第53話 なつみのシナリオ
胃の腑が、焼け付くように熱かった。
深夜の木造アパート。壁の薄い四畳半には、遠くの国道を走り抜ける大型トラックの低い排気音が、重い地鳴りのように絶え間なく伝わってくる。サッシの立て付けが悪く、僅かに空いた隙間から這い込んでくる冷たい夜風が、長年染み付いたカビと埃の臭いを淀んだ空間でかき回していた。部屋を照らすのは、天井からぶら下がる裸電球の頼りない黄色い光だけだ。
仁は縁の欠けたちゃぶ台の前に座り込み、くすんだガラスのコップを無言で見下ろしていた。
底に沈んでいるのは、近所のスーパーの隅で半額シールが貼られていた『もろみしぼり酢』の赤黒い液体だ。普段なら水で割るところだが、今は原液のままである。ツンとした強烈な酸の匂いが、室内の冷たい空気を容赦なく切り裂いて、鼻腔の奥を直接打つ。
その傍らには、色褪せたプラスチックのタッパーに無造作に入れられた純黒糖の塊があった。沖縄産の、ごつごつとした岩の欠片のような不揃いの黒い塊だ。表面には細かい粉が吹き、土のような素朴な匂いが漂っている。
仁はその中で一番大きなひとかけらを無造作に指でつまみ上げ、口の中に放り込んだ。
奥歯で力任せに噛み砕く。ジャリッという硬い音とともに、濃厚で暴力的な甘みが、舌の粘膜にべっとりとへばりついた。唾液腺が強烈に刺激され、口内が一瞬にして甘さで満たされる。
その直後、コップを掴み、もろみしぼり酢を一気に喉の奥へと流し込んだ。
「……っ」
むせ返るような強烈な酸味が、黒糖の甘みを一瞬で蹂躙した。食道を鋭い刃物で削り取られるような熱が走り、そのまま胃袋の底へと重く落ちていく。額にじわりと脂汗が浮かび、首筋の血管がドクンと大きく脈を打った。相反する極端な味覚が口内で激しく衝突し、細胞という細胞が強制的に叩き起こされる感覚があった。
数時間前、なつみが手配した高級レストランで口にしたディナーの残像。アルデンテの太麺に絡みつく鮮やかなトマトソース、粗挽きソーセージから弾けた肉の脂、オリーブオイルの艶、バジルの青々とした香り。それらすべての洗練された旨味の記憶が、この暴力的な酸の刺激によって完全に消え失せていた。
その事実を噛みしめるように、仁はもうひとかけら、黒糖を口に放り込んだ。
「ミャッ」
足元で短い鳴き声がした。部屋の隅に置かれた段ボール箱の毛布から這い出してきた茶トラのキナコが、黒糖の匂いに惹かれたのか、前足を仁の太ももにかけて小さな鼻をヒクヒクと動かしている。その背後から、キジトラのムギもとことこと歩いてきて、仁の足首に丸い頭を擦り付けてきた。
だが、直後にもろみしぼり酢の鋭い刺激臭に気づいたのか、キナコは両耳をペタンと後ろに伏せ、「シャーッ」と小さな威嚇の息を吐いた。そして、慌てて後ずさりし、ムギとぶつかって擦り切れたイグサの上をごろごろと転がっていく。二匹はそのまま短い手足をバタつかせ、もつれ合いながら細い乳歯を立てて取っ組み合いのじゃれ合いを始めた。
その不格好で滑稽な動きに、仁の口元がわずかに緩む。
指先に触れる、彼らの確かな生身の温もり。柔らかな産毛の下にある、微細だが規則正しい心臓の鼓動。ゴミ捨て場で掌に収まった時の、あの凍りつくような頼りなさはもう消え去っている。毎日少しずつだが、小さかった身体には確かな重みが備わり始めていた。指の腹を押し返すような命の熱が、じんわりと皮膚越しに伝わってくる。この四畳半にある、俺が触れられるものだけが、コントロールできる地に足のついた現実のすべてのはずだった。
だが、スウェットの右ポケットに入っている黒いスマホが、先ほどから不快な微熱を持ち続けている。
画面を開かなくてもわかる。翔太の顔を剥ぎ取り、俺の顔を、俺の名前を、あの配信で見た「スーツの男」の正体を探し求める十五万の群れが、今もネットの海で狂乱しているのだ。その見えない熱狂の渦が、分厚い布地越しに仁の太ももをじりじりと焦がしている。
あいつのシステムの中枢だったあのAPKファイルは、今、俺の手の中にある。画面を一度タップするだけで、俺はいつでも彼らの前に姿を現すことができる。
彼らは俺を求めている。
その事実が、黒糖の甘さと酢の酸味が混ざり合った胃の奥底で、奇妙な高揚感となって燻っていた。
コン、コン。
不意に、薄い鉄扉を叩く硬く規則的な音が響いた。
深夜の木造アパートの薄暗い廊下には似つかわしくない、遠慮のない、だが完璧に間合いの計算されたノックの音。
仁は手にしていたコップをちゃぶ台に置き、ゆっくりと立ち上がった。冷え切ったクッションフロアを踏みしめて扉の前に立ち、冷たい金属の鍵を開けて重い鉄扉を押し開ける。
蝶番が軋む鈍い音と共に、淀んだ共用廊下の空気が流れ込んでくる。だがそれ以上に、この場所に不釣り合いな、洗練されたフローラル系の香水の匂いが、まるで不可視の刃のように室内のカビ臭さを切り裂いて滑り込んできた。
「夜分に失礼」
小山なつみが立っていた。
深いボルドー色のシルクのブラウスに、完璧なラインを描く黒のワイドパンツ。彼女がそこにいるだけで、薄汚れた蛍光灯の明かりすらも、彼女のために設えられた照明のように錯覚してしまう。彼女の周囲だけ、空気の屈折率が違うかのようだった。
「……何の用だ」
仁の低い声に、なつみは微かに微笑んだだけで、仁の横をすり抜けるようにして勝手に部屋の中へと足を踏み入れた。
ヒールを脱ぎ、揃える動作にすら一切の隙がない。彼女の視線が、ちゃぶ台の上に置かれたもろみしぼり酢の瓶と黒糖を一瞥した。
「相変わらず、極端な燃料補給をしているのね」
「あんたが用意したディナーの口直しだ」
「そう。でも、あなたの内臓は今、もっと別のものを求めているはずよ」
なつみは部屋の真ん中に立ち、振り返って仁を真っ直ぐに見据えた。
「佐々木翔太の逮捕。ニュースは見たわよね」
「ああ」
「彼は終わった。でも、彼が残したものは消えていない。十五万人の迷子たち。彼らは今、突然餌を取り上げられてパニックを起こしているわ」
なつみの声は静かだったが、その響きには冷徹な事実だけが乗っていた。
「彼らは、自分たちが騙されていたとは認めたくない。だから、より強い『本物』を探している。あの配信の最後に現れ、彼らの教祖を物理的にねじ伏せたあなたをね」
「俺は、あいつの嘘を暴いて、自分の生活を取り戻したかっただけだ」
仁は扉を閉め、なつみから少し距離を置いて腕を組んだ。
「あのスーツも、あいつの部屋に乗り込むためのただのハッタリだ。教祖になるつもりなんてない」
「ハッタリ?」
なつみが小さく首を傾げた。その瞳の奥で、冷たい光が鋭く瞬く。
「あの十五万人の目をごまかせると思う?」
なつみはゆっくりと一歩、仁に近づいた。彼女の香水の匂いが、室内に充満していたもろみ酢のツンとした匂いを完全に覆い隠していく。ピンヒールの先端が、擦り切れたイグサを静かに、だが容赦なく踏みしめた。
「あなたが画面越しに放っていたあの圧倒的な熱量は、借り物の服だけで出せるものじゃないわ。あなた自身の内側に、彼らを支配し、踏みつけにしたいという明確な『強者の意志』があったからこそ、彼らはそれに惹きつけられたのよ」
仁の呼吸が、ほんのわずかに浅くなった。
図星だった。
翔太の首ぐらを掴み、レンズ越しに無数の視聴者を見下ろしたあの瞬間。俺の血管を駆け巡っていたのは、単なる怒りや復讐心ではなかった。
十五万の人間が、自分を畏怖の目で見上げている。その事実がもたらした、背筋が凍るほどの全能感。
それを、なつみは完璧に見透かしている。
「彼らは迷子よ。あなたが何もしなければ、彼らはまた、別のくだらない偽物に群がり、搾取されるだけ」
なつみのヒールの先端が、さらに一歩、擦り切れたイグサを踏みしめる。
「偽物を壊したのなら、本物を見せてやるのがあなたの責任よ」
「……責任、だと」
「ええ。あなたはもう、自分がただの『物流倉庫の派遣社員』に戻れるなんて思っていないはずよ。一度あの高みから景色を見てしまった人間は、二度と泥水の中には戻れない」
なつみの言葉は、耳障りの良い激励ではない。仁の心の最も柔らかく、醜い部分を、正確に針で突き刺すような響きを持っていた。
「私なら、あなたを完璧な『偶像』に仕立て上げられる。佐々木翔太が継ぎ接ぎのデータで作ったような薄っぺらなものではない、血肉の通った圧倒的な神に」
なつみはそこで言葉を切り、仁の右顎にある三日月型の傷跡へ視線を落とした。
「その傷跡を、彼らの信仰の対象にしてあげる」
沈黙が降りた。
遠くで国道の車の音が微かに響く。仁の太ももに寄りかかってきたムギが、喉をゴロゴロと鳴らしている。
仁のポケットの中で、スマホの存在感が異様に重く感じられた。
「……あんたの目的は何だ」
仁は低く、押し殺した声で尋ねた。
「偽物が嫌いなだけよ。そして、最高の素材を私の手で完成させたい。ただそれだけ」
なつみはそれ以上何も言わず、踵を返した。
揃えられていたヒールに足を通し、重い鉄扉に手をかける。
「週末。答えを待っているわ」
扉が閉まり、金属の軋む音が四畳半に響いた。
再び静寂が戻った部屋の中で、仁は動けなかった。




