第48話 虚無感
午前7時。
京王線沿線の木造アパートに、外を通る大型トラックの低い振動が伝わってくる。
薄い掛け布団の上で、ドスッ、ドスッという重い衝撃が連続して響き、足元のシーツが乱暴に引きつれた。
「……っ」
仁が重い瞼をこじ開けると、腹の上をキジトラのムギが全速力で駆け抜けていくところだった。その後を、茶トラのキナコが短い尻尾をピンと立てて猛追していく。2匹の小さな毛玉は、色褪せてささくれたイグサの畳の上で激しくもつれ合い、細い乳歯を立てて取っ組み合いの喧嘩を始めた。
腹を空かせた彼らの、容赦のないモーニングコールだ。
仁は万年床から上半身を起こし、寝不足で鈍く痛む頭を振った。
立ち上がり、台所へ向かう。100円均一の浅いプラスチック皿に、子猫用のドライフードを流し込む。カラカラという乾いた音が鳴った瞬間、取っ組み合いをしていた2匹はピタリと動きを止め、我先にと皿へ向かって突進してきた。
小さな顎が、一心不乱に硬い粒を噛み砕く音だけが、静かな四畳半の空間に響き渡る。
仁はその傍らに座り込み、無意識にスウェットのポケットに手を入れた。
指先が触れたのは、画面の端が蜘蛛の巣状にひび割れたあの代替機ではない。黒く滑らかな、本来の自分のスマホの感触だった。
昨夜、マイの店「サイゴン・ブリーズ」の奥のボックス席で行われた、ささやかな祝勝会。
シャッターが半分下ろされた店内には、八角とコリアンダー、そして熱せられたピーナッツ油の匂いが満ちていた。のぞみが上機嫌でビールグラスを傾け、マイが大皿の生春巻きをテーブルに置く傍らで、アリアが黒いライダースのポケットから無言でそれを取り出した。
『システムの中枢は物理的に焼いた。スパイウェアも完全に駆除して、OSの最下層からクリーンインストールし直してある。もう、誰もあなたのカメラを覗けないわ』
静かにテーブルの木目を滑らされてきたその黒い板を受け取った時の、ガラスの冷たい感触が、まだ右手の中に残っている。
もう、誰も俺の生活を覗き見していない。見えない監視者に怯える日々は、物理的に終わったのだ。
仁は親指で画面のロックを解除した。
見慣れたデフォルトのホーム画面。だが、いつも無意識に開いていたSNSアプリのアイコンを押そうとして、指先がわずかに躊躇った。
俺の生活を奪っていたシステムは破壊された。翔太も逮捕された。
ならば、あの15万人のフォロワーを抱える巨大なアカウントは、今どうなっているのか。
指を滑らせてアプリを開き、検索窓にアルファベットを打ち込んだ。
——MINATO。
画面が数秒ロードされる。そのわずかな読み込み時間の間に、仁の心拍数が不自然に跳ね上がった。
やがて表示されたのは、無機質な白い文字だけだった。
『ユーザーが見つかりません』
当然だ。あのアカウントは、事件の報道と同時に運営側によって即座に凍結され、ネットの海から完全に抹消された。15万人ものフォロワーを抱えていた城は、跡形もなく消え去った。
仁は検索結果の真っ白な画面を、ただ無言で見つめ続けた。
親指が宙に浮いたまま、次にするべき操作を見失っている。
胃の奥にぽっかりと穴が空き、そこから冷たい風が吹き込んでいるような感覚が、腹の底から静かに広がっていく。
仁はスマホの画面を暗転させ、部屋を見渡した。
壁に染み付いた油汚れ。毛羽立った畳。カビと古本の入り混じった匂い。天井の隅に張られた薄い蜘蛛の巣。
自分の生活をようやく取り戻したはずなのに、その現実がひどく色褪せて、狭く息苦しいものに感じられた。
指先が、無意識のうちに暗い画面の表面をこすっている。
この小さな板の向こう側で、俺の顔をした何かが、無数の人間から持て囃されていた。それが翔太の作り出した虚像だと分かっていても、数万人の熱狂の中心に、確かに「俺の顔」が存在していた。
その熱が突然消滅し、ただの淀んだ静寂だけが残されている。
ブブッ。
手元のスマホが短く振動し、微かな痺れが指先に伝わった。
メッセージアプリの通知。差出人は『小山なつみ』だ。
『午後1時。銀座の並木通り。遅れないように』
仁は短く息を吐き、立ち上がった。
クローゼットを開ける。一番手前に掛かっている、いつものヨレた灰色のパーカー。袖口は擦り切れ、全体的に物流センターの埃と機械油の臭いが染み付いている。
それに手を伸ばそうとして、指先がピタリと止まった。
鴨居には、あの日なつみが手配してくれたダークネイビーのビスポーク・スーツが、ビニールカバーを被せられたまま丁寧にハンガーに掛けられている。
あのスーツを着て、ひしゃげた防音扉をくぐった時の、自分の肉体に満ちていた確かな質量を思い出す。
仁はパーカーから手を離し、引き出しの奥を探った。
数年前に買った、オックスフォード生地の白いシャツ。首元には少し黄ばみがあり、長い間畳まれたままだったせいで全体に深い皺が寄っていた。
以前の俺なら、気にせずこのまま袖を通すか、やはり面倒になってパーカーを選んでいただろう。
だが仁は、部屋の隅の段ボール箱の下に押し込んであった古いアイロンを引っ張り出し、捻れたコードを解いてコンセントにプラグを挿した。
狭いちゃぶ台の上にバスタオルを二重に敷き、霧吹きでシャツ全体に水を吹きかける。
カチッという音と共にアイロンのランプが点灯し、次第に金属の焼けるような微かな匂いが漂い始めた。
ダイヤルを回して熱を持ったアイロンの底面を、湿った布地にゆっくりと押し当てた。
ジュッという甲高い音と共に、熱い蒸気が勢いよく立ち上る。生乾きの埃っぽい匂いが鼻を突いた。
アイロンの先端を滑らせるたびに、折れ曲がっていた繊維が平らに引き伸ばされていく。襟先、肩のライン、背中の広い面。少しずつ、白いシャツが本来の形を取り戻していく。
自分の手で熱を加え、物理的なシワを伸ばしていくその単調な作業に、仁は無心になって没頭した。
京王線の各駅停車は、休日の昼前特有の気だるい空気に満ちていた。
仁はドア横のスペースに立ち、流れていく車窓の風景を無言で眺めていた。アイロンをかけたばかりの白いシャツの襟元が、首の皮膚に硬く擦れる。普段着ている着古したスウェットやパーカーでは決して感じない、糊の効いた布地のパリッとした感触。
新宿で地下鉄に乗り換え、銀座駅の階段を上る。
午後1時。
休日の銀座は、初夏の強い日差しを反射するガラス張りのビル群と、洗練された装いの人々で溢れ返っていた。
高級ブランドのロゴが刻まれた分厚い紙袋が、人々の手の中で擦れ合う音。アスファルトの照り返しが空気を歪ませ、行き交う車のエンジン熱と混ざり合って独特のむせ返るような熱気を生み出している。
並木通り沿いにある、重厚なガラス扉のカフェ。
なつみはテラス席の奥で、エスプレッソのカップを前に静かに座っていた。オフホワイトのシルクのブラウスに、タイトな黒のスカート。完璧な曲線を描いてまとめられた髪。
周囲の雑踏からそこだけ切り離されたような、圧倒的で冷ややかなオーラ。通りを歩く人間が、男女問わず、無意識に彼女の方へ視線を奪われている。
仁が向かいの席に腰を下ろすと、なつみはエスプレッソのカップから静かに口を離した。
「……シャツ、自分でアイロンをかけたのね」
なつみの双眸が、仁の襟元から胸のあたりまでを静かに値踏みするように動いた。
「見苦しいか」
「いいえ。以前のあなたなら、あの油臭いパーカーで来ていたはずよ。進歩だわ」
なつみは優雅な仕草でカップをソーサーに置いた。かすかに陶器が触れ合う音が鳴る。
「佐々木翔太が終わって、気分はどう?」
「……終わった実感が、まだない」
ウェイターが運んできたアイスコーヒーを一息に半分ほど飲み、仁はグラスをテーブルに置いた。グラスの表面から水滴が滑り落ち、黒いコースターに暗い染みを作る。
「そう。実感がないんじゃないわ。あなたは、未練があるのよ」
テーブルに置いた仁の右手が、ピクリと強張った。
「……何の話だ」
「ごまかさないで」
なつみの冷ややかな声が、テラス席の微かな喧騒を切り裂いた。
「15万という数字。あなたは被害者でありながら、あの数字の暴力に酔っていた。……毒が抜けた後が一番苦しいわね」
肺の奥の空気が一気に搾り取られたように、仁の呼吸が止まった。
反論の言葉を出そうとして、喉がカラカラに張り付いて音にならない。
朝、四畳半の部屋で、真っ白な検索結果の画面を見つめていた時の、あの空洞のような感覚。
胃の底にこびりついたその正体を正確に突き刺され、仁はただ奥歯を強く噛み締めることしかできなかった。
なつみはバッグから小さなコンパクトを取り出し、開いた。カチャ、という小さな金属音が鳴る。
ほんのわずかにリップの輪郭を直し、彼女は再びコンパクトを閉じた。その所作には、1ミリの隙もない。
「画面の向こうの数字なんて、電気信号が作り出したただの幻よ。でも、あなたが今日、そのシャツにアイロンをかけたという事実は現実の行動だわ」
彼女は仁の顔を真っ直ぐに見据えた。
「彼から取り戻した顔の使い道は、あなたが決めること。元のカビ臭い部屋で、数字の亡霊を追いかけて惨めに干からびるか。それとも、そのアイロンをかけたシャツを着て、自分の足で現実の泥沼を歩き出すか」
初夏の乾いた風が、テラス席を吹き抜けていく。
仁は手元のグラスの水滴を親指で静かに拭い、黒ずんだ氷の浮かぶコーヒーを見下ろした。
グラスの表面に、無精髭を剃り落とし、アイロンのかかったシャツを着た自分の顔が微かに映り込んでいる。
「……明日、物流センターのエリアマネージャーに掛け合ってみる」
仁の低く擦れた声に、なつみは表情を変えなかったが、瞳の奥にほんのわずかな光を宿した。
「シフトを深夜から昼間に変えてもらう。夜は寝て、朝に起きる。まずはそこからだ」
「そう。せいぜい、現実の太陽の光に目を焼かれないようにすることね」
なつみは伝票を手に取り、立ち上がった。
仁もそれに倣って席を立つ。
ガラス扉の向こう側。初夏の日差し。白く焦げたアスファルト。
すれ違う人々の足音。乾いた話し声。車のエンジン音。




