第47話 祭りの後
プラスチック製のテーブルの表面に、水滴が不規則な模様を描いていた。
テラス席を吹き抜ける生ぬるい夜風が、マイのグラスの表面を滑り落ちた結露の滴を落とし、厚紙のコースターに暗い染みを広げていく。
テーブルの中央に置かれたタブレットの画面では、無音のニュース速報がループ再生されていた。フラッシュの暴力的な白刃が幾重にも交差する中、警察車両の後部座席に押し込まれる佐々木翔太の姿が映っている。頭から上着を被せられ、両手を前に出した不自然な姿勢でうなだれるその背中には、かつて画面越しに見せていた絶対的な成功者のオーラなど見る影もない。ただの恐怖に押し潰された、惨めな一人の男がそこにいた。画面の下部には『人気インフルエンサーMINATO、詐欺容疑で逮捕』という太いテロップが固定されている。
「……さて」
マイはタブレットの電源ボタンを押し、画面をブラックアウトさせた。深く息を吐き出して立ち上がると、タイトなサマードレスのシルエットが、街灯のオレンジ色の光を受けて滑らかな影を作る。
「こんな所で乾杯するのも味気ないわね。私の店に行きましょう。今日は休業日にしてあるから」
「いいのか」
「主役がいないお疲れ様会なんて、始まらないでしょ。のぞみたちも、もう向かってるはずよ」
マイは悪戯っぽく微笑み、革のハンドバッグを肩にかけて歩き出した。仁もグラスに残っていた水を飲み干し、静かに立ち上がってその後を追う。週末の夜を楽しむ若者たちや、客待ちのタクシーの列。大通りを行き交う車の排気音と人々の喧騒が、2人の足音を夜の底へと吸い込んでいった。
午後11時。
シャッターが半分下ろされたベトナム料理店「サイゴン・ブリーズ」の店内は、貸切状態になっていた。厨房からは八角とナンプラー、そして強烈なパクチーの香りが漂い、熱を帯びた重い空気となってフロアに滞留している。壁に貼られた色褪せたベトナムのポスターや、天井から吊るされた無数のランタンが、温かみのある光を落としていた。
「いやー、マジで傑作! これ見てよ、トレンドのトップテン、全部アイツ関連のワードで埋まってる!」
奥のボックス席で、のぞみがビールのジョッキを片手にスマホの画面をバンバンと叩きながら爆笑していた。彼女の向かいに座る乙女も、自分のスマホで別のアカウントのタイムラインを高速スクロールさせながら、頬を紅潮させている。
「オンラインサロンの被害者の会、もうアカウント立ち上がってますよ。しかも、アイツが高額で売ってた投資ツールのソースコード、ただのランダムな数字発生させるだけのフリーソフトだったって特定班がバラして、また炎上してます。コメント欄の勢いが凄すぎて、アプリが何回か落ちかけました」
「あのオンラインサロン、月額3万円だったらしいですよ。15万人全員が払ってたわけじゃないでしょうけど、それでも億単位の金が動いてたって……」
「それを全部ダミー会社経由でロンダリングしてたんだから、完全に組織犯罪だよね。マルサも警察も、今頃ウハウハで裏帳簿ひっくり返してるんじゃない?」
のぞみは笑い転げながら、ジョッキのビールを一気に飲み干した。彼女の指先が画面をスワイプするたびに、無機質な文字の羅列が濁流のように流れていく。
仁は少し離れたカウンター席に腰を下ろし、出された瓶のサイゴンビールをグラスに注いだ。冷たい炭酸の刺激とホップの苦味が、数日ぶりに胃の粘膜へと染み渡っていく。グラスの表面に結露した水滴が、指先を冷たく濡らした。
「お疲れ様」
隣の空き席に、黒いタートルネック姿のアリアが音もなく座った。彼女の手には、ジンジャーエールの入った小さなグラスが握られている。
「……ああ。そっちも、お疲れ」
仁が短く答えると、アリアは手元のグラスの氷をじっと見つめた。
「私の仕事はもう終わったわ。向こうのシステムへのアクセス経路は、ログごと物理的に潰してある。サフィヤや大塚由紀の関連データも同じよ」
「そうか」
それ以上の言葉は不要だった。グラスを軽く傾け合い、仁は再びビールを喉に流し込む。
カウンターの奥から、マイが大皿に盛られた生春巻きとバインセオを運んできた。テーブルに皿が置かれた瞬間、炒められた豚肉とエビの匂いが弾けるように広がる。
「ほら、高田さん。あんた、ここ数日まともなもん食べてないでしょ。どんどん食べなさい」
「……ああ。いただくよ」
仁が割り箸を割って手を伸ばすと、ボックス席からのぞみが「アタシも食う!」と身を乗り出してきた。
店内に、気取らない笑い声と食器のぶつかる音が響く。
仁は軽く息を吐き、スイートチリソースをつけたバインセオを口に運んだ。パリッとした米粉の生地の食感と、豚肉の生々しい脂の旨味が舌の上に広がる。香草の刺激的な香りが鼻へ抜け、腹の底に確かな熱と質量が落ちていくのを感じた。
翌日の夕暮れ。
仁は、元の物流センターのプレハブ事務所を訪れていた。昼間のシフトへの変更手続きを行うためだ。エリアマネージャーは数日間の無断欠勤について小言を並べたが、常に人手不足の現場事情もあり、書類へのサインだけであっさりと手続きは済んだ。プレハブの壁に貼られた色褪せた安全ポスターや、タバコのヤニで黄ばんだブラインド。深夜とは違い、活気に満ちた昼間の従業員たちの声が飛び交う中で、仁は自分の居場所が少しだけ動いたのを感じていた。
駅へ向かう大通りから1本外れた、人通りの少ないガード下。アスファルトのヒビ割れから雑草が顔を出している薄暗い道で、仁の足が止まった。
「……仁くん」
コンクリートの壁に背を預けるようにして、橘栞が立っていた。
流行りの淡い色のトレンチコートに、丁寧に巻かれた髪。トレンチコートの襟元から、甘いフローラル系の香水の匂いが漂ってくる。指先には、以前のレストランで見たボルドー色のネイルとは違う、控えめなピンク色のマニキュアが塗られていた。
彼女は仁の姿を認めると、壁から背中を離し、歩み寄ってきた。その視線が、仁の全身の輪郭を素早く上下に動く。
「ニュース、見たよ。翔太くん……あんなことしてたなんて、本当に信じられなくて」
栞は仁の目の前で立ち止まり、少しだけ上目遣いになって視線を合わせた。
「私、全然知らなかったの。翔太くんが、仁くんのこと……あんな風に監視してたなんて。私、ただ仕事の相談に乗ってもらってただけで……本当に、騙されてたの」
その声には、微かな震えが混じっていた。両手が胸の前で不安げに組まれ、潤んだ瞳が仁の顔をじっと見上げている。ヒールを鳴らして半歩踏み出し、必死な顔を作る。かつてなら、その僅かな距離の縮まりだけで仁の心臓は跳ねていただろう。
仁は無言のまま、目の前に立つ女の顔を見下ろした。
整えられた前髪の隙間から覗く視線の揺れ。口から紡ぎ出される言葉の抑揚。指先の細かな強張り。彼女の行動のすべてが、仁の目にはただの表面的な情報として映っていた。そこに怒りも、恨みも、かつての劣等感すらも湧き上がってこない。
「仁くん……ごめんなさい。私、仁くんのこと、ずっと……」
栞が言い淀みながら、そっと手を伸ばしかけた。
「……お前が何を知っていて、何を知らなかったか」
仁の低く、平坦な声が、栞の言葉を遮った。
「俺には関係ないことだ」
伸ばしかけられた栞の手が、空中でピタリと止まる。
「……え?」
「どいてくれ。通る」
仁は短く告げると、栞の横を無造作に通り抜けた。すれ違いざまに、あの甘い香水の匂いが微かに鼻を掠めたが、仁の歩みは1ミリも乱れなかった。
「ま、待ってよ、仁くん! 私——」
背後からすがりつくような声が聞こえたが、仁の歩調が変わることはない。革靴の硬いヒールがアスファルトを叩く等間隔の音だけが、雑踏の騒音に混じって規則的に続いていく。
午後8時。
京王線沿線の、築40年を超える木造アパート。
錆びついた鍵穴に鍵を差し込み、重い鉄扉を押し開ける。鉄扉の冷たい感触と、蝶番が軋む金属音。四畳半の部屋に足を踏み入れた瞬間、長年染み付いたカビの匂いと共に、足元で「ミャッ」という短く高い鳴き声がした。
視線を落とすと、茶トラのキナコが、短い尻尾をアンテナのように真っ直ぐに立てて駆け寄ってくる。そのすぐ後ろから、キジトラのムギも不器用な足取りで突進してきて、勢い余って仁の革靴のつま先にゴツンと頭をぶつけた。
仁は靴を脱ぎ、ゆっくりと膝をついた。
2匹の小さな毛玉が、仁の膝頭に競い合うように頭を擦り付けてくる。ゴロゴロ、というエンジン音のような喉の鳴りが、ズボンの生地越しに直接骨へと伝わってきた。ムギは仁の靴の匂いを丹念に嗅ぎ始め、キナコは仁の脱ぎ捨てた靴下に向かって短い猫パンチを繰り出している。
「……ただいま」
仁は2匹の背中を交互に撫でた。薄い皮膚の下にある、引き締まり始めた筋肉と、細かく力強く脈打つ心臓の鼓動。
仁は立ち上がり、鴨居のハンガーにジャケットを掛けた。ネクタイを外し、シャツのボタンを外し、クローゼットからいつものグレーのスウェットを取り出して袖を通す。
仕立ての良いスーツも悪くはなかったが、今の仁には、この少し毛玉のついたスウェットの感触の方が、よほど肌に馴染んでいた。
棚から子猫用のレトルトパウチを取り出し、銀色のパッケージの封を切る。ツナと鶏肉の濃厚な匂いが室内に広がった瞬間、ムギとキナコは仁の足元で狂ったように鳴き始め、スウェットの裾に爪を立ててよじ登ろうとしてきた。
「わかった、待て」
100円均一で買った2つのプラスチック皿に、等分に中身を絞り出す。
皿を床に置いた瞬間、2匹は猛烈な勢いで顔を突っ込み、ハフハフと音を立ててペーストを貪り食い始めた。時折、隣の皿が気になってムギが顔を上げると、キナコが小さく「シャーッ」と威嚇し、また自分の食事に戻る。
仁はちゃぶ台の前にあぐらをかき、その小さな背中をぼんやりと眺めた。
古い冷蔵庫の低いモーター音。遠くの国道を走るトラックの排気音。そして、目の前で必死に餌を咀嚼する子猫たちの、くちゃくちゃという食事の音。
仁は視線を上げ、傍らに置いたスーパーのレジ袋から特売のコロッケパンを取り出した。透明なフィルムを破り、無造作に一口かじる。パサついたパン生地と、油の染み込んだ衣、少し酸味の強いソースの味が口の中に広がった。喉が詰まりそうになるのを、ペットボトルの水で流し込む。
仁はゆっくりと顎を動かし、ただ黙々とそのパンを胃袋へと流し込んでいった。




