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第42話 現実との対峙

 午後9時15分。


 ひしゃげた防音扉の向こう側、カビ臭い共用廊下へ足を踏み出した仁は、一度だけ背後を振り返った。

 室内の空気は、ひどく澱んでいた。倒れた巨大なリングライトの円形のLEDがチカチカと不規則な明滅を繰り返し、床に散乱したバカラグラスの破片を鋭利な角度から照らし出している。机の下に押し込まれた何台ものPCケースからは、限界駆動する排熱ファンの唸り声と共に、焦げたようなプラスチックの匂いが吐き出されていた。それに、食べ残しのモダン焼きが放つ酸っぱいソースの臭いと、極度の恐怖から翔太が漏らした汗と皮脂の臭いが混ざり合い、呼吸をするだけで胃がせり上がってくるような悪臭が密室に充満している。


 その阿鼻叫喚の中央で、佐々木翔太がうわ言のように命乞いを繰り返しながら、己の吐瀉物と泥にまみれて這いつくばっていた。


「許して……俺が、俺が悪かった……今まで稼いだ金、全部やるから……助けて……」


 焦点の合わない目で虚空を彷徨い、ヒューヒューと喉を鳴らして痙攣する30代の男。彼の震える手は無防備に床を掻きむしり、散乱したガラス片が指先や手のひらに深く食い込んでいるが、本人はその痛みにすら気づいていない。スウェットの膝部分は彼自身の嘔吐物で汚れ、袖口に赤黒い血を滲ませながら、ただひたすらに意味を成さない哀願の言葉を垂れ流し続けていた。額から流れ落ちた脂汗が、分厚い黒縁眼鏡のレンズを白く曇らせている。


 デスクの上の高性能な一眼レフカメラと配信用のメインPCは、重苦しいモーター音を立てながら電源が入ったままだ。

 偽装が完全に剥がれた無様な素顔も、壁一面に隙間なく貼られたストーカー行為の証拠写真も、床の隅に転がる尿の入った数本のペットボトルも、すべてが現在進行形で全世界のネットワークへと鮮明な画質で垂れ流されている。

 機材デスクの上に固定されたタブレット端末からは、異常な速度でスクロールするチャット欄の光が漏れていた。つい先ほどまで彼を崇拝していたコメント群は、事実が暴かれた瞬間に最も残酷な嘲笑と罵倒へと反転し、暴力的な文字の群れとなって翔太の網膜を突き刺し続けているはずだ。


 だが、仁は配信を自らの手で止めるつもりはなかった。あいつが他人の人生を養分にして作り上げたシステムだ。最後まで、あいつ自身の首を絞めるために稼働し続ければいい。


 仁はそれ以上言葉をかけることなく、冷徹に背を向けた。

 横に立つ黒いドレス姿の由紀もまた、床で蠢くかつての太客に冷ややかな一瞥をくれただけで、無言のまま仁の後に続いた。

 2人の足音が、錆びた鉄階段を降りていく。

 カン、カンという乾いた音が、夜の住宅街に吸い込まれて消えた。


 路地裏を抜け、国道沿いに出る。

 絶え間なく行き交う大型トラックの重低音がアスファルトを激しく揺らし、排気ガスの混じった生温かい夜風が、2人の間を吹き抜けていった。遠くの交差点から聞こえるパトカーのサイレンの音が、少しずつ防音室のあるアパートの方向へと近づいていくのが分かる。防音室の異常な熱気と悪臭から解放され、肺の中にようやく正常な空気が入り込んできた。


「……終わりましたね」


 少し後ろを歩いていた由紀が、ぽつりと呟いた。その声には、長年抱え込んでいた重い荷物を下ろしたような、微かな安堵が混じっていた。

 仁は立ち止まり、ダークグレーのスーツの内ポケットからひび割れた代替機を取り出した。

 画面を開くと、情報屋ののぞみからメッセージが入っている。


『マルサと警察、動いたよ。翔太のマンションとダミー会社に一斉ガサ入れ入ったってさ。アジトの方にも近隣の住人から通報行きまくってるから、そろそろパトカー着く頃じゃない?』


 続けて、マイからのメッセージ。


『海外口座にプールされていた裏金、すべて凍結させた。被害に遭った実習生たちには、弁護士を通じてきっちり全額返還させる。あいつには一銭も残らないわ』


 さらに、アリアからの短い報告。


『バックドアからのペイロード展開、完了。サーバー内のデータ、裏帳簿のバックアップも含めて完全に焼却した』


 仁はそれぞれに『了解した』とだけ返し、SNSのアプリを開いた。

 MINATOのアカウント。

 生配信の枠は、すでにコントロールを失い、同時視聴者数は10万人を優に超えていた。

 そして、アカウントのトップページに表示されているフォロワーの数字。

 150,000という絶対的な権力を誇っていた数字が、目まぐるしく回転し、減少を続けている。

 画面を下にスワイプして更新するたびに、数千単位で数字が削り取られていく。120,000、105,000、98,000。

 液晶画面の上で無機質な数字の羅列が目まぐるしく回転し、減少のスピードはさらに加速していく。数字の下で猛烈な勢いで流れ続けるチャット欄は、「キモい」「騙された」「犯罪者」といった短い単語の羅列へと変貌し、もはや誰の目にも追えない速度で自己増殖を繰り返している。


 仁は無表情のままその数字の激流を数秒間見つめ、画面を暗転させた。冷え切った代替機をスーツの内ポケットに突っ込むと、上質なウールの生地越しに硬いプラスチックの感触だけが肋骨の横に残った。


「私のデータも、消えたんですか」


 由紀が、少しだけ首を傾げて仁を見上げた。


「ああ。アリアが根こそぎ焼いた。お前がレンタル彼女として隣に座っていた記録も、SNSに上げられていた画像や動画のオリジナルデータも、あいつのサーバーには1バイトも残っていない」


 由紀は小さく息を吐き出し、自分の両手を顔の前にかざして、じっと見つめた。

 翔太の配信で完璧な彼女のパーツとして使われていた、ボルドー色のネイル。


「……不思議ですね。何時間も作り笑いをして、あんな不潔な部屋で隣に座って……それでも、口座に振り込まれる何万円というお金を見れば、自分が価値のある人間になれたような気がしていました。私はただのパーツでいい、そう割り切っているつもりでした。でも」


 由紀は両手を下ろし、国道を走り去るトラックの赤いテールランプを見つめた。


「グリーンバックで合成されたあのフェイクの夜景、すごく綺麗だったけど、息が詰まるくらい寒かったんです。排気ガス臭いこっちの夜風の方が、よっぽど気持ちいい」

「……」

「あの部屋が崩壊していくのを目の前で見て、あなたがあの人を完全にねじ伏せるのを見て……なんだか、すごく目が覚めました」


 彼女の、常にどこか遠くの虚空を見つめていた瞳の焦点が、今は真っ直ぐに仁の顔を捉えている。長年張り付いていた冷たい作り笑いの痕跡が消え、そこには年齢相応の生々しい疲労と、確かな安堵の色が浮かんでいた。


「ただの、空っぽな男だったんですね。佐々木翔太も、彼が作っていた世界も」

「お前も、な」


 仁の容赦のない言葉に、由紀は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに自嘲するように短く笑った。


「ええ。私もです。……ありがとうございました。これで、少しだけマシな現実に帰れる気がします」


 由紀は深く一礼し、踵を返した。

 アスファルトを叩く彼女のパンプスのヒールの音が、等間隔のリズムを刻みながら夜の雑踏へと遠ざかっていく。仁は一度も振り返ることなく、自分もまた、帰るべき場所へと向かって歩き出した。


 午後10時30分。


 仁は、京王線沿線の築40年を超える木造アパートの前に立っていた。

 古びた鉄の扉を押し開け、四畳半の部屋に足を踏み入れる。蝶番が軋む音に反応したのか、カビと古本の匂いに混じって、獣の微かな体臭が足元からフワリと立ち上ってきた。


「ミャッ」


 暗闇の中から、2つの小さな影が弾かれたように駆け寄ってくる。

 キジトラのムギと、茶トラのキナコだ。

 仁が壁のスイッチを押して安っぽい蛍光灯を点けると、2匹は仁の革靴の先に短い前足をかけ、必死に背伸びをして爪を立てていた。腹を空かせているのか、ミィミィと細く高い声で鳴き続けている。


 仁はスーツの上着を脱いで壁のフックにかけ、ネクタイを緩めながら台所へ向かった。

 小さな冷蔵庫を開け、スーパーで買っておいた離乳食のパウチを取り出す。ツナと鶏肉をペースト状にすり潰したものだ。

 銀色のパッケージの封を切ると、独特の濃厚な匂いが狭い部屋に広がった。

 2匹の子猫は仁の足元にまとわりつき、八の字に動いて仁が歩くのを邪魔する。仁の足首に毛玉のような柔らかい感触が何度もぶつかってくる。

 仁は床に直にあぐらをかき、100円均一で買った浅いプラスチックの皿にペーストを絞り出した。


 皿を床に置いた瞬間、ムギとキナコは我先にと顔を突っ込み、一心不乱にペーストを舐め始めた。

 キナコが勢い余ってムギの分まで横取りしようとすると、ムギが短い前足でキナコの頭をペシッと叩いて牽制する。

 クチャクチャという小さな咀嚼音が、静まり返った部屋に響き渡る。

 ピンク色の短い舌が高速で動き、小さな腹が呼吸と嚥下に合わせて激しく波打っている。

 仁は手のひらを伸ばし、食事に夢中になっているムギの背中をそっと撫でた。


 背骨の細い突起が、薄い皮膚と柔らかな産毛越しに指の腹を擦っていく。ペーストを飲み込むたびに喉から背中にかけての微小な筋肉が力強く伸縮し、仁の手のひら全体に不規則な振動となって伝わってきた。ムギは食事を邪魔されたことに抗議するように短く鼻を鳴らすと、仁の指先にザラザラとした舌を這わせ、そのまま極小の犬歯を立てて甘噛みをした。

 ちくりとした微かな痛みと、じんわりとした温かい湿り気。

 仁は噛み付かれた指を引くことなく、2匹がプラスチック皿の底に残ったペーストの薄い膜まで綺麗に舐め尽くし、最後の一滴をめぐって再び短い前足でポコポコと叩き合いを始めるのを、ただ黙って見つめ続けていた。

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