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第41話 フィルターの崩壊

 数時間前。小山なつみの手によって完璧なスーツ姿に仕立て上げられ、決戦の地へ向かうためにアパートを出る直前のことだ。

 濃紺のビスポーク・スーツの生地が、身体を動かすたびに心地よい摩擦音を立てる。仁は薄暗い四畳半の台所に立ち、ドラッグストアで買っておいた子猫用の離乳食のパウチを手に取った。これまでは粉ミルクをお湯で溶かし、小さなスポイトを使って数時間おきに口へ含ませていたが、細かい歯も生え揃い、そろそろ固形物に移行する時期だった。

 銀色のパッケージの封を切ると、ツナと鶏肉をペースト状にすり潰した独特の濃厚な匂いが、カビ臭い室内にふわりと広がった。

 その瞬間、部屋の隅に置かれた段ボール箱の中で丸まっていた2つの小さな毛玉が、弾かれたように顔を上げた。

 キジトラのムギと茶トラのキナコが、短い鼻をヒクヒクとせわしなく動かしながら、不格好な足取りで仁の足元へと猛突進してくる。

 仁が100円均一の浅いプラスチック皿にペーストを絞り出すと、2匹は皿の縁に前足をかけ、最初は戸惑ったように匂いを嗅いでいた。ミルクとは違う未知の食べ物に対する、本能的な警戒。

 だが、好奇心に勝てなかったムギが、恐る恐るピンク色の小さな舌を伸ばし、ペーストの端をひと舐めした。

 次の瞬間、ムギのビー玉のような瞳がカッと見開かれた。

 そこからは、野生の獣そのものだった。ムギは皿の中に顔を突っ込み、小さな喉をグルグルと鳴らしながら、夢中でペーストに食らいついた。クチャクチャと音を立てて必死に飲み込むその姿を見て、キナコも負けじと皿の反対側から顔をねじ込む。

 2匹は狭い皿の上で互いの頭を押し合いながら、鼻の頭やヒゲを茶色いペーストだらけにして、途切れることなく食べ続けた。

 時折、むせ返りそうになりながらも、決して皿から口を離そうとしない。生存に対する純粋で貪欲な執着が、その小さな身体全体から発散されていた。

 仁はしゃがみ込み、その小さな背中を指先でそっと撫でた。

 毛皮越しに伝わってくる、早鐘のような心拍と、体温。細胞の隅々にまで栄養を行き渡らせ、明日も生き延びようとする圧倒的な熱量が、指先から直接皮膚の下へと流れ込んでくる。かつての自分なら、這いつくばって生きるだけの命に目を背けていたかもしれない。だが今は、この泥臭い命の燃焼だけが、自分を現実の重力に繋ぎ止める確かな錨だった。

 仁は指先に残る小さな脈打つ感覚を無言で確かめると、ゆっくりと立ち上がった。皿の中のペーストと格闘し続ける2匹に一瞥をくれ、静かにアパートの鉄扉を閉めた。


★★★★★★★★★★★


 現在。午後9時数分。

 ひしゃげた防音扉の向こう側に広がる佐々木翔太のアジトは、モダン焼きの焦げたソースの匂い、エナジードリンクの甘ったるい香料、そして極度のストレスから分泌された酸っぱい体臭が混ざり合い、息が詰まるような悪臭に満たされていた。

 仁の足の裏には、先ほど踏み砕いたスマートフォンの液晶ガラスの硬い感触が、まだ生々しく残っている。粉々になったプラスチックとガラスの残骸の上で、翔太は腰を抜かしたまま、ひきつった呼吸を繰り返していた。

 30代の成人男性とは到底思えないほど、その肉体は軽く、薄っぺらかった。床に擦れるグレーのスウェットの生地は安っぽく伸びきり、襟元からは何日も風呂に入っていない不潔な臭いが漂ってくる。仁は一切の表情を崩さず、恐怖で極限まで見開かれた翔太の濁った瞳を冷徹に見下ろした。

 アパートで触れたあの小さな命の躍動に比べれば、目の前で震えているこの肉の塊は、あまりにも空っぽで、脆かった。


 翔太の背後に設置された配信用モニターからは、すでに耳障りなエラー音がけたたましく鳴り響いている。

 サフィヤが送り込んだノイズによって、ディープフェイクのフィルターは完全に消し飛んでいた。15万人が注視する画面には、今この瞬間も、蛍光灯の光を浴びて脂汗でテカる翔太の惨めな素顔と、ゴミ袋が散乱する不潔な部屋の全貌が容赦なく垂れ流され続けている。

 画面の右端では、視聴者からのコメントが処理速度の限界を超えた猛スピードでスクロールを続けていた。個別の文字を読み取ることすら不可能な文字の奔流。それは、騙されていたことに気づいた15万人の怒りと嘲笑が圧縮された、物理的な暴力そのものだった。


「あ、あああぁぁッ!!」


 背後のモニターに映る凄惨な現実を直視した翔太の喉から、声にならない絶叫が迸った。彼は全身を痙攣させるようにして床を這いずり、狂ったようにPCのデスクへと向かった。


 同じ頃。

 都内の薄暗い自室で、サフィヤ・ラムリはデュアルモニターの青白い光を浴びながら、黒いマウスを握りしめていた。

 右側の画面には、赤いエラーメッセージを無数に吐き出し続けている画像処理プロセスの残骸が表示されている。AIが必死に顔のトラッキングを再開しようと試みているが、サフィヤが継続的に流し込んでいるノイズパケットがそれを一切許さない。

 見苦しく足掻き続けるプログラムの残骸を一瞥し、サフィヤは短く息を吐いた。

 彼女はキーボードのホームポジションに指を置き、コマンドプロンプトに新たな文字列を打ち込む。トラッキングの再起動プロセスそのものを、OSの深層から完全に消去するコマンドだ。

 一切の躊躇なくエンターキーを叩き込むと、画面上のエラー表示すら消滅し、プロセスは完全に死滅した。

 同時に、左側の画面にアリアからの短いテキストがポップアップする。


『OBSの配信停止ボタンをロックした。物理的に電源を引き抜かない限り、配信は切れない』


 翔太の逃げ道は、デジタル上から完全に塞がれた。

 サフィヤは短く頷き、デュアルモニターの電源スイッチを無言で落とした。自室は深い暗闇に沈み、彼女の仕事は完全に終わった。


 防音室では、翔太の悲痛な叫び声が響き渡っていた。


「切れない! なんでだよ、切れろッ!」


 デスクにすがりついた翔太が、マウスを狂ったように連打している。

 画面上の『配信終了』ボタンを何度クリックしても、カーソルが虚しく空回りするだけでシステムは一切反応しない。翔太はデスクの下に潜り込み、電源タップのコードを力任せに引き抜こうとした。だが、大量の機材のケーブルが蜘蛛の巣のように複雑に絡み合っており、どれがPCの主電源なのか判別できない。汗で滑る指先が、虚しくプラスチックの束を掻きむしる。


「見ないでくれ! 違う、これは俺じゃない!」


 パニックに陥った翔太は、今度は直接カメラのレンズを手で塞ごうとデスクの下から腕を伸ばした。だが、極度の焦りで震える指先が空回りし、デスクから垂れ下がっていたマイクの太いケーブルに腕を引っ掛けた。

 ガシャァンッ。

 デスクの端に置かれていたバカラのグラスが床に落下し、粉々に砕け散った。

 さらに、バランスを崩した翔太の肘が、彼を美しく照らすために設置されていた巨大なリングライトのスタンドに激突する。ぐらりと傾いたライトが、鈍い音を立てて万年床の上に倒れ込んだ。

 完璧な光源が失われ、部屋の備え付けの安っぽい蛍光灯の光だけが、翔太の青白い肌の毛穴や、長年手入れされていないシミを容赦なく浮き彫りにする。


「ああっ、痛っ!」


 翔太は割れたガラスの破片の上に膝をつき、手のひらから血を流しながら、それでもカメラに向かって泣き喚き続けた。高性能なマイクは、彼の裏返った惨めな声と、鼻水を垂らした見苦しい顔を、15万人の前へ容赦なく垂れ流し続けている。


 仁は、ガラスの破片の中で機材にすがりついて泣き叫ぶ男の背中を、静かに見据えた。

 怒りすら湧かない。かつてグラウンドの金網越しに自分を妬ましく見つめていたあの同級生は、自ら作り上げた虚構の重みに耐えきれず、完全に自壊していた。

 翔太がビクッと肩を震わせ、血走った目で仁を振り返る。涙と鼻水、そして脂汗にまみれたその顔は、極度のパニックで見る影もなく引きつっていた。


「……金だ」


 翔太の口から飛び出したのは、すがりつくような哀願だった。彼は床に這いつくばったまま、血の滲む手を仁の足元へ伸ばす。


「金ならある! 今まで稼いだ金、半分……いや、全部やる! 海外の口座に数千万あるんだ! だから、頼む、今すぐこいつらを止めてくれ!」


 震える指先がスラックスの裾を掴もうとした瞬間、仁は無表情のまま、その手を避けるように軽く半歩後ろへ下がった。


「もう遅い」


 腹の底から響く仁の低い声が、防音室の淀んだ空気を震わせる。


「その口座は、すでに凍結されてる」

「……え?」


 宙を泳いでいた翔太の手が、ピタリと止まった。


「マイが今頃、お前が名義貸しに使っていた実習生たち全員を連れて、警察の窓口に並んでいるはずだ。お前のオンラインサロンの裏金ルートも、ダミー会社の取引記録も、すべて証拠と一緒に提出されている」

「な、に……?」

「お前が縋り付いていた15万人も、仮想通貨の隠し財産も、もうどこにも存在しない」


 翔太の口が半開きになり、ヒュー、ヒューと気道が引きつる音だけが漏れる。絶対的な安全地帯だと思っていた全ての逃げ道が絶たれた現実を脳が処理しきれず、完全にショートした状態だった。

 仁はそれ以上、床の上の無惨な男に言葉をかけることはなかった。部屋の隅に退避し、壁を背にして翔太の転落を冷ややかな目で見届けていた大塚由紀の方へ視線を向ける。


「行くぞ」


 短い声かけに、由紀は無言で小さく頷いた。彼女はハンドバッグを手に取ると、床でガラスの破片にまみれてもがく翔太を一瞥すらせず、仁の横を通り抜けていった。

 仁は靴の裏でガラスの破片を静かに踏み砕き、ひしゃげた防音扉の向こう側へと歩き出す。

 背後からは、15万人の嘲笑を浴びながら泣き喚く、一人の惨めな男の絶叫だけがいつまでも響いていた。

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