第52話 大衆の飢餓
無機質な液晶画面の中で、見えない獣の群れが狂ったように吠え続けている。
淀んだ四畳半の部屋。変色してささくれたイグサの万年床の上にあぐらをかき、仁は手の中の黒く滑らかな最新のスマホを見つめていた。
画面の中央では、数日前に拡散された切り抜き動画が、音声のないまま何度もループ再生されている。壁一面に吸音スポンジが貼られた薄汚い防音室で、佐々木翔太の胸ぐらを掴み上げている自分の姿だ。
その動画の下で、タイムラインが異様な熱を帯びて更新され続けていた。
親指を画面から離していても、新しい投稿が絶え間なく湧き出し、古い投稿を容赦なく押し上げていく。ユーザーのアイコンと短い文字列が、意味を持たない色彩の帯となって上へと滑り落ちていった。
『あの配信に乱入したスーツの男、マジで誰? 特定班まだかよ』
『MINATOの顔、もともとあの男のパーツをパクってたってことだろ? オリジナルの方が百万倍オーラあるじゃん』
『スーツの着こなしヤバい。あの顎の傷跡も本物? 映画の俳優かよ』
『詐欺師をぶっ潰したダークヒーロー。早くSNSアカウント見つけてくれ、死ぬほど推せる』
『MINATOの残党どもが今度はこっちに乗り換える準備してて草』
『顔面偏差値バグってる。名前だけでも教えて!!』
『探せ! 絶対にどこかにアカウントあるはずだろ!』
『画質荒いけど、あの目の座り方ヤバくない?』
『MINATOの金、あいつが全部持ってったの?』
画面にひしめく無数のアカウントは、もはや佐々木翔太の破滅には興味を失っていた。彼らが血眼になって探しているのは、嘘で塗り固められた密室の扉を蹴り破って出現した「高田仁」という存在そのものだった。
仁は画面をスクロールする手を止め、そのままスマホの電源ボタンを短く押し込んだ。
液晶が漆黒に沈み、部屋の中にカビの匂いと微かな静寂が戻ってくる。
部屋の隅に置かれた段ボール箱から、カサリと音がした。
仁は立ち上がり、台所へ向かった。狭いシンクの横に置いた大袋から、仁は直接手でドライフードを一掴みすくい取った。ザラザラとした硬い粒の感触。それを二つの小さな陶器の器に均等に落としてやる。匂いを嗅ぎつけたムギとキナコが、足首にまとわりつきながら甲高い声で鳴き始めた。待ちきれない様子で前足を仁のスウェットに引っかけ、器が床に置かれるや否や、小さな頭を突っ込んでガツガツと音を立てて食べ始める。
小さな顎が一心不乱に硬い粒を噛み砕く音を聞きながら、仁はクローゼットの扉を開けた。
並んでいるのは、決戦の夜の前に、小山なつみの手によって持ち込まれた上質な衣服の数々だ。
仁はハンガーから、手触りの良いダークブラウンのハイゲージニットと、センタープレスの入ったラインの美しい黒のスラックスを取り出した。かつてのように、油臭い灰色のパーカーを無意識に手に取る自分はもうどこにもいない。
袖を通し、肩を回す。上質なウールが皮膚の表面を滑る感触。計算されたカッティングが、腕の曲げ伸ばしや胸の膨らみに合わせてわずかに伸縮し、身体の動きを物理的に補強してくるような錯覚すらある。長年着古したスウェットの緩さとは違う、適度な重量感と張りが、仁の肉体に新たな輪郭を与えていた。
玄関で、磨き上げられた黒い革靴に足を入れる。靴紐をきつく結び上げ、立ち上がると、硬いソールが三和土を叩く音が狭い玄関に低く響いた。
重い鉄扉を押し開けると、秋の冷たく乾いた風が吹き込んできた。
仁はポケットにスマホを滑り込ませ、錆びた階段を下りて駅の方向へと歩き出した。
時刻は午後1時を少し回ったところだった。
秋の空は高く、薄い雲が風に流されている。駅前のロータリーを抜け、大通りから1本入った路地に足を踏み入れると、アスファルトの質感が変わり、車の騒音が少しだけ遠のいた。すれ違うベビーカーを引いた女性や、営業マンらしきスーツ姿の男たちが、無意識のうちに仁の進路を避けるように僅かに道を譲る。自分が空間を占有する質量の変化を足の裏で感じながら、仁は歩みを進めた。
仁が足を止めたのは、レンガ調の外壁に、深いグリーンのオーニングが張られた個人経営のイタリアンレストランだった。以前の仁なら、前を通りかかるだけで視線を落とし、足早に過ぎ去っていたような小洒落た店だ。ガラス越しに見える店内は暖色の光に満ちており、客の談笑する声が微かに漏れ聞こえてくる。
今の仁は、微かな躊躇もなく真鍮製の重いドアノブに手をかけ、ドアを押し開けた。
「いらっしゃいませ。1名様でしょうか」
カラン、という控えめなドアベルの音と同時に、黒いベストを着たギャルソンが歩み寄ってきた。彼の視線が仁の服装と佇まいを捉え、背筋をわずかに伸ばすのが見えた。
「ああ」
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたのは、フロアの奥にある落ち着いたテーブル席だった。暖色系の間接照明が、磨き上げられた大理石のテーブルの表面に柔らかい光の輪を作っている。
仁が深く腰を下ろすと、斜め向かいのテーブルでランチを楽しんでいた2人組の若い女性の会話が、不自然に途切れた。グラスの水を口に運ぶ振りをしながら、彼女たちの視線が仁の横顔に向けられている。
『ねえ、今の……』
『嘘、めっちゃかっこいいんだけど……俳優さんかな』
BGMの静かなボサノヴァに紛れて、そんなヒソヒソ声が微かに耳に届く。
かつて、深夜のコンビニや始発の電車の中で向けられていた、疲労と貧困の匂いを避けるような視線とは違う。明らかな好意と、探るような好奇心を含んだ熱。
仁は渡されたメニューを開き、その視線を完全に無視して文字の羅列に目を落とした。
「ソーセージと茄子とバジリコのトマトソースパスタを」
「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「食後にエスプレッソを頼む」
ギャルソンが優雅に一礼して下がる。
仁はポケットからスマホを取り出し、大理石のテーブルの上に置いた。
ロック画面を解除すると、いくつかのアプリに混じって、真っ黒なアイコンが存在している。佐々木翔太のシステムの心臓部である『APKファイル』だ。
休日の午後2時。新宿の路地裏にある、電波の入りにくい地下の純喫茶。
サイフォンの湯気が立ち上るカウンターの端で、アリアはコーヒーカップの縁を長い指でなぞりながら、仁の目を真っ直ぐに見据えていた。
『あのAPKファイル』
周囲の客の話し声や、食器が触れ合う雑音を完全に遮断するような、彼女の冷ややかな声が脳裏に蘇る。
『防音室で私が回収して、あなたに預けたテスト版のシステム。……自分で処分するって言ってたわね』
アリアのダークブラウンの瞳は、一切の言い逃れを許さない冷酷な光を放っていた。
仁は親指の腹を、画面上の真っ黒なアイコンの上で静かに滑らせた。
あの時、俺は「ああ」とだけ答えた。
システムは今、俺の手の中にある。画面をタップすれば、いつでも起動できる状態だ。
「お待たせいたしました。ソーセージと茄子とバジリコのトマトソースパスタでございます」
ギャルソンの声と共に、白い陶器の皿が静かにテーブルへ置かれた。
立ち上る湯気の中に、鮮烈なバジルの香りとニンニクの香ばしさが入り混じっている。
仁はフォークを手に取り、パスタを巻き取った。ダークブラウンのニットの袖口を少しだけ引き上げ、赤いソースが跳ねないように慎重に口へ運ぶ。
鮮やかな赤色のトマトソースが、アルデンテに茹で上げられた太めの麺にしっかりと絡みついている。素揚げされた大ぶりの茄子は、オリーブオイルの艶を帯びて光を反射し、輪切りにされた粗挽きソーセージからは微かな肉汁が滲み出していた。
強いトマトの酸味と甘みが舌の上で弾け、続いてバジルの青々とした香りが鼻腔へと抜けていく。
茄子を噛みしめると、スポンジのように吸い込まれていたオリーブオイルとソースの旨味が、熱い汁となって溢れ出した。粗挽きソーセージは噛むと皮がパキッと小気味良い音を立てて割れ、暴力的なまでの肉の脂が口内を満たす。パスタの熱で溶け出したチーズが、細く糸を引いてソースと絡み合っていた。
美味い。
咀嚼を急ぐあまりに舌の裏側を少し噛んだが、微かな鉄の味がトマトソースの強い酸味に混ざって消えた。フォークに麺を巻き取る速度が上がり、息継ぎすらもどかしい。強い塩分とニンニクの香りが鼻を抜け、分厚い肉の脂が喉を通り抜けるたびに、空っぽだった胃袋にドスリとした重量感が落ちる。咀嚼筋がこわばるほどに噛みしめ、飲み込む。その反復によって、身体の芯から確かな熱が湧き上がり、指先の末端まで血が巡っていくのがわかった。
皿を空にし、ギャルソンが下げに来るのと同時に、小さなカップに注がれたエスプレッソが運ばれてきた。
漆黒の液体の表面に浮かぶ、クレマと呼ばれる薄茶色の泡。
仁はカップの縁を指でなぞりながら、テーブルの上のスマホに目を落とした。
通知のポップアップが表示される。乙女からのメッセージだった。
『先輩、ヤバいです。SNSの特定班が、あの配信のアパートの住所割り出し始めてます。先輩の顔の画像、もう何万回もリポストされてて……これ、完全に次の「教祖」探しのパニックですよ』
文面の裏側にある、彼女の抑えきれない興奮が透けて見えた。
15万人の群れが、今この瞬間も、画面の向こう側で俺という存在を求めて暴れ回っている。
仁はエスプレッソを一口飲んだ。強烈な苦味が舌の根を刺激し、口内に残っていた肉の脂を洗い流していく。
カップをソーサーに戻し、仁は真っ黒なアイコンをタップした。
一瞬の暗転の後、インカメラが起動する。
カメラのレンズが、テーブルの上のエスプレッソカップと、大理石の模様、そして画面を覗き込む仁の顔を捉えた。
画面に映っているのは、俺自身の素顔だ。だが、レンズを通して出力されたその顔は、肉眼で鏡を見るよりも遥かに鮮明で、一切のノイズが排除されていた。
仁は画面の中の、冷酷なほどに美しい自分の目を見つめ返した。
エスプレッソの残りを飲み干し、仁は席を立った。
伝票を手に取り、レジへと向かう。
「ありがとうございました」
ギャルソンが深く頭を下げ、丁寧にドアを開ける。
店を出ると、秋の陽射しが大通りのイチョウの葉を黄色く照らし出していた。
ポケットの中で、スマホが再び短いバイブレーションを起こす。通知の振動が、分厚いスラックスの生地越しに太ももへと伝わってくる。




