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第50話 新たな怪物

 重く、甘い香水の残り香が、四畳半の淀んだ空気に微かな層を作って漂っていた。

 小山なつみが静かに立ち去り、重い鉄扉が閉まる鈍い金属音が響いてから、すでに数十分が経過していた。ちゃぶ台の上に残されたニッカ『宮城峡』の無骨な透明のボトルと、彼女がほんの僅かに口をつけただけのボルドーワインの華奢なグラス。グラスの縁には、彼女の赤いルージュが薄く弧を描いて残っている。2つの異なる世界から持ち込まれたガラスの器は、薄暗い部屋の天井からぶら下がる豆電球の頼りない光を吸い込み、この部屋の異質さを際立たせるような奇妙な対比を描き出している。


 仁は、変色してささくれたイグサの万年床の上にあぐらをかいたまま、彫像のように動かなかった。

 なつみが最後に残していった言葉が、鼓膜の奥で低い反響音を立てて絶え間なくループしている。


『彼らは今、新しい神を探しているのよ』


 15万人という、顔のない巨大な熱狂の渦。佐々木翔太というハリボテの教祖を失い、飢餓状態に陥ったその視線が、圧倒的な本物として炎上の中に現れた自分の姿に向かっているという事実。彼らは今、暴かれた嘘の残骸の中で途方に暮れ、次にすがりつく絶対的な偶像を求めてSNSの海を彷徨っている。俺がそこに手を差し伸べれば、彼らは一斉にひれ伏すだろう。

 深夜の物流センターで、見えないシステムに日常を監視され、他人の素材として搾取されていた時の、あの底なしのパラノイアは微塵も残っていない。得体の知れないサイバー空間の力に怯えていた惨めな自分は、あのひしゃげた防音扉の向こう側に置いてきた。

 代わりに腹の底で静かに渦巻いているのは、熱を持った真っ黒な泥のような、得体の知れない衝動だった。


「……ミィ」


 部屋の隅に置かれた段ボール箱から、微かな声がした。

 視線を向けると、毛布の上で丸まっていたキジトラのムギが、前足を大きく伸ばして小さな口を限界まで開け、フワァとあくびをした。ピンク色の小さな舌が見え隠れし、微かにミルクの匂いが漂う。ムギは寝ぼけたまま、隣でスースーと規則的な寝息を立てている茶トラのキナコの丸い背中にちょっかいを出し始めた。

 短い前足でキナコの耳をペシペシと叩く。キナコは面倒くさそうに首を振り、ムギの腹の下に頭を潜り込ませて再び眠りにつこうとするが、ムギはそれを許さず、細い乳歯を立ててキナコの首根っこに甘噛みをした。やがてキナコも本気になり、2匹の小さな毛玉はイグサの畳の上へと転がり出て、短い手足をバタバタと絡み合わせながら無邪気な取っ組み合いを始めた。

 コロコロと喉を鳴らす音。床を蹴る柔らかな肉球の響き。

 確かな命の温もりと躍動。ほんの数日前まで、この小さな生き物たちだけが、仁を現実の世界に繋ぎ止める唯一の重りだった。自分が社会の底辺で無価値な存在ではないと、この命を養うことで必死に証明しようとしていた。


 だが今、仁はその愛らしい光景を、ただの遠い風景のように眺めていた。

 胸の奥で、何かが決定的にズレてしまっている。現実の命の重さよりも、見えないネットワークの向こう側でうねる巨大な数字の質量の方が、今の仁にとってはるかに生々しい引力を持っていた。


 ブブッ。


 スウェットのポケットの中で、スマホが短く震えた。

 アリアから一時的に借りていた、画面の端が蜘蛛の巣状に割れた代替機ではない。彼女のマルウェアによって1度は死んだはずの、黒く滑らかなガラス面を持つ本来の自分のスマホだ。

 ポケットから取り出して見下ろすと、ロック画面に橘栞からのメッセージ通知が溜まっていた。


『仁くん、ごめんなさい。私、本当に何も知らなくて』

『翔太さんのニュース、見ました。私、利用されてただけなんですね』

『会って話がしたいです。仁くんがずっと苦しんでいたこと、ちゃんと聞かせてください』

『お願い、返事をください』


 数分おきに送られてくる、悲痛なまでの謝罪と懇願の言葉。

 画面の向こうで、彼女がどんな顔をしてこの文字を打ち込んでいるのか、容易に想像がついた。かつて、物流センターの薄明るい休憩室で彼女の香水の匂いを嗅ぐことだけが、仁の乾ききった日常の唯一の救いだった時期がある。昔の俺なら、この通知を見た瞬間に舞い上がり、彼女の隣を歩く権利を得たと勘違いしたかもしれない。


 だが、仁の目は完全に冷え切っていた。

 画面に表示された『橘栞』という文字の羅列が、ただひどくちっぽけで、意味を持たないものに思えた。

 1人の女からの、同情と後悔が混じった安い承認。

 そんなものはもう、必要なかった。


 仁は無表情のまま親指を動かし、栞からの通知を左へとスワイプし、ゴミ箱のアイコンをタップした。画面から彼女の言葉が完全に消え去り、元の静かなロック画面に戻る。躊躇いも、未練も、残酷なまでの無関心の中に完全に溶けて消えていた。


 仁は立ち上がり、ユニットバスへと向かった。

 黄ばんだプラスチックのドアを開け、洗面台の安っぽい蛍光灯を点ける。ジージーというノイズと共に、水垢のついた鏡の中に男の姿が浮かび上がった。

 そこには、油臭いパーカーを着て疲労に顔を歪めていた底辺の労働者はいない。なつみの完璧なプロデュースによって姿勢を矯正され、骨格の歪みを正された、圧倒的な凄みを孕んだ男の顔があった。右顎に刻まれた三日月型の傷跡が、安っぽい蛍光灯の光の下でも確かな陰影を作り出し、鋭い存在感を放っている。

 完璧な素材。

 だが、まだ足りない。


 仁は部屋に戻り、ちゃぶ台の上に置かれたスマホのロックを解除した。

 ホーム画面をスクロールし、1番奥の隠しフォルダを開く。そこにあるのは、見慣れない真っ黒なアイコンのアプリケーション。

 数日前。翔太の防音室に突入し、すべてを終わらせた後。

 アリアは、翔太のPCの物理ポートに仕掛けたバックドアからシステムの中枢にアクセスし、証拠としてデータを抽出していた。


「ディープフェイクフィルターのソースコードと、翔太がスマホのインカメラ用に組んでいたテスト版の実行ファイルよ。解析が終わったら、復元不可能なレベルで物理的に破壊する」


 アリアはそう言って、防音室の澱んだ空気の中で黒いUSBメモリを掲げた。

 仁は「俺が処分しておく」と告げ、彼女からそれを半ば強引に受け取っていた。アリアは1瞬だけ怪訝な顔をしたが、最終的には深く追求することなく彼にそれを託した。

 そのUSBメモリに入っていたテスト版の実行ファイルを、仁は昨夜、家電量販店で買ってきた安い変換アダプタを使い、密かに自分のスマホへとコピーしていた。プログラムの高度な知識などない。ただファイル管理アプリからそのファイルをタップし、『提供元不明のアプリ』というOSの警告を無視してインストールを許可しただけだ。それだけで、かつて翔太が15万人を騙し続けるために莫大な金をかけて構築したシステムの心臓部は、あっさりと俺の手のひらに収まった。


 アプリの真っ黒なアイコンをタップする。

 1瞬の暗転の後、スマホのインカメラが起動し、画面に仁の顔が映し出された。UIは極めて簡素で、細かいパラメーター調整のメニューすら存在しない。ただ画面の下部に、起動を促す白いボタンが1つ配置されているだけだ。

 画面に映っているのは、まだフィルターのかかっていない、素の、なつみに作り上げられただけの顔。


 仁の指先が、画面の下部にある『起動』のボタンに触れる。


 画面の中の景色が歪んだ。

 翔太が使っていた時は、のっぺらぼうのAIベースに他人のパーツを切り貼りするだけの、不気味なパッチワークだった。だが今は違う。

 ベースとなるのは、すでに圧倒的な存在感を持つ『高田仁』という本物の素材だ。

 アルゴリズムが、その素材を瞬時に読み込み、ピクセルの配列を再構築していく。

 肌の質感が、人間の生々しい毛穴を極限まで残しつつ、一切のくすみを消し去った完全な滑らかさへと変換される。骨格の微細な歪みが、黄金比に従ってミリ単位で補正される。右顎の傷跡は消されることなく、むしろ周囲の光を完璧に計算して影を落とし、修羅場を潜り抜けてきた男のカリスマ性を象徴する最も美しいパーツとして際立たせられた。

 そして瞳。疲れを知らない、他者を心理的に圧倒し、ひれ伏させるような冷たく深い光が、ダークトーンの瞳孔の奥にハイライトとして合成される。


 画面の中でこちらを見つめ返しているのは、紛れもなく自分自身だった。

 だが、それは人間の枠を完全に超えた、恐ろしいほどの美しさと威圧感を放つ顔だった。

 静かな熱が、腹の底から胸を通って脳髄へとゆっくりと浸透していく。心臓の鼓動が、今まで感じたことのないほど重く、深いリズムを刻み始めた。息を吸い込むと、四畳半のカビと埃の混じった空気すらも、自分を満たすための特権的なエネルギーのように感じられる。血の巡りが加速し、指先が微かに痺れるような感覚があった。

 俺はどん底を知っている。現実の痛みを、絶望を、匂いを知っている。その本物の肉体に、この完璧な皮を被せた時、俺は誰も到達できない場所に立つことができる。


 15万人が求めるのは、これだ。


 足元で、取っ組み合いを終えたキナコとムギが、仁のスラックスの裾にじゃれついている。小さな爪が生地に引っかかる微かな感触。

 しかし、仁の視線はもう、画面の中から1ミリも動くことはなかった。

 薄暗い四畳半の部屋で、画面の青白い光だけが仁の顔を照らし出している。


 仁は、画面の中で完璧に微笑む自分自身に向かって、低く、確信に満ちた声で呟いた。


「今度は、俺が本物になる番だ」


 カシャッ。


 静寂の部屋に、電子のシャッター音が、鋭く鳴り響いた。

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