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第2話 染み付いた汚れの変換

 ちゃぶ台の上に放置された半額の焼肉弁当は、そのままコンビニのレジ袋に突っ込んでゴミ箱に捨てた。

 今朝のことだ。気味が悪くて、とても箸をつける気にはなれなかった。

 泥のような短い睡眠を取り、夕方に目を覚ましてからも、あの不気味な感覚は胃の底にへばりついていた。しかし、シャワーを浴びて外の空気を吸ううちに、少しずつ理性が働き始めた。


「あんなの、偶然に決まってる」


 アパートの錆びた階段を下りながら、仁は小さく息を吐いた。

 スーパーの弁当なんて、工場で何千、何万個と同じ型で作られている既製品だ。肉の形やタレの染み込み方だって、似たようなパターンになることはいくらでもあるだろう。それに、MINATOがアップした写真は画質も良くてフィルターもかかっている。脳が勝手に「完全に同じだ」と錯覚しただけだ。

 疲れているんだ。毎日毎日、深夜の倉庫で意味のない数字を追いかけているせいで、頭がおかしくなりかけている。

 そう自分に言い聞かせることで、仁はなんとか正気を保とうとしていた。


 午後10時。物流センターのフロアは、今日も容赦なく底冷えしていた。

 コンクリートの床から這い上がってくる冷気が、スニーカーの底を通り抜けて足元から体温を奪っていく。

 仁はいつも通り、ヨレた灰色のパーカーを羽織り、モニターに向かっていた。画面を流れる在庫データの数字をただ機械的に目で追い、テンキーを叩く。


「あー、マジで意味わかんない。絶対アルゴリズム変わったし」


 隣のデスクで、丸山乙女が忌々しそうに舌打ちをした。彼女はキーボードに手を置いたまま、視線はデスクの下のスマホに釘付けになっている。彼女のスマホケースは派手なラインストーンでデコレーションされており、この無機質な空間で異彩を放っていた。


「どうした」


 仁が視線をモニターに向けたまま尋ねると、乙女は待ってましたとばかりにキャスター付きの椅子を寄せてきた。


「昨日アップした自撮り、全然インプレッション回んないんですよ。絶対シャドウバンされてる。こんなに盛れてるのに、あり得なくないですか?」

「……そんなもんか」

「そんなもんか、じゃないですよ。承認欲求満たされないと死んじゃう病気なんです、私。先輩みたいに、SNS見なくても平気な人が信じられないです」


 悪気のない言葉だが、チクリと胸の奥が痛んだ。俺だって平気なわけじゃない。見なければいいと分かっていても、MINATOの投稿を見てしまう。他人の輝かしい生活を覗き見ることでしか、自分の空っぽな人生を埋め合わせられないのだ。

 フロアの斜め前方では、システム管理担当のアリア・ラフマーニがキーボードを叩いていた。彼女の画面には、仁たちが扱う単純な表計算ソフトとは違う、細かな文字列が滝のように流れている。時折、エラーログらしき赤い表示が出ても、彼女のタイピングの速度が落ちることはない。


 午前2時。作業の中だるみがピークに達した頃、エリアマネージャーがバインダーを片手に仁の席に歩み寄ってきた。


「高田さん、悪いんだけど、C区画のパレット確認してきてくれない? システム上のロット番号と、現場の数が合ってないみたいなんだ」

「わかりました」


 仁はパイプ椅子から立ち上がり、凝り固まった首を鳴らした。冷え切った身体を動かすには丁度いいかもしれない。

 バインダーを受け取り、フロアを出て現場の倉庫エリアへと向かった。

 C区画は倉庫の奥深く、照明も間引かれた薄暗いエリアだった。高く積み上げられた段ボールの山が、巨大な壁のようにそびえ立っている。フォークリフトが行き交うための通路が迷路のように入り組んでおり、機械油と埃の混じった独特の匂いが鼻をついた。

 目的のパレットを見つけ、バインダーの数字と現物のラベルを照らし合わせる。


「……やっぱり入力ミスか」


 前任者が桁を一つ間違えていたらしい。赤ペンで修正を書き込み、来た道を戻ろうとした時だった。

 通路の脇に、古びた鉄製のラックが無造作にはみ出していた。避けて通ろうとしたが、疲労で足元がもつれ、バランスを崩した。


「っと……」


 咄嗟に身をよじったが、腹のあたりがラックの角に強く擦れた。

 鈍い痛みはなかったが、嫌な感触があった。

 見下ろすと、灰色のパーカーの腹部に、べっとりと黒い汚れが付着していた。ラックの可動部に塗られていた古い機械油だ。


「最悪だ……」


 仁は舌打ちをし、急いで近くのトイレへ駆け込んだ。

 洗面台の鏡に映る自分は、相変わらず酷い顔をしている。パーカーの裾を引っ張り、緑色の液体石鹸をつけて冷たい水でゴシゴシと擦った。

 しかし、粘り気のある古い油汚れは、水と石鹸を弾き、かえって生地の繊維の奥へと広がってしまった。

 濡れた箇所をペーパータオルで叩くように拭き取る。

 シミは落ちるどころか、奇妙な形に定着してしまった。

 中心は一番濃い黒色で、そこから右斜め上に向かって、油の飛沫が三つ、点々と飛んでいる。縁の部分は水で擦ったせいでぼんやりと滲み、なんだか不気味な模様のようになっていた。

 これ以上やっても生地が傷むだけだ。諦めて濡れたままのパーカーを着て、フロアへと戻った。


 席に着くなり、隣の乙女が鼻をヒクつかせた。


「うわ、先輩なんか油臭いんですけど。ってか、服めっちゃ汚れてるじゃないですか」

「現場のラックにちょっと擦ったんだ。気にしないでくれ」

「気にしないってレベルじゃないですよ。それ、もう絶対落ちないやつです。ファストファッションでしょ? クリーニング出すより、捨てて新しいの買った方が早いですよ」


 乙女の言葉は容赦がなかった。彼女にとって衣服は消耗品であり、汚れたら捨てるのが当たり前なのだ。


「ああ、そうだな……」


 適当に相槌を打ちながら、仁は自分の腹部のシミを見下ろした。捨てて新しいものを買う金すら、今の自分には惜しい。このまま着続けるしかない惨めさが、油の臭いと共に立ち上ってくる。

 ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席のアリアと目が合った。彼女は打鍵の手を止めずに、仁の腹部の汚れを無言で一瞥しただけだった。何かを言ってくるわけでもなく、数秒後には再びモニターへと視線を戻していた。


 午前6時。

 長い深夜シフトが終わり、仁は油臭いパーカーを着たまま、逃げるように帰路についた。

 朝の光が眩しく、すれ違う人々の視線がすべて自分の腹部のシミに向けられているような錯覚に陥る。スーパーの惣菜コーナーに寄る気にもなれず、まっすぐアパートへ帰った。今朝捨てた半額弁当の記憶が、まだ尾を引いている。

 鉄の扉を開け、薄暗い部屋に足を踏み入れる。

 すぐにパーカーを脱ぎ、洗濯機に放り込もうとした。

 だが、その前に、腹部のあのシミが目に入った。

 中心の濃い黒。右斜め上に向かって飛んだ三つの飛沫。水で滲んだぼやけた縁。

 不意に、背筋に冷たいものが走った。


「まさか、な」


 仁はパーカーを床に落とし、ジーンズのポケットからスマホを取り出した。

 SNSアプリのアイコンを見つめる。

 タップするのが怖い。確認しなければ、ただの被害妄想で終わらせることができる。

 だが、親指は無意識のうちにアプリを開いていた。


『MINATO』


 アカウントのトップページを開く。

 新しい投稿が、つい数十分前にアップされていた。


『お気に入りのヴィンテージシャツ。この染め抜きのパターンの入り方、偶然の産物だからこそ世界に一つだけのエモさがある。服も人生も、予測不可能なエラーを楽しむくらいが丁度いい。皆も良い1日を』


 写真。

 朝の光が差し込む、お洒落なカフェのテラス席らしき背景。大理石のテーブルの上には、エスプレッソのカップが置かれている。

 そして、画面の大部分を占めているのは、MINATOの首から下の自撮りだ。

 彼が着ているのは、上質なシルクかレーヨンのような、鈍い光沢を放つダークグレーのシャツ。

 だが、仁の視線は、そのシャツの腹部のあたりに釘付けになった。


『染め抜きのパターン』と呼称された、黒い模様。


 肺から空気が抜け、浅い呼吸が喉の奥で引きつった。

 仁は床に落とした自分のパーカーを拾い上げ、画面の隣に並べた。

 スマホの画像をピンチアウトして拡大する。

 ヨレた灰色のパーカーについた機械油のシミと、画面の中の高級なヴィンテージシャツの染め抜き模様。

 あの時についた三つの飛沫も、水で擦って滲んだ不規則な縁の形も、すべてが同じだ。

 完全に、一致している。


 弁当の時は、「工場で作られた既製品だから」と、無理やり自分を納得させることができた。

 だが、これはどうだ。

 ふざけるな。

 数時間前だぞ。C区画でラックに擦ってついた、ただの機械油の汚れだ。

 トイレで洗って、余計に広がったあのシミだ。

 俺の無様な失敗でできた、不規則な汚れだろ。

 なんで、こいつのシャツの柄になってる?


 エラーを楽しめだと?

 俺の惨めな失敗すら、こいつにとっては15万人から「いいね」を貰うための餌でしかないというのか。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち付け、こめかみの血管が嫌なリズムで跳ね始めた。

 部屋の空気が急に冷たくなり、酸素が薄くなったように感じる。

 スマホを持つ手が小刻みに震え、カタカタと微かな音を立てていた。

 偶然じゃない。

 こいつは、俺を見ている。

 俺の生活の断片を、リアルタイムで切り取り、加工して、自分の輝かしい人生の小道具として消費している。

 どこから見てる。

 部屋の中か。倉庫の通路か。あの薄暗いトイレの中か。

 わからない。

 確実なのは、俺の日常が、一挙手一投足が、こいつの指先で都合よく「加工」されて消費されているという事実だけだ。

 胃の底から熱いものがこみ上げてきた。仁は口元を乱暴に押さえ、トイレに向かって這いずるように駆け出した。

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