第1話 無能の烙印と最深部への切符
カタカタ、ターン。
無機質なタイピング音が、巨大な冷蔵庫のように冷え切った物流センターのフロアに一定のリズムで響き渡っている。
午前4時。人間のバイオリズムが最も底を打つ、深く重たい時間帯だ。
高田仁は、充血した目をこすりながらモニターの数字を無表情に追っていた。入庫伝票のデータと在庫システムの照合。意味を持たない英数字の羅列が、ただ右から左へ、機械的に流れていく。
背中を丸め、ひたすらにテンキーを叩き続ける。乾燥した冷房の風が、無精髭の生えた頬をざらりと撫でていく。瞬きをするたびに眼球の裏側が軋むような鈍い痛みがあった。深夜シフトは体力を根こそぎ奪っていく。かつてラグビーの厳しい練習で鍛え上げた筋肉も、31歳という年齢と不規則な生活の前に少しずつしぼみ、今ではただ身体を重くするだけの無用の鎧に成り下がっていた。
「あー、マジで盛れてない。死ぬ」
隣のデスクから、丸山乙女の小声が聞こえた。
彼女はデータ入力の手を完全に止め、デスクの下に隠したスマホの画面を不満げに見つめている。22歳のフリーター。明るく人懐っこいが、息をするように自撮りをしてはSNSにアップしている。仕事中だろうと監視の目さえなければお構いなしだ。
「先輩、このフィルターどう思います? 顎のライン削りすぎですかね」
乙女がキャスター付きの椅子を滑らせて、スマホの画面を強引に向けてきた。
画面の中には、実物より目が1.5倍ほど大きく、肌が陶器のように滑らかに加工された彼女の顔が映っている。元の顔も愛嬌があって十分に整っていると思うのだが、画面の中の彼女はまるで別人のような、現実離れした完璧な造形をしていた。
「……別に、普通じゃないか」
仁は気だるい声で返し、すぐに視線をモニターに戻した。関わり合う気力すらない。
「普通って一番傷つくんですけど。もういいです、先輩はおじさんだからSNSの繊細なニュアンスが分かんないんですよ」
乙女は不満げに唇を尖らせてスマホをしまい、大きなため息をついてから再びキーボードを叩き始めた。
フロアの少し離れた席では、システム管理担当のアリア・ラフマーニが、微動だにせずコードを打ち込んでいる。深いダークブラウンの瞳はモニターの青白い光を反射し、周囲の雑談や物音など一切耳に入っていないようだった。黒いタートルネックを着込み、存在感を意図的に消しているが、その冷ややかな横顔は深夜の薄暗い倉庫には不釣り合いなほど整っている。彼女もまた、この吹き溜まりのような場所では異質な存在だった。
仁は小さく息を吐き、凝り固まった首の骨を鳴らした。
画面上の数字がぼやける。鏡を見るまでもなく、自分の顔がどれほどひどい有様か想像がついた。ヨレたパーカーに、生気の抜けたどんよりとした目。
俺は人生の敗北者だ。
その無能の烙印は、この単調で終わりの見えない深夜シフトの度に、魂の奥底へ深く刻み込まれていく。最深部へと向かう一方通行の切符を握りしめたまま、自分の時間はただ無意味に腐り落ちていくだけだ。
午前6時。
シフトが終わり、倉庫の外に出ると、白み始めた空から肌を刺すような冷たい風が吹き付けた。
最寄り駅までの道を歩きながら、仁はパーカーのポケットで両手を丸めた。すれ違うのは、これから出勤していくパリッとしたスーツ姿の会社員たちだ。彼らの足取りは軽く、顔には今日1日のスケジュールと社会的な責任が刻まれている。彼らと自分の間には、目に見えない透明で分厚い壁がそびえ立っているように感じた。歩く世界が違うのだ。
駅前の24時間営業のスーパーに立ち寄るのが、仁の毎朝のルーティンだった。
自動ドアを抜け、惣菜コーナーへ直行する。狙うのは、夜の間に売れ残り、消費期限が迫って半額シールが貼られた弁当だ。定価で買うような余裕はないし、帰ってから自炊をする気力も体力も残っていない。
「……あった」
プラスチック容器に入った「特盛り牛焼肉弁当」。定価580円の赤い半額シールが貼られている。仁はそれをカゴに入れ、ついでに1番安い発泡酒を1本だけ取った。
無人のセルフレジに商品をスキャンする。ピッ、という無機質な電子音だけが朝のスーパーに空しく響いた。小銭を投入口に流し込み、レシートを受け取る。誰とも言葉を交わさないまま、店を出て自分のアパートへと向かった。
築40年、木造2階建てのアパート「コーポ松葉」。
外階段を上るたびに、鉄の錆びた嫌な音が響く。壁は薄く、隣の部屋から目覚まし時計の電子音が壁伝いに振動となって伝わってくるような物件だ。
重い鉄の扉を開け、ワンルームの部屋に入る。カーテンは昨日から閉め切ったままで、部屋の中は薄暗く、埃と古い畳の乾いた匂いが染み付いている。
上着を脱ぎ捨て、部屋の中央にある小さなちゃぶ台の前にドサリと座り込んだ。
ビニール袋からプラスチック容器の焼肉弁当を取り出す。
冷え切った弁当のフタを開ける。タレの染み込んだご飯の上に、薄い牛肉が数枚、無造作に重なっている。端の方には申し訳程度のナムルと、少し干からびたキムチ。美味そうには見えないが、生命を維持するための燃料だと思えばどうでもよかった。
仁は割り箸を割り、発泡酒のプルタブを開けた。
プシュ、という安っぽい炭酸の音が、静まり返った部屋に響いた。
ぬるい酒を胃に流し込みながら、空いている左手でスマホを取り出す。無意識にタップして開いたのは、SNSのアプリだった。
初期設定の適当な英数字のアイコンのまま、自分では1度も投稿したことがない「見る専」のアカウント。
フォローしている数は片手で数えるほどだが、その中で仁が毎日欠かさずチェックしているアカウントがあった。
『MINATO』
フォロワー数、15万人。
ライフスタイルやビジネスの成功哲学を発信しているインフルエンサーだ。
画面をスクロールすると、色鮮やかな写真が次々と現れる。
都心のタワーマンションから見下ろす眩い夜景。
ステアリングの中央に輝く高級外車のエンブレム。
間接照明に照らされたデザイナーズ家具。
そして、時折写り込む「素敵な彼女」の艶やかな長い髪や、華奢な手首。
年齢はプロフィールの記載によれば31歳。仁と同い年だ。だが、住んでいる世界は天と地ほども違う。
MINATOは自分の顔を完全には出さない。常に首から下の服装だったり、顔の上半分をサングラスやスタンプで隠したりしている。だが、鍛えられた身体のラインや、チラリと見える顎の輪郭からは、彼が洗練された魅力的な男であることが容易に想像できた。
『今日の出会いに感謝。常にアップデートし続けることでしか、本当の景色は見えない』
写真に添えられた、意識の高いポエムのような文章。
普段なら鼻で笑ってしまいそうな言葉だが、仁は画面から目を離せなかった。
羨望、嫉妬、そして猛烈な自己嫌悪。
もし、あの時怪我をしてラグビーを辞めていなければ。もし、就職活動でつまずいていなければ。俺も、こいつのような「成功者」になっていたのだろうか。
発泡酒の缶を握りしめながら、仁はMINATOの輝かしい日常を貪るように見つめ続けた。それが、彼にとって唯一、自分の惨めな現実を忘れられる麻薬のような時間だったからだ。
画面の上部に通知のバッジが表示された。
MINATOの新しい投稿だ。
仁は発泡酒の缶を置き、親指で画面をスワイプしてフィードを更新した。
1番上に表示されたのは、食べ物の写真だった。
『最高の朝食。たまには自分へのご褒美に、行きつけの店の特製焼肉弁当。上質な肉の脂が、今日の活力をくれる。皆も良い1日を』
写真に写っているのは、重厚な漆黒の弁当箱に美しく盛られた焼肉弁当だった。高級感のある木目のテーブルの上に置かれ、傍らには水滴のついたクリスタルグラスが添えられている。見ているだけで食欲をそそるような、完璧な「映える」写真だ。
「……へえ、美味そうだな」
仁はため息をつき、手つかずのまま置かれたプラスチック容器の半額弁当に目を落とした。
惨めさが一層増す。同じ「焼肉弁当」でも、ここまで違うものか。
そう思いながら、再びスマホの画面に目を戻した瞬間。
仁の視線が、ピタリと止まった。
「ん……?」
何かが、おかしい。
直感的な違和感が、背筋を撫で上げた。
仁はスマホの画像をダブルタップし、ピンチアウトして拡大した。
漆黒の高級弁当箱に盛られた肉。
その肉の、重なり方。
1番上に乗っている肉の右下の端が少しだけ欠けていて、その下の肉の脂身が僅かに覗いている。
「……」
仁は息を詰め、ちゃぶ台の上の実物を見た。
1番上の肉の欠け方も、そこから覗く脂身も同じだ。
「偶然だろ……」
呟きながら、仁は再び画面を見る。
肉の左上。タレが不自然に濃く染み込んだ、シミのような模様。
今度は実物の肉を見る。全く同じ位置に、同じ形のシミがある。
こめかみから、冷たい汗がツーと流れ落ちた。
仁はスマホを顔に近づけ、さらに画像を細部まで確認した。
左端に添えられたナムルとキムチ。その境界線。キムチの赤い汁が、ナムルの白いもやしに浸食している形。
そして、極めつけは――。
弁当箱の右上の隅、黒いフチに張り付くように残っている、1粒の白い米粒。
プラスチック容器の右上の隅にも、1粒の米粒が全く同じ角度で張り付いている。
「嘘だろ……」
声が震えていた。
配置、形、比率。肉の焼け具合から、タレの染み込み方、ネギの散らばり方に至るまで。
それは「似ている」というレベルではない。完全に一致している。
ここにある半額弁当と、画面の中の高級弁当は、物質としては別物に見える。容器も違うし、テーブルの背景も違う。色味も、フィルターがかかっていて鮮やかだ。
だが、具材の形状は、寸分違わず同じなのだ。
仁はスマホを取り落としそうになり、慌てて両手で握り直した。
呼吸が浅くなる。ドクン、ドクンと、耳の奥で心臓の音がうるさく鳴り始めた。
どういうことだ。なんで俺の弁当が、こいつのアカウントに……?
さっき買ったばっかだぞ。箸すらつけてない。俺以外、誰も見てるわけないのに。
仁は勢いよく立ち上がり、ちゃぶ台を蹴飛ばしそうになりながら部屋の中を見回した。
薄汚れた壁、閉まりきったカーテン、天井の古い蛍光灯。
隠しカメラ? 盗撮?
息を荒くしながら、クローゼットの扉を乱暴に開け放つ。ホコリが舞い上がるだけで、カメラのレンズらしきものは見当たらない。
台所に駆け込み、換気扇のカバーを無理やり外して中を覗き込む。油汚れがこびりついているだけだ。
窓に駆け寄り、遮光カーテンを力任せに引き開ける。
朝の光に照らされた、見慣れた古びた路地。ちょうどゴミ収集車が通り過ぎていくだけだ。
誰もいない。誰も、こっちを見ていない。
息を切らしながら振り返り、ちゃぶ台の上に放置された半額弁当を見る。
肉の重なり。タレのシミ。張り付いた米粒。
そして、左手に握りしめたスマホの画面の中で輝く、15万人の「いいね」を集める高級焼肉弁当。
錯覚じゃない。
背筋が粟立つ。見えない視線が、皮膚の表面を這い回るような強烈な悪寒。
誰かが見ている。
俺の部屋を、俺の生活を、どこからか確実に見ている。




