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第40話 突入

 午後九時二分。

 主の帰りを待つ築四十年越えの四畳半アパートは、外を通るトラックの微かな振動だけを拾い、ひっそりと静まり返っていた。

 だが、ちゃぶ台の脚のそばだけは、静寂とは無縁の小さな熱を帯びていた。

 キジトラのムギと茶トラのキナコが、床に転がった丸いアルミホイルの玉を挟んで、約三十センチの距離で睨み合っている。両者とも姿勢を極端に低くし、耳を伏せ、黒目を限界まで見開いた臨戦態勢だ。


 先に動いたのはキナコだった。短い後ろ足を小刻みにバタつかせて床を蹴り、アルミの玉を奪取すべく低い軌道で飛びかかる。

 同時に、それを読んでいたムギも正面から跳躍した。

 空中で二つの小さな毛玉が交差し、互いに繰り出した右の前足が、顔面ではなく肉球同士でパチン、と乾いた音を立ててぶつかり合った。奇跡的なタイミングで決まった、ハイタッチのような見事なクロスカウンターだった。

 その反動で弾き返された二匹は、空中で体勢を崩す。キナコはそばにあった座布団の上にボフッと柔らかく墜落して無傷だったが、ムギは勢い余って転がり、ゴミ箱の横に置いてあった空のペットボトルに頭から突っ込んだ。

 カランッ、と軽いプラスチックの音が響く。

 キナコは座布団の上で首を傾げ、ペットボトルと格闘して短い後ろ足をジタバタさせている兄弟の姿を、不思議そうに見つめていた。

 淀んだ空気の中で、二つの小さな命だけが純粋な本能のままに躍動し、平和な時間を消費している。


 同じ時刻。

 柴崎駅近くの木造アパートの一室では、作られた虚構が物理的な質量を伴って崩壊していく真っ最中だった。


「ひゅっ……あ、あ……」


 過呼吸に陥った佐々木翔太の喉から、笛の鳴るような引きつった音が漏れ続けている。

 部屋の入り口では、引きちぎられた分厚い防音扉がゴミだらけのコンクリート床に横たわり、舞い上がった粉塵がリングライトの強烈な光の中で白く乱舞していた。

 三脚に固定された高性能な一眼レフカメラは、黒いドレス姿の由紀の手によって無慈悲にも大きく横へ旋回させられている。

 レンズが捉えているのは、十五万人の視聴者が期待していた「タワーマンションの高級ラウンジ」ではない。


 剥がれかけた壁の黒い吸音スポンジ。茶色いシミのついた万年床。部屋の隅で腐臭を放つゴミ袋の山と、乱雑に積み上げられたエナジードリンクの空き缶。そしてデスクの端に置かれた、ソースがべったりと付着したコンビニのモダン焼きの容器。

 オートフォーカスが微かな駆動音を立て、それらの惨状を極めて高画質に、残酷なほど鮮明に配信画面へと送り出し続けている。

 モニターの右端で、チャット欄が処理限界を超えるほどの速度で滝のように流れ落ちていた。


『え、何これ』

『ゴミ部屋じゃんwww』

『ドッキリ? 放送事故?』

『てか誰か入ってきた音しなかった?』

『MINATOの正体ただの引きこもりおじさんってマジ?』

『金返せ詐欺師』

『警察呼べよ』


 無機質な文字の羅列が、翔太の築き上げた城を秒単位で解体していく。

 翔太は床に散乱したゴミの上に這いつくばり、両手で顔を覆いながら震えていた。レンズの前に飛び出してカメラを叩き壊せば、配信は止まる。頭では分かっているのに、極度のパニックで手足が完全に麻痺し、指先ひとつ動かせない。

 その時、ひしゃげたドア枠を踏み越えて、重い足音が部屋の中に入ってきた。


 コツ、コツ。


 硬い革靴のヒールが、コンクリートの床に散らばったプラスチックの破片を踏み砕く。

 翔太は顔を覆っていた指の隙間から、その侵入者を見上げた。

 薄汚れた共用廊下の光を背にして立つ男。

 上質なウールの生地が動くたびに擦れる、微かな、しかし確かな音。かつてアスリートとして鍛え抜かれた骨格に、完璧に採寸されたダークスーツが吸い付くように馴染んでいる。

 高田仁。

 翔太の網膜に焼き付いている、深夜の物流倉庫で死んだような目をしていた底辺労働者の姿は、そこには微塵もなかった。

 冷酷なまでに研ぎ澄まされた視線。微動だにしない肩のライン。ただそこに立っているだけで、部屋の空気を丸ごと支配し、他者の呼吸を圧迫するような絶対的な質量の差。

 高校時代、グラウンドの金網越しに泥まみれになりながらも周囲を惹きつけていた、あの絶対に手の届かない「強者」の姿が、完全にフラッシュバックする。


「た、たか、だ……?」


 翔太の口から、摩擦音のような掠れた声が漏れた。

 仁は何も答えない。

 ただ、冷たい視線で部屋の内部を一瞥した。ゴミの山、食べかけの弁当、無様に這いつくばる男。そして、それらを克明に映し出し続けているカメラのレンズ。

 部屋の隅に退避していた由紀が、仁と視線を交わし、無言で小さく頷いた。彼女の仕事は終わった。


「な、なんで……お前が、ここに……」


 翔太は尻餅をついたまま、後ずさろうとして背中をデスクの脚にぶつけた。ガタッとモニターが揺れる。


「不法、侵入だぞ……! 警察、警察呼ぶからな!」


 虚勢を張ろうと声を絞り出すが、裏返った声帯は惨めなほど震えていた。

 仁はゆっくりと、翔太に向かって歩み寄った。


「呼べよ」


 低く、腹の底に響く声。


「どうせもう、向かってる」

「……え?」

「お前のオンラインサロンの裏金ルートと、ダミー会社の口座記録。全部マルサと警察に回った。今頃、そっちのチャイムも鳴ってるはずだ」


 翔太の顔から、完全に血の気が引いた。分厚い黒縁眼鏡の奥の目が、信じられないものを見るように見開かれる。


「嘘だ……嘘だ! 俺はMINATOだぞ! 十五万人のフォロワーがいるんだ! お前みたいな底辺が、俺をどうにかできるわけが……」

「まだ分からないのか」


 仁は立ち止まり、翔太を冷徹に見下ろした。


「お前の城は、もう燃え落ちてるんだよ」


 仁は無造作に手を伸ばし、床で震える翔太のヨレたスウェットの襟首を鷲掴みにした。


「ひっ……!」


 そのまま強引に引きずり起こす。三十代の成人男性の体重を、片腕の力だけで軽々と引き上げる。首が締まり、翔太は短い悲鳴を上げた。


「やめろ、放せッ……!」


 仁は抵抗する翔太の身体を、三脚に固定されたカメラの正面へと力任せに引きずり出した。

 リングライトの強烈な光が、翔太の素顔を容赦なく照らし出す。手入れされていない脂ぎった肌、恐怖で歪む口元、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔面が、十五万人の視聴者に向かって大写しになった。

 モニターのチャット欄が、爆発したように加速する。


『うわ、素顔キツすぎ』

『これがMINATO? 嘘だろ』

『オッサンじゃん!』

『加工のレベル超えてるだろ詐欺じゃん』


 怒濤のように押し寄せる文字の暴力が、翔太の網膜を突き刺す。


「違う……俺は、俺じゃない……これはAIの乗っ取りで……」


 翔太はカメラに向かって必死に首を振り、無意味な弁解を口走ろうとした。

 仁は翔太の襟首をさらに強く締め上げ、顔を近づけた。


「俺の顔を盗んで、俺の生活を覗き見て、このゴミ溜めから何を見ていた」


 低く、押し殺したような声が、翔太の耳元に落ちる。


「……っ!」

「お前が作り上げた完璧な世界の、これが答えだ。しっかり見ろ」


 翔太は息を詰まらせ、両手で仁の腕を掴んで剥がそうとしたが、その万力のような力には全く敵わなかった。


「たか、だ……やめ……」


 命乞いのような、掠れた声。

 かつての同級生を見下ろす仁の表情に、怒りや高揚は一切なかった。あるのはただ、路傍の石を見るような冷え切った無関心だけだ。


 部屋の外、遠くの国道から、微かにサイレンの音が聞こえ始めた。ウゥー、という不吉なサイレンの音が、夜の空気を切り裂きながら少しずつアパートの方角へと近づいてくる。

 翔太はその音を聞き、限界まで見開かれていた両目からポロポロと涙をこぼし始めた。

 口を半開きにしたまま、ただ震えることしかできない。


 仁は翔太からパッと手を離した。

 支えを失った翔太は、糸が切れた人形のように再びゴミだらけの床に崩れ落ちる。

 仁は落ちていたスマートフォン――翔太が配信の管理に使っていた端末を靴の裏で踏み砕き、振り返ることなく、ひしゃげたドアの方へと歩き出した。

 カメラのレンズは回り続け、床に這いつくばって嗚咽を漏らす男の姿を、容赦なくネットの海へ垂れ流し続けていた。

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