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第44話 罪の暴露

 画面のなかの佐々木翔太は、もはや人間の形を保っていなかった。


 京王線沿線の古びたアパート。カビと埃の匂いが長年染み付いた薄暗い四畳半の部屋で、仁はちゃぶ台の縁に背中を深く預け、画面の端が蜘蛛の巣状にひび割れた代替機を見つめていた。 ディスプレイに表示されているのは、数時間前にデジタル空間の各地へ拡散された、あの生配信の切り抜き動画だ。 再生バーは中盤を過ぎたあたりを指している。 突入した仁によってカメラの向きを強制的に変えられ、グリーンバックのフェイクが剥がされた柴崎のアパート。その不潔なゴミ部屋の中央で、翔太が狂ったようにキーボードを乱打している様子が、広角レンズ越しに克明に記録されていた。


「な、なんだよこれ! やめろ、動け! 消せ!」


 翔太の金切声が、代替機の安っぽいスピーカーから掠れ、ノイズ混じりの音となって漏れる。 配信の管理画面は、外部からの不可視のアクセスによって完全に凍結されていた。画面上のマウスカーソルは、翔太の意志をあざ笑うかのように、システムOSの最深部へと滑るように侵入していく。 アリアが物理ポートから送り込んだペイロードが、翔太の管理者権限を根こそぎ剥ぎ取っていくプロセス。それが、純白のコマンドプロンプトの文字列として、秒間数百行という凄まじい速度で画面上を埋め尽くしていった。


 カーソルは、デスクトップの最も奥深くに暗号化されて隠されていたディレクトリを無慈悲にこじ開けた。 表示された親フォルダの名前は『Target_Data』。 15万人の視聴者が見つめるオーバーレイ上に、その配下のファイル群が一斉に展開される。


 深夜のコンビニエンスストアのレジ前で、小銭を数える仁の後ろ姿。 錆びついたアパートの階段を上る、ヨレたパーカーの肩。 暗い国道の歩道を、うつむきながら歩く足元。


 そして、スマートフォンのフロントカメラからバックグラウンドで吸い上げられ続けた、寝不足で充血した仁の眼球、顎の剃り残した無精髭、皮膚の毛穴のディテール。 すべてのファイルには、日付と秒単位のタイムスタンプが不気味な規則性をもって刻まれていた。さらにその横には、仁のスマートフォンのセンサーが検知した「歩幅の推移」「端末をタップする微細な圧力」「環境音の周波数」といった、肉体労働に摩耗する日々の生体データが、冷徹なグラフとして視覚化されていた。


 長期間に及ぶ執拗なストーカー行為の全記録が、15万人の前に無防備に展開されていく。


『これ、全部盗撮じゃん』

『ストーカーのデータフォルダを配信で晒してんの?』

『キモすぎる。警察案件だろ』

『MINATOって、他人の私生活を覗き見して作られた化け物だったのか』


 チャット欄の文字の流れが、あまりの投稿量に処理が追いつかず、断続的にカクつきながら跳ね上がっていく。 だが、処刑はそれだけでは終わらなかった。 画面中央に、サフィヤが解析した画像合成ソフトのUIが強制表示される。 のっぺらぼうの、のっぺりとした灰色の3Dポリゴンモデル。そこに、先ほどの『Target_Data』から抽出された仁の顔面パーツ――右顎の引きつった三日月型の傷跡、疎らに生えた髭の剃り跡、疲労で弛んだ皮膚のテクスチャ――が、レイヤーとして機械的にパッチワークのように貼り合わされていく。 光の屈折率が合わされ、輪郭がシャープに削られ、フィルターが重ねられる。 わずか数秒ほどの自動処理ののち、画面の中に出来上がったのは、誰もが憧れた完璧なインフルエンサー『MINATO』の顔だった。


「違う……違うんだ! これは俺だ! 俺が作り上げた完璧なデザインなんだよ!」


 翔太がカメラに向かって両手を伸ばし、レンズを物理的に塞ごうと狂ったように暴れる。その拍子に、デスクの上に置かれていた何十本ものエナジードリンクの空き缶が床に転がり、乾いた金属音を立ててゴミの山のなかに消えた。 かつて高校のグラウンドの片隅で、羨望と嫉妬に塗れた目で仁を見つめていた佐々木翔太。そのメッキが、15万人の網膜の前で1枚ずつ剥ぎ取られていく。


 トドメとなったのは、マイが執念で引きずり出した裏金ルートの暴露だった。 『Salon_Manual』と題されたPDFファイルが全画面に表示され、翔太自身のタイピングによって構築された、極めて悪質な詐欺のスキームが赤裸々に公開された。


『情報弱者リストの作成とアプローチ手順』

『マインドコントロールを用いた高額FXツールの販売スクリプト』

『返金要求に対する、法的措置をちらつかせた脅迫の定型文』


 海外のダミー会社を何重にも経由してベトナム人実習生の名義口座に資金を逃がす、マネーロンダリングの手順書。 画面の端から端までを埋め尽くしたその醜悪な真実に、チャット欄はもはや言葉としての用をなさない、純粋な怒りと罵倒の弾幕で完全に埋め尽くされた。


『詐欺師が。今すぐ金返せ』

『被害者の会立ち上げるわ。絶対許さねえ』

『通報完了。人生オワタなMINATO』

『明日には逮捕だろこれ』


「やめてくれ……消せ、消してくれよおぉ!」


 翔太はカメラに向かって這いつくばり、割れたバカラグラスの破片が散らばる床の上で、自らの破れたスウェットの膝を脂汗で濡らしながら狼狽していた。かつて十数万人もの狂信者を従え、ネットの王として君臨していた男の、それが無惨な実態だった。 その直後、配信画面は急激に暗転し、グレーの背景に『このライブ配信は、コミュニティガイドライン違反により終了しました』という無機質な警告文だけが表示された。


 そこで動画は途切れていた。


 仁は液晶画面を1度タップし、端末の電源を落とした。 部屋に、元の四畳半の薄暗い静寂が戻ってくる。 窓の外からは、深夜の国道を走る長距離トラックの重い排気音が、等間隔の地鳴りのように壁を震わせて伝わってきた。 仁は代替機を畳の上に滑らせ、深く息を吐き出した。 足元では、キジトラのムギと茶トラのキナコが、毛布のわずかな窪みに身体をぴったりと寄せ合い、スースーと微かな寝息を立てている。


★★★★★★★★★★★


 日曜日の午後。 初夏の生温かい風が吹き抜ける井の頭公園は、休日を過ごす家族連れやカップルの発する雑多な話し声で満ちていた。 池のほとりにある木製のベンチに腰を下ろし、仁は自動販売機で買った冷たい緑茶のペットボトルを握りしめていた。水滴が結露し、指先をひんやりと濡らしている。 すれ違う他人の視線が以前ほど気にならなかった。かつて喉を締め付けるようにへばりついていた、スマホのレンズ越しに見知らぬ誰かから常に覗き見されているという強迫観念が、今はいくらか和らいでいる。白のオックスフォードシャツの襟が、寝不足の首元に擦れる感触だけが妙に生々しかった。 チノパンの膝の上に置いた手は、まだ少しだけ緊張で強張っている。


「お待たせしました、高田さん」


 歩道の方から、静かな声が聞こえた。 振り返ると、そこに大塚由紀が立っていた。 翔太のアジトにいた時の、あの胸元が開いた華奢な黒いドレスや、場違いなほど高価なブランド物のハンドバッグはそこにはない。 サイズの大きいグレーのスウェットに、色落ちした細身のジーンズ。足元は白地のシンプルなスニーカーで、肩まで伸びた赤茶色の髪は無造作に後ろで束ねられていた。化粧も驚くほど薄く、どこにでもいる19歳の、少し物静かな大学生の姿だった。 ただ、その瞳の焦点は以前のように遠くの虚空を彷徨ってはおらず、真っ直ぐに仁を見据えていた。


「悪いな、急に連絡して」

「いいえ。私も、高田さんとは一度、こういう普通の場所できちんと話したかったので」


 由紀は少しだけ口角を緩め、仁から1人分ほどの距離を空けて、ベンチの隣に腰を下ろした。 池の水面には濁った緑色の光が反射し、時折、風に押された貸しボートが、キー、キーと不器用な金属音を立てて通り過ぎていく。


「仕事……レンタル彼女の方は、どうした」

「金曜日の夜に、事務所のサイトからプロフィールの削除申請を出しました。昨日、退所の手続きも全部終わって。スマホの番号も変えて、前の仕事で繋がってた人たちの連絡先も、全部消しました」


  由紀はジーンズの膝の上に両手を重ねた。


「アリアさんが私の過去のデータを全部消去してくれたおかげで、変な引き止めにも遭わずに済みました。ネットのどこかに自分の切り取られた記録が残っているかもしれないっていう恐怖も、今はもうありません」

「そうか」

「佐々木翔太のサロン、大変なことになってますね。あの配信の直後から、ネットのまとめサイトとかSNSで、あのマニュアルのスクリプトや裏金のアカウント名が全部拡散されて。騙されてたって気づいた人たちが、返金を求めてネット上で大きなグループを作って騒ぎ始めてます」

「ああ。のぞみやマイが警察と税務署に持ち込んだ証拠がある。あいつがペーパーカンパニーを使ってた形跡や、実習生名義の口座記録だ。外堀は完全に埋まってる。捜査が入るのも、時間の問題だろうな」


 仁がペットボトルのキャップを開け、冷たいお茶を一口含むと、喉の奥の渇きがゆっくりと潤っていくのが分かった。


「……本当に、終わるんですね。あの人が作っていた、嘘だらけの世界」


  由紀は視線を池の対岸へと移し、静かに呟いた。


「グリーンバックで合成された綺麗な夜景を見せられて、隣に座らされて、カメラの前で手首の角度を調整させられていた時……なんだか、自分がただのプラスチックのマネキンになったみたいな気がしていました。でも、あの日、高田さんがあの重い防音扉を蹴り破って入ってきた時……あの瞬間に、冷たい夜風が吹き込んできて、やっと息ができた気がしたんです」


 由紀の細い指先が、スウェットの袖口をきゅっと握りしめる。


「俺は、自分の歪んだ日常を取り戻したかっただけだ」


  仁はペットボトルをベンチの脇に置き、視線を前へと向けた。


「だが、お前があの時、翔太のPCにアリアのUSBを挿してくれなかったら、何も暴けなかった。……感謝してる」


 由紀は少しだけ目を丸くし、それから照れ隠しのように俯いて、スニーカーのつま先で地面の砂利を小さく弄った。


「高田さんは、これからどうするんですか? また、あの深夜の倉庫に戻るんですか?」

「とりあえず、今の職場のエリアマネージャーに、シフトを深夜から昼間に変えてもらうように掛け合ってみるつもりだ。夜はちゃんと寝て、朝に起きる。まずはそういう、当たり前の生活からやり直しだ。お前は?」

「私も、来学期から大学に復学しようと思っています。奨学金の手続きとか、実家との連絡とか、面倒なことが山積みですけど……。でも、もう他人のパーツとして時間を切り売りするのは、終わりにします」


 由紀の声には、以前のような冷え切った諦観はなかった。生身の人間としての、確かな体温がその言葉の端々に宿っている。


「高田さんも、お昼の仕事に変えたら、少しは眠れるようになるといいですね」 「家に、食わせなきゃいけないのが2匹いるからな。だらだら寝てる暇はない」


 仁の言葉に、由紀が怪訝そうに首を傾げた。


「2匹? 誰か同居人でもいるんですか?」

「野良猫を拾ったんだ。まだ手のひらサイズの、キジトラと茶トラの兄弟だ。拾った時は泥まみれで今にも死にそうだったが、今じゃ部屋中を走り回って、俺のスウェットの紐をちぎろうと必死になってる。おかげで、毎朝起こされる


 」 仁が少しだけ顔を顰めて言うと、由紀の目がパッと明るくなった。


「猫、飼ってるんですか? すごく可愛いんでしょうね。見たいです、写真とかありますか?」


 身を乗り出して尋ねてくる由紀に、仁はポケットの中の古い代替機を思い出し、ふと苦笑を浮かべた。 カメラのレンズというレンズを、光が1ミリも入らないように黒い絶縁テープでぐるぐる巻きにした、あの歪な端末。


「……いや、1枚もないんだ」


 仁はポケットから手を離し、少しだけ気まずそうに頭を掻いた。


「カメラのレンズ、全部テープで塞いじまってるからな。写真を撮る機能自体、今の俺のスマホにはないんだ」


 その言葉の意味を察したのだろう。由紀は一瞬だけハッとした表情を浮かべ、それから、あのアジトで見せていた冷たい擬態の微笑みとは全く違う、心からの明るい笑い声を上げた。


「あはは、何ですかそれ! せっかく可愛い猫がいるのに、1枚も写真がないなんて、高田さんらしくて極端すぎます」

「笑うな。こっちは真剣にアナログな生活を取り戻そうとしてるんだ」


 仁もつられて、口角が自然と上がっていた。


 由紀はひとしきり笑った後、スウェットの袖で目元を拭い、ベンチから立ち上がった。


「喉、渇きましたね。私、あそこの売店で冷たいものでも買ってきます。高田さんも、お茶のおかわりいりますか?」

「いや、俺も行くよ」


 仁はベンチの脇に置いた空のペットボトルを手に取り、腰を上げた。 由紀がスニーカーの紐を1度結び直し、歩道の方へと歩き出す。 仁はその少し後ろに並び、手の中のプラスチックボトルを、歩道の脇に設置されたリサイクル箱の丸い穴へと押し込んだ。 空のペットボトルが底に落ちる乾いた音が、1つだけ鳴った。

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