第54話 最初の嘘
午前5時。
底冷えする四畳半の部屋に、シュンシュンと湯を沸かすヤカンの微かな音だけが響いていた。
アルミサッシの向こう側はまだ深い群青色に沈んでいる。遠くの国道を走る長距離トラックの排気音が、時折、古い木造アパートの柱を静かに震わせて通り過ぎていく。
仁は卓上コンロの火を止め、上に乗せていた小さなアルミ製の蒸し器の蓋を取った。
ふわりと、竹の香りを纏った白い蒸気が顔の輪郭を包み込む。
湯気の中に鎮座しているのは、先日、新宿の伊勢丹の地下で買い求めておいた大ぶりの肉まんだ。コンビニの保温器で回っているものとは違う。手作りの襞が美しく寄り、ずっしりとした重みを持つ本物の点心。
火傷しないように指先で慎重につまみ上げ、縁の欠けたちゃぶ台の上の皿に移す。
続いて、傍らに用意しておいたマグカップに、アマノフーズのフリーズドライのブロックを落とし、ヤカンの熱湯を注ぎ込んだ。
お湯がブロックを溶かした瞬間、レモングラスの鮮烈な香りと、ナンプラーの独特の塩気、そしてパクチーの青々とした匂いが、カビ臭い四畳半の空気を一気に南国の熱帯夜へと塗り替えた。トムヤムクンだ。
「……食うか」
独り言のように呟き、仁は肉まんを両手で二つに割った。
もっちりとした皮が千切れ、中から豚肉と貝柱、干し椎茸の濃厚な旨味をたっぷりと吸い込んだ肉汁が、キラキラと光を反射しながら溢れ出す。
1口かじると、上質な小麦の甘みの直後に、暴力的なほどの肉の旨味が舌を制圧した。よく練られた餡の弾力と、筍のシャキシャキとした食感が、咀嚼するたびに脳を直接覚醒させていく。
脂の強さを感じたところで、トムヤムクンのスープを1口啜る。
容赦のない酸味と、唐辛子の鋭い辛味が、口の中に残った肉の脂をスパッと切り裂き、胃の底に熱い楔を打ち込んだ。重厚な旨味と、鋭角な酸味と辛味。この極端なコントラストが、徹夜明けのひどく泥濘んだ神経に、確かな生身の輪郭を与えてくれる。
段ボール箱の中で丸まっていたキジトラのムギと茶トラのキナコが、強い匂いに目を覚まし、仁の足元に擦り寄ってきた。
仁は肉まんの皮の、何もついていない白い部分だけを小さくちぎり、2匹の鼻先に落としてやった。2匹はそれをフンフンと嗅ぎ、小さな歯で器用に噛みちぎって飲み込むと、満足したように仁の太ももに顎を乗せた。
その小さな体温を脚に感じながら、仁はマグカップの赤いスープを見つめた。
『彼らは今、新しい神を探しているのよ』
昨夜、この部屋で小山なつみが残していった言葉が、胃の奥でトムヤムクンの辛味と混ざり合って燻っている。
佐々木翔太というハリボテの教祖は逮捕され、物理的に消え去った。
だが、彼が作り上げた『15万人の熱狂』という巨大なエネルギーの渦は、消滅したわけではない。行き場を失い、飢え、新しい生贄か、あるいは新しい偶像を求めてネットの海を暴れ回っている。
俺があの防音室の扉を蹴り破り、翔太の嘘を白日の下に晒した。
ただ自分の生活を取り戻すための反撃だった。だが、大衆の目には、虚構を破壊して現れた『本物の強者』として映ってしまった。
肉まんの最後の一口を飲み込み、仁は指先をウエットティッシュで拭った。
部屋の隅に転がっている、翔太の部屋から回収した予備のデバイス。翔太が自身のフェイクを作り出す際に、テスト用として手元に置いていた端末の一つだ。
仁は電源を入れ、そこに残されていたバックアップデータを読み込んだ。
アリアは「マスター権限のトークンは奪った」と言っていた。だが、翔太がログインを維持したまま放置していたこのテスト機からなら、直接システムの裏口を叩くことができるはずだ。
パスワードの自動入力を利用し、幾つかのセキュリティ警告を無視して進む。
画面が一度暗転し、見慣れたSNSのアプリが立ち上がった。
ホーム画面には、もう持ち主のいない『MINATO』のアカウントが表示されている。フォロワー数は14万8000。少し減ってはいるが、依然として巨大な数字だ。
タイムラインには、ファンたちの困惑、怒り、そして「あのスーツの男は誰だ」という飢えた声が、網膜の処理が追いつかない速度でスクロールしていた。
仁は深く息を吸い込み、トムヤムクンの残りを一気に飲み干した。
立ち上がり、壁に掛けられていた黒いタートルネックのニットを被る。なつみが手配した、上質なハイゲージのニット。首元を通すだけで、背筋が自然と伸びる。
部屋の隅にある姿見の前に立った。
鏡の中には、かつての疲労と劣等感に塗れた無精髭の男はいない。
なつみの手によって削り出された、完璧な姿勢と、静かな闘気を宿した瞳を持つ男。右顎の三日月型の傷跡が、修羅場を潜り抜けてきた生身の証明として鈍く自己主張している。
翔太がAIのテクスチャとして盗み出し、薄っぺらな虚栄を飾るために使っていたパーツ。
これが、本物だ。
仁はスマートフォンのインカメラを起動した。
AIによるフィルターも、骨格の補正も、背景の合成も必要ない。
あえて、カビ臭い四畳半の、黄ばんだ壁紙を背にする。
レンズを真っ直ぐに見据えた。
佐々木翔太が見ていたような、数字に媚びる目ではない。画面の向こう側で無責任に騒ぎ立てる15万の顔のない群衆を、静かに、しかし絶対的な力で制圧する目。
カシャッ、と。
乾いた電子音が四畳半に響いた。
撮れた写真を確認する。
薄暗い照明の中、黒いタートルネックを着た男の顔面が、圧倒的な存在感を持って切り取られていた。背景の貧相な壁紙が、かえって被写体の持つ生々しい熱量と暴力性を際立たせている。
仁は投稿画面を開き、その画像を添付した。
キャプションの入力欄で、親指が少しだけ止まる。
気取った長文はいらない。言い訳も、宣言も必要ない。ただ、彼らが求めているものを、一番シンプルな形で突きつければいい。
仁は短いテキストを打ち込んだ。
『探していたのは、俺か。』
そして、アカウントの表示名を『MINATO』から『JIN』へと書き換える。
送信ボタンをタップした。
完了のプログレスバーが一瞬で満たされ、ネットの海にデータが放たれる。
数秒間の、耳鳴りがするような静寂。
そして。
仁の手の中のスマートフォンが、狂ったように振動し始めた。
通知の赤いバッジが、1、10、100、1000と、視神経が追いつかない速度で跳ね上がっていく。
画面の上部から、雪崩のようにポップアップが降り注ぐ。
『えっ』
『本物!?』
『あの時の人だ!!!!』
『うわあああああああ』
『顔面強すぎ、フィルターなしでこれ?』
『待ってました!!!!』
『JIN……JIN!!!』
15万人の熱狂が、一瞬にして矛先を変え、新たな宿主である仁の元へと殺到してきた。
凄まじい賞賛と、盲目的な崇拝の言葉の波。
それは、かつて翔太が溺れ、正気を失っていった猛毒の濁流そのものだった。
だが、仁はその濁流のど真ん中に立ちながら、驚くほど静かな心拍を保っていた。
腹の底には、肉まんの確かな重みと、トムヤムクンの熱が残っている。足元では、ムギとキナコが何事かと見上げて、短く鳴いている。
仁は絶え間なく震え続ける黒い端末を、ちゃぶ台の上に静かに伏せた。
窓の外では、ようやく白み始めた朝の光が、東京の煤けた輪郭をゆっくりと照らし出し始めていた。
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