悪かっただけで」
「ゲームのやりすぎじゃないですか? いい歳して夜更かしは肌に良くないですよ。あ、新しい美容液のリンク送ります?」
乙女がデスクの下のスマホをタップした瞬間だった。
ピコン。
彼女のスマホから、軽快な通知音が鳴った。
「っ!」
仁の肩がビクッと跳ね、パイプ椅子が床を擦って甲高い音を立てた。
「うわ、びっくりした。どうしたんですか急に」
「いや……なんでもない」
冷や汗がどっと噴き出した。
ただの通知音だ。乙女のスマホが鳴っただけだ。それなのに、あの音が鳴るたびに恐怖が条件反射のように襲ってくる。心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。
「変なの」と呟いて、乙女は再び作業に戻った。
仁は震える手を隠すように、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ。親指の爪が割れた痛みが、今になってジンジンと響き始めていた。
午前3時。
休憩時間になり、仁は逃げるようにフロアを出て自販機コーナーへと向かった。
カフェインでも入れなければ、このまま本当に意識を失ってしまいそうだった。蛍光灯の明かりすらが今の仁には眩しすぎる。
ポケットから小銭を取り出そうとしたが、指先が痺れてうまく動かず、100円玉を床に落としてしまった。
硬貨はチャリンと音を立てて転がり、自販機の影へと消えかける。
拾おうと身を屈めた仁の手より先に、白い指先がその硬貨を拾い上げた。
「……落とした」
見上げると、アリアが立っていた。
彼女は自分の分の微糖コーヒーを左手に持ち、右手で100円玉を差し出している。周囲の空気をそこだけ切り取ったような、静謐で冷ややかな存在感。
「ああ、悪い」
硬貨を受け取る際、彼女の冷たい指先がわずかに触れた。
アリアはすぐには立ち去らず、その深く暗い瞳で仁の顔をじっと見下ろした。
「……何か」
「寝てないの」
抑揚のない、平坦な声だった。
「ちょっと寝不足なだけだ。気にするな」
仁は視線を逸らし、自販機のボタンを強く叩いた。
ガコンと音を立てて缶コーヒーが落ちる。それを拾い上げようと屈んだ仁の背中に、アリアの声が静かに響いた。
「入力エラーの弾きが、いつもの倍出てる」
「……」
「システムのアラートがうるさい。休めば」
淡々とした、事実だけを告げる声。彼女の目には非難の色すらなく、ただエラーの原因を取り除きたいというシステム管理者としての合理性だけがあった。
「考え事をしてただけだ。もう戻る」
仁は冷たい缶コーヒーを握りしめ、逃げるようにその場を立ち去った。
午前6時。
シフトが終わり、仁はパイプ椅子から重い腰を上げた。そのまま、油の染み付いたヨレたパーカーを着たまま、足早に物流センターを後にする。
朝の冷たい空気が、熱を持った顔に突き刺さる。すれ違う人々の視線がすべて自分に向けられているような被害妄想が、歩みを進めるごとに膨らんでいった。誰かがスマホを構える動作をするだけで、ビクッと身体が強張る。
這うようにしてアパートの階段を上り、泥棒に入られたように荒れ果てた部屋に戻る。散乱したラグビー雑誌やひっくり返った衣装ケースを直す気力もなく、仁は畳の上に座り込んだ。
静寂が、耳鳴りとなって鼓膜を叩く。
ジーンズのポケットから、自分のスマホを取り出す。
画面をタップしてロックを解除する。
真っ暗な画面に、自分の疲弊しきった顔が反射していた。
部屋にカメラはない。外からの盗撮も不可能だ。
俺の動きを、俺の視点と全く同じ角度で捉え、数時間後に完璧な画像として出力する。
そんな魔法のようなことができる「目」が、一体どこにあるというのだ。
ふと、仁の視線が、画面の上部で止まった。
フロントカメラの、極小のレンズ。
「まさか……な」
かすれた声で呟く。
ハッキング? 遠隔操作?
映画の中の話だ。この何の変哲もない安物のスマホが、俺を監視するスパイ道具になっているとでもいうのか。普通に考えればあり得ない。
だが、一度そのレンズを意識してしまうと、もうそこから目を逸らすことができなかった。
漆黒の小さな穴が、まるでこちらをじっと見つめ返す瞳のように見える。
心臓が嫌なリズムで跳ね、手のひらにじわっと嫌な汗が滲んだ。
親指でレンズの部分をそっと隠してみる。しかし、カメラアプリを立ち上げているわけでもないのに、誰かの視線を遮ったような、奇妙で生々しい感触が指先に残った。
仁は弾かれたようにスマホを畳の上に放り投げた。
ゴトッという乾いた音が響く。
上を向いたまま静止したスマホ。その画面の奥にある真っ黒なレンズが、今この瞬間も、息を殺してこちらを観察し続けているような気がした。




