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第46話 経済的・社会的抹殺

 画面の端が蜘蛛の巣状にひび割れた代替機の液晶のなかで、崩壊していく密室の様子が全世界に向けて垂れ流され続けていた。


 仁が蹴り破った防音扉のひしゃげた枠の向こうから、無遠慮な複数の足音が室内に踏み込んでくる。

 万年床の上に倒れ込んだ巨大なリングライトが、チカチカと不規則な明滅を繰り返している。その白い光に照らされたゴミだらけのコンクリート床に、土足のまま踏み入る革靴がいくつも映り込んだ。ダークスーツを着た体格の良い男が3人、そしてその後ろに制服姿の警察官が2人。


「佐々木翔太だな」


 低く、事務的な声が防音室の澱んだ空気に響いた。

 床に這いつくばり、食べ残しのモダン焼きのソースと自身の吐瀉物にまみれていた翔太が、弾かれたように顔を上げる。分厚い黒縁眼鏡がずり落ち、焦点の合わない目が、立ちはだかる男たちを見上げた。


「警視庁サイバー犯罪対策課だ。それと、生活経済課も同行している。……随分と派手な部屋だな」


 先頭に立ったスーツの男が、床に散乱する弁当の空き容器や割れたバカラグラスの破片を冷ややかに一瞥した。

 翔太の喉から、ヒュッと引きつった短い息が漏れる。


「な、なんの、用ですか……俺は、被害者だ! さっき、いきなり知らない男がここに押し入ってきて……っ!」


「その件については、後でゆっくり調書を取らせてもらう。だが、我々が来たのは別件だ」


 男は内ポケットから、折り畳まれた令状らしき紙面を取り出し、翔太の顔の前に突きつけた。


「特定商取引法違反、および詐欺容疑。オンラインサロンでの架空の投資ツールの販売と、資金洗浄の疑いだ」


 翔太の顔から、最後の血の気が引いていくのが画面越しにもはっきりと分かった。青ざめた唇がわななき、無意味な言葉を紡ごうとする。


「ち、違う! 俺は知らな……」


「言い逃れはできないぞ。関係箇所の家宅捜索も同時に進んでいる。立て、署で話を聞く」


 スーツの男の顎での合図を受け、後ろに控えていた制服警官の2人が前に出た。

 翔太は逃れようと無様に後ずさるが、背中がPCデスクの脚に激突して行き場を失う。デスクの上のモニターがガタガタと揺れ、複雑に絡み合ったケーブルの束が床に落ちた。


 画面の右側では、チャット欄の文字列が網膜の処理速度を完全に超えるスピードで流れ続けていた。


『うわ、警察キタコレwww』

『マジで逮捕じゃん』

『MINATO(容疑者)爆誕』

『詐欺師! 金返せ!』

『裏金ってマジ?』

『今までこんなおっさんに騙されてたのかよ』

『歴史的瞬間を見てしまった』

『通報完了』


 無数のコメントが、秒間数百件という異常なペースで世界中から叩きつけられ、古い投稿を暴力的な速度で画面の下へと押し流していく。エラーを起こしたように増殖し続ける文字列は、もはや個々の意味を失い、一つの巨大なノイズの塊となって密室の惨状を埋め尽くしていた。


「や、やめろ……俺はMINATOだぞ! 15万人が見てるんだ! お前ら、ネットで晒してやるからな! やめろォォォ!」


 警官に両脇から腕を掴まれ、強引に引きずり起こされた翔太が、幼児のように手足を振り回して泣き喚く。ヨレたスウェット姿の成人男性が、見苦しくもがく姿が、横倒しになった広角レンズの前を横切っていった。

 翔太は抵抗しようと暴れたが、鍛えられた警官の腕力の前では子供のようだった。ガチャリ、と硬く冷たい金属音が響き、翔太の両腕が背後で拘束される。


「……おい、このカメラ、まだ回ってるのか?」


 スーツの男の1人が、デスクの端に放置されたままの一眼レフカメラと、明滅するモニターに気づいた。


「配信中みたいですね」

「切れ。証拠品としてPCごと押収する」


 画面の中で、無骨な手がレンズに向かって伸びてくる。

 その手がレンズを完全に覆い隠した直後、ブツッというノイズと共に、画面が暗転した。


『配信が終了しました』という無機質な白い文字だけが、黒い液晶のなかに浮かび上がる。


 仁は深く息を吐き出し、代替機をちゃぶ台の上に伏せた。

 築40年を越える木造アパートの四畳半に、深夜の静寂が戻ってくる。遠くの国道を走る大型トラックの微かな振動が、薄いアルミサッシを震わせていた。長年染み付いたカビと古いイグサの匂いが、冷たい隙間風と共に鼻腔を撫でる。

 足元では、段ボール箱から這い出してきたムギとキナコが、仁の脱ぎ捨てた靴下を挟んで丸くなり、互いの体温を分け合うように密着して眠っていた。仁が動いた気配で、ムギが薄く目を開け、小さく喉を鳴らして再び目を閉じる。

 仁は擦り切れた畳の上に大の字に寝転がり、シミの浮いたベニヤ板の天井を見上げた。天井の木目が、街灯の僅かな光に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。

 憑き物が落ちたような、強烈な疲労感が全身の筋肉を重く沈み込ませていく。それでも、数日前まで胃の底にへばりついていた、自分が削り取られて消えてしまうようなあの底なしの恐怖と焦燥感は、もうどこにも残っていなかった。

 仁はゆっくりと目を閉じ、肺の底まで冷たい空気を吸い込んだ。


★★★★★★★★★★★



 数日後の、週末の昼下がり。

 梅雨入り前の湿気を孕んだ風が、表参道の並木道を吹き抜けていく。ケヤキの葉の間からこぼれる光が、アスファルトの上に複雑な影の模様を描き、風に合わせて絶え間なく形を変えていた。

 行き交う人々は皆、色鮮やかな夏の装いを先取りし、それぞれの休日のノイズを発しながら足早に通り過ぎていく。

 高級ブランドのショーウィンドウが放つ華やかな空気が入り混じる街の片隅。ガラス張りのオープンテラスが併設されたカフェの隅の席で、仁はアイスコーヒーのグラスの表面についた水滴を指先で拭いながら待っていた。


 今日身につけているのは、洗いざらしのオックスフォードシャツとチノパンだ。しかし、シャツには丁寧にアイロンがかけられ、上質なスーツの重みは無いものの、肩甲骨を引き寄せ、腹の底に重心を置くように座るその姿勢が、身体の芯に確かな熱を保たせている。


「待たせた?」


 不意に、背後から声をかけられた。

 振り返ると、グエン・ティ・マイが立っていた。


 仁はわずかに目を瞠った。

 ベトナム料理店で見せるエプロン姿でもなく、裏社会の人間と交渉する時の隙のないパンツスーツ姿でもない。

 体のラインを美しく見せる、透け感のある深いネイビーのタイトなサマードレス。艶やかな黒髪は緩く巻かれて背中に流され、歩くたびにふわりと柔らかな弧を描く。小ぶりだが質の良いシルバーのピアスが、耳元で光を反射している。足元は華奢なピンヒールだ。

 その姿に、テラス席にいた数人の客が思わず会話を止め、視線を奪われているのが分かった。


「いや、俺も今来たとこだ」


 仁が短く答えながら向かいの椅子を引くと、マイは「ありがとう」と微笑み、優雅な動作で腰を下ろした。


「それにしても、見違えたわね」


 マイは運ばれてきた冷たいジャスミンティーのグラスに口をつける前、仁の顔をじっと観察して言った。


「最初にうちの店に来た時の、あの今にも死にそうな顔はどこにいったの? 服装は普通なのに、姿勢が違うだけで別人に乗っ取られたみたい」


「……色々と、脅されながら姿勢を直されただけだ」


 仁が苦笑交じりに言うと、マイは面白そうに喉の奥で笑った。

 彼女は手元のバッグからタブレットを取り出し、画面を数回タップして仁に見せた。

 ニュースサイトの経済トップ記事。


『人気インフルエンサー「MINATO」、詐欺および特定商取引法違反の容疑で逮捕。数百人規模のオンラインサロンで巨額の資金洗浄か』


「警察の動き、早かっただろ」


 仁が短く言う。


「ええ。口座を凍結されたら、向こうも身動きが取れないから。あとは警察とマルサの仕事よ」


 マイの口調は淡々としていたが、彼女は手元のグラスをじっと見つめ、氷を軽く揺らした。


「これで、うちのコミュニティの子たちから吸い上げた金も、少しは戻ってくるかもしれない」


「あんたが口座の記録を洗い出してくれなかったら、俺たちだけじゃただの炎上で終わらせてしまっていた。……感謝してる」


 仁が真っ直ぐに彼女の目を見て言うと、マイは少しだけ目を丸くし、それからふっと表情を和らげた。


「あなたたちがシステムをこじ開けてくれたから、こっちの証拠も活きたのよ」


 マイはジャスミンティーのグラスを手に取り、仁のアイスコーヒーのグラスに軽く当てた。チン、と涼やかなガラスの音がテラス席に響く。


「それぞれが、自分の落とし前をつけただけ。あなたもね」


 仁は黙って頷き、冷たいコーヒーを喉の奥へ流し込んだ。

 冷たい液体の感触が食道を下っていくのを、確かな感覚として味わう。


「それで、あなたはこれからどうするの?」


 マイがグラスを置き、尋ねてきた。


「まずは、昼の仕事に変えてもらうようエリアマネージャーに掛け合う。深夜の倉庫で、ただ流れてくる数字を数えるだけの生活はもう終わりだ。日が昇ったら起きて、日が沈んだら寝る。最初からやり直すよ」


「そう。良いと思うわ」


 マイは満足げに微笑んだ。


「人間、陽の光を浴びないと腐るからね。……もし、まともな飯が食いたくなったら、いつでも店に来なさい。フォーくらいなら奢ってあげるわ」


「ああ。近いうちに行く」


 仁はアイスコーヒーのグラスを持ち上げ、残っていた冷たい液体を飲み干した。グラスをコースターの上に静かに戻す。

 マイが伝票を手に取って立ち上がった。仁もそれに倣い、椅子を引く。

 日よけのパラソルを抜けると、肌を刺すような強い日差しが降り注いできた。二人は言葉を交わすことなく、休日の表参道の雑踏の中へと、それぞれの足取りで歩き出した。

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