第49話 悪魔の囁き
日焼けして毛羽立った畳の中央に置かれた、縁の欠けた古いちゃぶ台。その上に、出処の全く異なる二つのガラス瓶が並んでいた。
一つは、深い黒を帯びたなで肩のボトル。色褪せてはいるが重厚な紙質のエチケットには、ブルゴーニュの格式高いドメーヌの名が流麗なフォントで印字されている。もう一つは、無骨な透明のボトルに琥珀色の液体が詰まった、ニッカの『宮城峡』だった。
午後11時。築40年のアパートの四畳半は、遠くの国道を走る大型トラックがアスファルトを叩く微かな振動だけを周期的に拾い、ひっそりと静まり返っていた。
部屋の隅に置かれた段ボール箱の中では、キジトラのムギと茶トラのキナコが、互いの小さな体を丸め、完全に重なり合うようにして身を寄せている。薄い毛布の上で、二つの小さな背中が全く同じリズムで上下し、規則的で穏やかな寝息を立てていた。
仁はいつもの毛玉のついた灰色のスウェット姿で、ちゃぶ台の前にあぐらをかいていた。
薄暗い部屋の空気は冷え切っていたが、彼の姿勢には微かな力みもなく、骨盤がしっかりと床の重力を捉えて安定している。肩の余計な緊張は抜け、背骨の上に真っ直ぐに頭部が乗ったその自然な佇まいは、安い衣服の下に隠された厚い胸板と骨格の存在感を、無言のうちに空間へと放ち続けていた。
「……グラスなんて、ないぞ」
仁の低く擦れた声に、向かいに座る小山なつみは小さく微笑んだ。
彼女は完璧なシルエットを描く黒のシルクブラウス姿で、このカビ臭い部屋の澱んだ空気さえも自らのオーラで従わせている。彼女の手元には、傷だらけのちゃぶ台にはおよそ似つかわしくない、極限まで薄いボウルと華奢なステムを持つ最高級のワイングラスが置かれていた。ハイヤーに積んであった私物を持ち込んだのだろう。
「気にしないで。私はこれでいただくから。あなたは、自分の好きなように飲みなさい」
なつみが優雅な仕草でソムリエナイフを操り、ブルゴーニュの長いコルクを静かに引き抜いた。ポン、というくぐもった音とともに、長年地下のカーヴで眠っていた果実の重厚な香りと、腐葉土のような複雑な熟成香が溢れ出し、四畳半の空気を一瞬にして上書きした。
ルビーよりも深く、底なしの暗さを持った赤色の液体が、グラスの底に糸を引くように静かに注がれる。
仁は自分の視線を、ちゃぶ台の上に残されたもう一本のボトル、『宮城峡』に向けた。
無言で立ち上がり、歩くたびに微かに軋む床板を踏んで流し台へ向かう。上の戸棚を開けるが、当然ながら来客用の気の利いたグラスなどあるはずもない。普段麦茶を飲んでいる、分厚く安っぽいガラスコップを一つ取り出し、蛇口をひねって冷たい水道水で軽くすすいだ。
ちゃぶ台へ戻り、ボトルのスクリューキャップを無造作にひねる。カリッという金属音の後、コップの3分の1ほどまで琥珀色の液体をストレートで注ぎ込んだ。グラスの縁から、樽の甘い香りと、微かなピートの匂いが立ち昇り、なつみのワインの香りと空中で混ざり合う。
つまみなど何もない。仁は背後にある小さな冷蔵庫を開け、数日前に駅前のスーパーの特売カゴから無造作に掴んできた、形が不揃いなリンゴを一つ取り出した。
再び流しへ向かい、冷たい水でゴシゴシと表面を洗う。水滴も拭わずにそのままちゃぶ台の前に座り直した。
包丁を入れて切り分ける気すら起きなかった。仁は大きく口を開け、濡れたままのリンゴの側面に直接歯を立てた。
シャクッ。
硬い果肉が砕け、瑞々しい果汁が口の中に弾ける。
噛み砕き、咀嚼し、嚥下する。顎の筋肉が力強く動き、右顎の三日月型の傷跡がそれに合わせて微かに歪んだ。リンゴの強い酸味と甘味が残る口内に、宮城峡のストレートをそのまま流し込む。
度数45度のアルコールが、粘膜を刺激しながら食道を焼くような熱を持って胃の底へ落ちていく。生身の肉体だけが感じ取れる、暴力的な熱量と重さ。
なつみはグラスの脚を細い指で挟み、ワインを静かに揺らしながら、その仁の野生的な食事風景を、微塵も表情を崩さない冷徹な瞳でじっと観察していた。
「美味しい?」
「……ああ」
短く答え、仁は再びリンゴの赤い皮に歯を立てた。
部屋の入り口に近い壁際で、アリアが静かに立っていた。彼女は酒には手をつけず、黒いタートルネックの襟元に顔を半分沈めるようにして、腕を組んだまま二人を見つめている。彼女の纏う空気は、かつてないほど重く、沈んでいた。
「佐々木翔太のシステムは、すべてログの底に沈んだわ」
アリアの平坦な声が、部屋の静寂を破った。
「警察の捜査が入る前に、あんたの個人情報も、過去の映像データも、あいつのサーバーから完全に消去した。バックアップの痕跡もない。……これで、あんたは自由よ」
自由。
その単語が、仁の耳の奥で微かな残響を残して消えた。
監視の恐怖は終わった。自分の生活を無断で切り取られ、他人の見栄のためのパーツとして消費される日々は、完全に断ち切られた。目的は果たしたはずだった。だが、胃の底で燻るアルコールの熱とは裏腹に、胸の奥には奇妙な空白が存在している。
なつみがワイングラスに口をつけ、ほんの僅かに唇を濡らした。
「本当に、すべて終わったと思っているの?」
なつみの静かな声に、仁はリンゴをかじろうとした顎の動きを止めた。
「どういう意味だ」
「佐々木翔太という一人の男は終わったわ。でも、彼が作り上げた『15万人の熱狂』という巨大なエネルギーの渦は、行き場を失って今、ネットの海を彷徨っている」
なつみはグラスをテーブルに置き、手元にあった自分のスマートフォンの画面を指先で軽くタップした。暗い部屋の中で、液晶の青白い光が彼女の完璧な顔の輪郭を照らし出す。
「15万の視線が、今どこに向かっていると思う?」
なつみの視線が、仁の顔、厚い胸板、そしてテーブルに置かれた無骨な両手へと、ゆっくりと動いた。
「彼らは今、新しい神を探しているのよ。あの不潔な部屋の残骸の中に突然現れた、偽物ではない、圧倒的な本物をね」
なつみは身を乗り出した。彼女から漂う高級な香水の香りが、ウイスキーのピート香を押し退けて仁の鼻腔を突く。
「仁。あなたは一度、あの絶対的な高みからの景色を見たはずよ」
彼女の目が、微かに細められる。
「あれだけの熱狂を味わって、また底辺の生活に戻れるの?」
仁の呼吸が、ほんの僅かに浅くなった。
深夜の物流倉庫。終わりの見えない段ボールの山。意味を持たない英数字の入力作業。社会の誰からも見向きもされず、ただ透明な歯車として消費されていくだけの、冷え切った日常。
「あなたには今、それを手に入れる『顔』があるわ」
なつみの指先が、何もない空間を滑るようになぞった。
「今、あなたが手を伸ばせば、15万人はそのままあなたの足元にひれ伏す。もう、深夜の倉庫で凍える必要なんてない。莫大な金と、無限の称賛が手に入るわ」
それは、紛れもない悪魔の囁きだった。
「……」
仁は答えない。ただ、手の中に残ったリンゴを無造作に口に運び、強く噛み砕いた。
シャクッ、という果肉の弾ける音が、異様に大きく四畳半の空間に響く。
その横顔を、アリアが壁際からじっと見つめていた。
彼女のダークブラウンの瞳は、静かに揺れていた。口元をきつく結び、腕を組む手に力がこもっている。
「……あんた、まさか」
アリアの掠れた声が、微かに震えていた。
彼女の顔には、明確な悲哀の色が浮かんでいた。
仁はゆっくりとリンゴの芯をちゃぶ台の横のゴミ袋へ放り投げ、手についた果汁をスウェットの太ももで無造作に拭った。
そして、宮城峡のボトルに手を伸ばし、再び自分のコップに琥珀色の液体を注ぐ。
トクトク、という重い音が響く。
仁は分厚いガラスコップを持ち上げ、なつみの冷徹な目と、アリアの沈んだ瞳を交互に見据えた。
「……他人の視線で作られた玉座なんて、座り心地が悪くて反吐が出る」
低く、地を這うような声だった。
そこに一切の迷いはなかった。
「15万人が俺を見てようが、知ったことか。俺はもう、自分の肉体の重さだけで生きていくと決めた」
仁はコップを傾け、強いアルコールを一息に胃の奥へと流し込んだ。
「明日、エリアマネージャーに掛け合って、昼のシフトに変えてもらうつもりだ。……悪いが、熱狂の続きはよそでやってくれ」
コップがちゃぶ台に置かれた、ドン、という鈍い音が響いた。




