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第45話 大炎上

 ひび割れた代替機の画面の中で、テキストの帯が網膜の処理速度を完全に超えるスピードで流れ続けていた。

 親指でスクロールしているわけではない。秒間数百件という異常なペースで世界中から叩きつけられる新しい投稿が、古い投稿を暴力的な速度で画面の下へと押し流しているのだ。


 京王線沿線の、築40年を越える木造アパート。深夜の淀んだ四畳半には、長年染み付いたカビと埃の臭いが漂っている。遠くの国道を大型トラックが走り抜けるたび、薄いアルミサッシが微かに震え、冷たい隙間風が室内に這い込んできた。ちゃぶ台の上には、スーパーの袋に入ったままの半額の惣菜パンと、飲みかけの安いインスタントコーヒーのマグカップが置かれている。

 仁は変色したイグサの万年床の上にあぐらをかき、猛スピードで押し寄せる無機質な文字列の連続を、ただ無表情に見つめていた。数時間前まで身を纏っていた濃紺のビスポーク・スーツは汚れがつかないよう丁寧にハンガーに掛けられ、鴨居の淵に吊るされている。上質なウール生地が室内のわずかな光を吸い込んでいるその下で、仁はいつものヨレて毛玉のついた灰色のスウェット姿に戻っていた。

 だが、あの阿鼻叫喚の防音室での出来事は、まだ仁の神経の奥底で微かな熱として燻っていた。

 ひしゃげた重い防音扉。壁一面に雑に貼り付けられた黒い吸音スポンジと、その隙間から覗く安っぽいベニヤ板。床に散乱していたバカラのグラスの破片と、そこに這いつくばって胃液とソースの臭いを撒き散らしていた佐々木翔太の無様な姿。

 完璧にプロデュースされた成功者の城の裏側は、息が詰まるほどカビ臭く、ただ不潔なだけの密室だった。


 表示されているのは、SNSのトレンド画面だ。

 1位:『#MINATOの正体』

 2位:『#オンラインサロン詐欺』

 3位:『#ゴミ部屋配信』

 4位:『#被害者の会』

 5位:『#顔面合成』


 関連ワードには「返金」「パクリ」「逮捕」といった不穏な単語がびっしりと並び、タイムラインは完全に1つの巨大な炎として燃え盛っていた。

 タグをタップすると、のっぺらぼうの3Dモデルと、配信中に露わになった翔太の涙と鼻水にまみれた顔を並べた比較画像が、無数のアカウントによってリポストされ続けている。


 ブブッ。

 画面の上部に、メッセージアプリの通知がポップアップした。丸山乙女からだ。

 仁がタップすると、短いテキストと共に、音声通話の着信画面に切り替わった。


「はい」


 仁が通話ボタンを押して耳に当てると、電話の向こうから、いつもの少し軽く、しかし底知れない冷徹さを孕んだ乙女の声が聞こえてきた。


『お疲れ様です、先輩。見てます? 今、完全にトレンド独占してますよ』

「ああ。すごい勢いだな」

『当然です。配信直後から、私の方で裏垢全部回して燃料ガンガン投下し続けましたからね。IPアドレスも毎回バラバラにして、海外のプロキシ経由して書き込んでるんで、足は絶対につきません』


 乙女の背景からは、彼女の部屋で流れているらしい深夜のバラエティ番組の笑い声が微かに聞こえていた。彼女はポテトチップスか何かを齧るようなパリッ、という軽い音を立てながら、悪びれもせずに淡々と話し続ける。時折、ノートPCのキーボードを乱暴に叩くターン、という硬い打鍵音が混じった。

 おそらく彼女は今、複数のモニターを開き、数十個のダミーアカウントを同時に走らせて、SNSのアルゴリズムに『MINATOの炎上』を意図的に誤認させ、トレンドの上位に固定し続けるための処理を行っているのだろう。


『もらった証拠データ、まとめサイトが一番食いつきそうな形にちょっとずつ分けてリークしてやったんです。わざと画質荒くしたり、意味深な一言だけ添えたりして。「これってあのMINATOのことじゃない?」って、ネットの連中に自分たちで気づかせた方が、あいつら勝手に盛り上がるんで。もう、気持ちいいくらいに釣れました』

「……お前、ほんとにそういうの容赦ないな」

『いやいや、向こうが勝手に燃え上がってるだけですよ。さっきからMINATOの過去の投稿のコメント欄にも、裏垢から自動でタグ付けしたコメントを数秒おきに絨毯爆撃してますし。で、極めつけにあの配信事故の映像でしょ? もう完全に「MINATOは他人の画像パクって裏金作ってたゴミ部屋おじさん」ってことで、お祭り騒ぎです』


 乙女の言う通りだった。

 あの決定的な映像が、あらゆる疑惑に一気に火をつけたのだ。


 通話したまま、仁はスピーカーにして画面を再び見る。


『今までこんなおっさんの合成写真にいいね押してたの? マジで吐きそう』

『あの腕時計もレンタルだろ絶対』

『サロンの入会金、絶対返せよ詐欺師』

『集団訴訟の準備してるらしいぞ』

『高級ラウンジだと思ってた場所が、ただの吸音材貼った四畳半ってマ?』

『顔どころか、人生そのものがパクリじゃん』

『特定班急げ、こいつの本当の住所割れ』


 15万人。

 かつて翔太が、自分が安全な高みにいると錯覚するための強固な城壁だった数字。

 自分を賞賛し、肯定し、時には莫大な金を落としてくれた従順な信者たち。

 かつて翔太を守っていたその分厚い壁は、今や彼自身を押し潰す巨大な瓦礫となって容赦なく降り注いでいる。


『昨日まで「MINATOさん最高!」って言ってた信者たちが、今は一番のアンチになって石を投げてるんですから。笑えちゃいますよね』


 乙女が、再びポテトチップスを咀嚼する音を挟みながら、ひどく冷めた声で言った。


『ていうか、ちょっと前にMINATOのサロン入ったって自慢してた地元の同級生の男、今見たらアカウントごと消して逃げてましたよ。ダサすぎ。……インフルエンサーとかちょっと憧れてましたけど、マジでバカバカしくなりました。手のひら返しエグすぎ』


「……数字ってのは、恐ろしいな」


 仁が低く呟くと、乙女は『ふふっ』と短く笑った。


『所詮、画面の向こうの数字なんてそんなもんですよ。……それじゃ、私はもう少しだけ、火の粉が消えないようにタイムラインの整理をしておきます。明日、職場で』

「ああ、頼む」


 通話が切れる。

 仁は、熱を持った代替機をちゃぶ台の上に置いた。


 15万人。

 かつて仁自身も、その数字の暴力に打ちのめされていた。

 自分は社会の底辺で惨めにすり減っているのに、同級生の翔太は俺の顔のパーツを盗み、15万人の羨望を集めて成功者の階段を上っている。その圧倒的な格差と理不尽さに、何度胃液を吐き出し、眠れない夜を過ごしたことか。


 だが、その強固に見えた城壁は、ただの蜃気楼だった。

 あいつは、防音室という密室の中から、見えないカメラを通して俺の惨めな底辺生活を覗き見し、強烈な優越感に浸っていた。

 俺の部屋の広さ、俺が食べていた半額弁当、俺の顎にある傷跡。それらをすべて盗み出し、フィルターを通して『完璧なMINATO』の生活へと変換することで、自分の空っぽな人生を満たそうとしていたのだ。

 自分のフォロワーが1万人増えるたびに、あいつは俺を見下す視線の高さを上げていったつもりだったのだろう。だが、高くまで登りすぎた梯子は、外された時の落差も致命的なものになる。


 すべてを暴かれ、何もかもを失ったあの酸っぱい臭いのするゴミ部屋で、あいつは今、何を思っているのだろうか。


 仁は深く息を吐き出し、首の後ろに手を回して硬く凝り固まった筋肉を揉みほぐした。

 なつみの過酷なプロデュースによって矯正された姿勢と、あの分厚い防音扉を蹴り破った時の反動が、今になって全身の関節に重い疲労としてのしかかってきている。だが、それは深夜の物流センターで数字を追いかけていた時の、生命力を削り取られるような陰惨な疲労とは全く質の違うものだった。

 腹が、減っていた。

 ここ数日、まともな固形物を胃に入れていない。吐き気と焦燥感に支配されていた内臓が、今ようやく、生きるためのエネルギーを明確に要求し始めている。


 ――カサッ。


 足元で、小さな音がした。

 仁が視線を落とすと、茶トラのキナコが、ちゃぶ台から垂れ下がっていたスマホの白い充電ケーブルに狙いを定めていた。

 キナコは太い尻尾をパタンパタンと左右に打ち据えながら、丸いお尻を高く突き上げて身をよじらせている。耳を後ろに伏せ、擦り切れたイグサの隙間に短い爪を立てて、完璧な助走の姿勢を作っていた。

 そして、弾かれたように跳躍した。


「ミャッ!」


 小さな両前足で白いケーブルをガッチリとホールドし、そのままささくれた畳の上にゴロンと横転する。腹を見せた無防備な体勢のまま、短い後ろ足の柔らかな爪を立てて、ケーブルを連続で激しく蹴りつけ始めた。

 だが、まだ筋力が足りないのか、数秒もすると疲れてしまい、ケーブルを抱き抱えたままフンス、フンスと荒い鼻息を立てている。


「おい、断線させんなよ」


 仁が苦笑して手を伸ばすと、キナコはケーブルをあっさりと放し、今度は仁の指先にじゃれついてきた。両前足で仁の人差し指をギュッと抱え込み、細い乳歯で指の腹を甘噛みする。チクチクとした微かな痛みと、小さな舌のザラザラとした感触。


 その騒ぎを聞きつけて、部屋の隅の段ボール箱の中から、キジトラのムギがのっそりと這い出してきた。

 ムギはキナコよりも少しだけ慎重で賢い。一度大きくあくびをして、小さなピンク色の舌を丸めて見せてから、仁のあぐらをかいた足の間へとトコトコと歩いてくる。

 仁の太ももに前足をかけ、フンスフンスと匂いを嗅いで安全を確認すると、そのままスウェットの股の間にすっぽりと収まった。前足を器用に折りたたみ、尻尾を体に巻きつけて香箱座りの姿勢を作る。


 仁は、右手でキナコの柔らかい腹を撫でながら、左手でムギの頭から背中にかけての滑らかな毛並みをゆっくりと撫で下ろした。

 指先から、2つの小さな命の熱が直接伝わってくる。

 骨格の形、筋肉の収縮、皮膚の下を流れる血液の温かさ。

 ゴロゴロと鳴る喉の振動が、仁の太ももから腹部へと伝わり、こわばっていた神経を少しずつ解きほぐしていく。ノミだらけで泥にまみれていた小さな命は、今では確かにここで、規則正しい呼吸を繰り返している。

 それは、どれほど高度なディープフェイク技術を使っても、どれほど完璧なAIフィルターを通しても、絶対に再現することのできない「圧倒的な現実の質量」だった。


 ふと、ちゃぶ台の上の代替機の画面が再び点灯した。

 タイムラインの新しい通知が、次々と画面を埋め尽くしていく。

 何万人もの人間が、1つの虚像の死を嘲笑い、怒り、消費しているデジタルの狂乱。


 キナコが、点灯した画面の上でチカチカと動く文字のスクロールに反応し、短い前足で画面をペシッ、と1度だけ叩いた。


『パクリ野郎』という文字が、肉球の裏でタップされてリンク先に飛ぼうとしたが、エラーが出て弾かれた。


 キナコは不思議そうに首を傾げ、興味を失ったように仁の太ももに顎を乗せて目を閉じた。


「お前らには、そんなもん、ただの光る虫にしか見えないよな」


 仁は低く呟き、手を伸ばした。

 プラスチックの筐体が畳に触れ、カツッという乾いた小さな音が鳴る。

 仁は代替機の画面を完全に伏せ、冷めたコーヒーのマグカップを手に取った。

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