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第43話 圧倒的な敗北

 午後11時を少し回った頃。

 築40年の木造アパートの角部屋には、外を通る深夜の大型トラックの微かな振動だけが等間隔に響いていた。

 仁はいつものヨレた灰色のパーカーとスウェットに着替え、変色した畳の上に敷かれた万年床にあぐらをかいていた。数時間前まで身を包んでいた、なつみが手配した数十万円は下らないであろう濃紺のビスポーク・スーツは、汚れがつかないよう丁寧にハンガーに掛けられ、鴨居の淵に吊るされている。

 あの阿鼻叫喚の防音室での出来事が、まるで遠い別の国の出来事のように感じられた。


 足元から、カサカサという微かな音が聞こえる。

 キジトラのムギと茶トラのキナコだ。

 仁の帰宅が遅かったせいか、2匹は先ほどから落ち着きなく部屋の中を歩き回っている。特にキナコは、短い尻尾をピンと真っ直ぐに立てたまま、部屋の隅に置かれた段ボール箱と、仁の足元を何度も往復していた。


「どうした」


 仁が低い声で尋ねると、キナコはその場でピタリと止まり、ブルブルと小刻みに震え出した。そして、敷いてあったトイレシートから30センチほど離れたクッションフロアの境界線で、腰を落としたかと思うと、ジョーッと黄色い液体を漏らし始めた。


「あ」


 仁が声を漏らすと、キナコは自分が何をしたのか気づいたのか、ハッとした顔をして短い後ろ足をジタバタさせた。

 さらに、それを見たムギがなぜか慌てふためき、濡れてもいない何もない床を両方の前足でシャカシャカと猛烈な勢いで掻き始めた。本能的に「臭いを隠さなければ」と思ったのだろうが、完全に場所がズレている。空回りする小さな肉球が、床のビニールを虚しく擦る音だけが響いた。


 仁はため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。トイレットペーパーをカラカラと引き出し、黄色い水たまりを素早く吸い取っていく。消臭スプレーを吹きかけ、何度も丁寧に拭き上げた。

 アンモニアのツンとした臭いと、拭き取る手のひらに感じる床の冷たさ。

 それは決して「映える」ものではない、泥臭く、不恰好で、世話の焼ける現実だ。だが、この小さな命たちが生み出すノイズが、先ほどの防音室で感じた底知れない虚無感を、少しずつ中和していくのを感じた。


 粗相の片付けを終え、仁は再び万年床に腰を下ろし、ちゃぶ台の上の古い代替機を手に取った。

 画面をタップすると、通知のアイコンが限界を超えて赤い数字を吐き出していた。メッセージアプリを開くと、共犯者たちからの連絡が絶え間なく届いている。

 一番上はアリアからだ。


『システムの中枢は完全に焼却した。バックドアのログも消去済み。こちらへ繋がる痕跡は一切残っていない』


 短く、冷徹な報告。彼女の仕事の完璧さが窺える。仁は『助かった』とだけ返信した。

 次はのぞみ。


『お疲れ。最高の葬式だったね。警察とマルサがアジトに踏み込むの、少し離れたところから見届けたよ。あいつ、泣き叫びながらパトカーに乗せられていったわ』


 マイからもメッセージが来ている。


『ダミー会社の口座もすべて凍結された。裏金の証拠は当局の手の中よ。実習生たちも、これで少しは報われる』


 その下には、大塚由紀からの短いテキストもあった。


『無事に家に着きました。最後、少しだけ肩の荷が下りた気がします。ありがとうございました』


 そして、乙女。


『先輩! トレンド見ました!? やばいです、MINATOの炎上でSNS全体がお祭り騒ぎになってます! あと、先輩のスーツ姿、めっちゃバズってますよ!』


 仁はメッセージアプリを閉じ、ブラウザを開いた。

 検索窓に文字を打ち込むまでもない。SNSのトレンドは、一番上から下まで、すべてが一つの話題で完全に埋め尽くされていた。


『MINATO 炎上』

『ゴミ部屋配信』

『顔面合成 詐欺』

『MINATO 本物』


 タイムラインには、数時間前に終わったばかりの生配信の切り抜き動画が、無数のアカウントによって転載され、増殖を続けている。

 仁はその中の一つ、再生回数がすでに数十万を超えている動画のサムネイルをタップした。


 圧縮されたノイズ混じりの音声が、スピーカーから流れ出す。

 画面に映っているのは、倒れたリングライトの不気味な明滅と、床に散乱したコンビニ弁当のゴミ、そして壁の吸音材が剥がれ落ちた凄惨な四畳半の光景だ。

 その中央で、佐々木翔太が這いつくばっている。


『許して……俺が、俺が悪かった……!』


 翔太の裏返った悲鳴が、高価なマイクを通してクリアに拾われていた。彼は割れたバカラグラスの破片で手のひらを切り裂いていることにも気づかず、土下座をするように床に額を擦りつけている。


『今まで稼いだ金、全部やるから! だから、助けてくれ……俺の人生を終わらせないでくれ!』


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、画面外にいるであろう仁に向かって必死に命乞いを繰り返す。ケーブルに絡まった身体は思うように動かず、ただ嘔吐物と泥にまみれた床の上で無様にのたうち回っているだけだった。


 チャット欄の文字列が、猛烈な勢いで画面の右側を流れていく。


『詐欺師!』

『オンラインサロンの金返せ!』

『キモすぎ、マジで吐きそう』

『今までこんなおっさんに騙されてたのかよ』

『裏金で逮捕ってマジ?』


 15万人の賞賛と羨望は、瞬時に15万の刃へと反転し、画面の中の翔太を容赦なく滅多刺しにしていた。

 自分たちが信じていた「完璧な成功者」の実態が、このゴミだらけの密室で一人這いつくばる惨めな男だったという事実に対する、純粋な失望と怒り。

 翔太はカメラに向かって弁明することすら放棄し、ただひたすらに見苦しい命乞いを続けていた。


 その直後だった。

 画面の端から、一人の男がゆっくりとフレームインしてきた。

 動画を観ている仁自身だ。

 カメラのオートフォーカスが微かな駆動音を立て、新たに現れた被写体の顔にピタリと焦点を合わせる。


『……っ』


 その瞬間、荒れ狂っていたチャット欄のコメントが、一瞬だけ不自然に途切れた。

 画面の中に立つ男。

 濃紺のスーツが、鍛え抜かれた厚い胸板と広い肩幅を完璧に包み込んでいる。重心の定まった、一切のブレがない立ち姿。

 カメラを見下ろすその顔には、無精髭が整えられ、右顎には歪な三日月型の傷跡がはっきりと刻まれていた。

 視聴者が何百回、何千回と見てきた『MINATO』の顔のパーツ。

 だが、そこから発せられる「圧」は、これまでの配信とは次元が違った。


 数秒の空白の後、チャット欄が再び爆発した。


『は!? こっちが本物!?』

『顔の傷、MINATOのやつじゃん!』

『オーラやばすぎだろ』

『合成じゃない、生身だぞこれ』

『今までこの人の顔を無断で使ってたってこと? ホラーじゃん』

『じゃあ、床で泣いてるおっさんは何なんだよww』


 カメラの前の仁は、一言も発していない。ただ、這いつくばる翔太を冷徹に見下ろしているだけだ。

 怒りも、嘲笑もない。ただ路傍の石を見るような、圧倒的な無関心。

 翔太は、その視線に射すくめられていた。

 口をパクパクと動かし、何か言葉を絞り出そうとしたが、声帯が痙攣して音にならない。自分の目の前に立つ男が放つ、抗いようのない存在感。自分がどれだけ高価な機材を揃え、どれだけ高度な技術を駆使しても、決して手に入れることができなかった本物の熱量。

 動画のコメント欄は、完全に仁への驚嘆と、翔太への嘲笑で埋め尽くされていた。


「ひっ……ぁ……」


 翔太の喉から、ひきつった悲鳴が漏れた。

 彼は完全に腰を抜かし、泥にまみれた床に崩れ落ちた。両手で頭を抱え込み、ただガタガタと震えることしかできない。

 画面の中には、圧倒的な生身の存在感を放つ本物の男と、その足元でゴミのように丸まる惨めな偽物の姿だけが残された。


 動画は、そこからさらに炎上するチャット欄を数秒映し出した後、唐突に終了した。

 仁は息を吐き出し、代替機の画面を暗転させた。

 部屋には再び、冷蔵庫の低いモーター音と、秋の夜風が網戸を揺らす音だけが戻ってきた。

 見えない敵に怯え、自分のアイデンティティが消えていく恐怖に震えていた日々は終わった。


 足元を見ると、粗相をして少し反省したのか、キナコがムギの後ろに隠れるようにして、仁の足首にそっと小さな頭を擦り付けていた。

 仁はその小さな頭を、ゴツゴツとした大きな手でゆっくりと撫でた。

 喉をゴロゴロと鳴らす微かな振動が、手のひらから伝わってくる。


「……寝るか」


 仁は短く呟き、万年床の上に横たわった。

 明日もまた、物流センターでの深夜シフトが待っている。

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