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第39話 生配信スタート

 午後9時1分すぎ。

 コンクリートの床を揺るがす凄まじい破壊音が防音室に響き渡った。


「……え?」


 防音室の澱んだ空気を切り裂くように、佐々木翔太の喉から間の抜けた声が漏れる。

 部屋の入り口に設置されていた分厚い防音扉が、金属の断末魔のような甲高い悲鳴を上げて蝶番ごと引きちぎられていた。長年アパートの空間を隔絶してきた何十キロもある重い鉄の塊が、ゴミだらけのコンクリート床に激突する。ドガンッ、という腹の底に直接響く重量音が、室内の空気を強烈に圧縮して弾けさせ、翔太の鼓膜をビリビリと震わせた。引きちぎられた金属片が床を跳ね、壁の吸音スポンジに突き刺さる。

 舞い上がった微細な粉塵と、カビと泥の入り混じった外の冷たい夜風が、密閉されていた防音室に一気に流れ込んでくる。ひしゃげたドア枠の向こう側、共用廊下の薄汚れた蛍光灯の光を背にして、一人の男が立っていた。

 高田仁。

 ダークネイビーのスーツを身に纏ったその男は、一切の感情を削ぎ落とした冷酷な瞳で、部屋の奥にいる翔太を真っ直ぐに見据えていた。

 肺が痙攣し、酸素が全く入ってこない

 なぜ、ここに高田がいる。

 モニターの向こう側で、深夜の物流倉庫で死んだような目をし、安アパートの万年床で惨めにすり減っていくはずの底辺の男が。俺が安全な密室から見下ろし、その人生のパーツを好きなように弄り回していたはずの無能な素材が。

 どうやってこの住所を割り出したのか。どうやってこの物理的な城の分厚い鉄扉を、たった一撃で破壊したのか。


「来るな……!」


 翔太はキャスター付きのゲーミングチェアから転げ落ちそうになりながら、両足で床を激しく蹴り、機材の要塞に背中を押し付けた。背中に当たった無数のケーブル類が束になって崩れ落ち、デスクの上の空きペットボトルが床に転がる。


「ここは俺の部屋だ! 出て行け! 配信中なんだぞ! 15万人が見てるんだ!」


 マイクの指向性から完全に外れた翔太の声は、エフェクトをかけられることもなく、ひどく甲高く、裏返った素声として部屋に反響した。

 仁は何も答えない。ただ無言のまま、上質な革靴の底でコンクリートの床を踏みしめ、部屋の中へと静かに一歩を踏み入れた。足元に散乱していたエナジードリンクの空き缶が、硬いソールに無慈悲に踏み潰されてベキッと鈍い音を立てる。

 その一歩ごとの物理的な重みと、本物の男が放つ圧倒的な生身のプレッシャーの前に、翔太の呼吸が浅く引きつった。かつての油臭いパーカーを着た素材の姿は微塵もない。高校時代、泥まみれになりながらグラウンドの中心で笑っていた、あの眩しすぎる高田仁が、そのままの姿で現実の質量を持って迫ってくる。


「や、やめろ……俺はMINATOだぞ……成功者なんだ……お前なんかとは……!」


 翔太は震える手で机の上のキーボードにすがりつき、逃げるようにメインモニターへと視線を向けた。

 俺には15万人のフォロワーがいる。俺を崇拝し、俺の言葉に熱狂する信者たち。彼らがいれば、俺はこの安全なデジタル空間の中で神であり続けられる。

 だが、モニターに目を向けた瞬間、翔太の心臓は完全に凍りついた。

 画面の端、OBSの制御パネルに、見慣れない血のような赤色のエラーコードが次々とポップアップしていた。それは数個から数十個、数百個へと増殖し、画面の大部分を瞬く間に埋め尽くしていく。


「嘘だろ……なんだこれ……」


 翔太は狂ったようにキーボードを叩いた。爪が割れるほどの力でショートカットキーを押し込み、バックアップを起動し、回線を遮断しようとする。エンターキーを何度も叩きつけ、マウスを激しくクリックする。カチャカチャという乾いたプラスチックの音が防音室に虚しく響き渡るが、カーソルは画面の隅に張り付いたままピクリとも動かなかった。一切の入力を受け付けない。


「あああああッ!」


 メインモニターに映し出されたプレビュー画面を見て、翔太は絶叫した。

 今まで自分の表情筋に合わせて寸分違わず動いていた完璧なイケメンの顔に、チカチカと不気味なブロックノイズが走り始めている。

 画面の中の顔が、右半分だけズルリと溶け落ちたように大きく歪む。デジタルの皮膜が破れ、ポリゴンモデルのマッピングが致命的にズレていく。

 洗練された鼻筋の下から、不健康に削げ落ちた翔太自身の頬が露出し、分厚い黒縁眼鏡のフレームがノイズと共に激しく点滅する。口が動くタイミングと、音声の出力が完全にズレていく。

 さらに、ボイスチェンジャーのプロセスも強制終了し、スピーカーから出力されるのは、低く落ち着いたトーンから強制的に引き剥がされた、裏返った惨めな地声だけになった。


「やめろ、戻れ! 戻れよ!!」


 翔太が泣き叫びながらマウスを振り回すと、その情けない表情と涙で濡れた素顔が、フィルターのバグの隙間から数秒間、完全に無修正の状態で全世界へ向けて発信された。

 凄まじい勢いで更新されていたチャット欄の動きが、一瞬だけピタリと止まった。

 そして、次の瞬間、これまでとは全く異質の熱量を持った言葉が、眼球の処理速度を超えた濁流となって画面を埋め尽くしていく。


『え?』

『今の何』

『顔バグったぞ!?』

『加工!?』

『誰このおっさんwwww』

『キモッ!』

『タワマンのイケメン設定どこいったの?』

『詐欺じゃん』

『放送事故www』

『無理無理無理』

『完全に別人で草』

『今までのお金返してよ!』


 称賛と熱狂の言葉は、たった数秒で、嘲笑と罵倒の刃へと完全に反転した。


 自分がすべてをコントロールしていると思い込んでいた巨大な群衆が、最も残酷な石投げの群れへと姿を変え、画面越しに無数の礫を投げつけてくる。


「違う……俺は、俺は……!」


 翔太はモニターにすがりつき、カメラに向かって必死に弁明しようとした。だが、極度のパニックで喉が痙攣し、ヒューヒューという引きつった呼吸音しか出てこない。配信直前に腹に詰め込んだモダン焼きの甘辛いソースとマヨネーズの油分、そして一気に流し込んだラガヴリンのスモーキーなアルコールが胃の中でドロドロに混ざり合い、強烈な吐き気となって食道を逆流してくる。酸っぱい胃液が喉元までせり上がり、息を吸うたびに激しく咽せ返った。

 その時、背後で微かな衣擦れの音がした。

 振り返る間もなく、黒いドレス姿の由紀が動いた。

 彼女は翔太が止める間もなく、デスクの上に三脚で固定されていた高性能な一眼レフカメラの本体を両手で掴み、その向きを横へと大きく旋回させた。


「あ……や、やめろォォォ!!!」


 翔太が絶望的な悲鳴を上げる。手を伸ばすが、あと数センチ届かない。

 カメラのレンズが、タワーマンションの夜景を合成するためのグリーンバックの領域を完全に外れた。オートフォーカスが微かな駆動音を立てて、新たな被写体にピントを合わせる。

 15万人の視聴者の画面に映し出されたのは、美しい高級ラウンジの風景などではない。

 壁一面に雑に貼り付けられた黒い吸音スポンジ。その一部は剥がれ落ち、下地のベニヤ板が不格好に露出している。床に散乱するコンビニ弁当の空き容器や、茶色いシミのついた万年床。部屋の隅で腐臭を放つゴミ袋の山。そして、デスクの端に置かれた食べかけのモダン焼きの容器と、不釣り合いなバカラのグラス。グラスの縁には乾いたソースがべっとりと付着している。

 チャット欄の処理速度が、限界を突破して完全に崩壊した。


『うわああああ』

『汚っっっっ!』

『ゴミ部屋じゃんwww』

『こんなとこから配信してたの?』

『MINATOの正体、ただの引きこもりおじさんで草』

『今まで全部嘘だったのかよ』

『金返せ詐欺師!』

『通報しました』

『警察呼べ!』

『最低のクズ』


 無機質な文字の羅列が、物理的な暴力として翔太の網膜を容赦なく突き刺す。文字の海が視界を埋め尽くし、画面全体が白く飛んで見えるほどの異常なトラフィックが脳の処理能力を完全にオーバーフローさせていく。


 喉の奥からヒュー、ヒューという引きつった音が漏れ、モダン焼きのソースの匂いとラガヴリンのアルコール臭が混ざった不快な息が防音室に撒き散らされる。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らした翔太は、ついに床に崩れ落ち、両手で顔を覆った。


 その彼の首根っこを、上から強い力が無造作に掴み上げた。


「ひっ……!」


 翔太の身体が、床から半分持ち上げられる。


 シャツの襟元が強く締め付けられ、息が詰まる。見上げると、仁が、一切の感情を排した冷酷な瞳でこちらを見下ろしていた。そこには怒りすらなく、ただ無機質な害虫を見るような底知れない冷たさだけがあった。かつての強豪校のエース。その圧倒的なフィジカルの差と、死線を潜り抜けてきた生身の迫力の前に、翔太は抵抗することすらできなかった。


「15万人が見てるだと?」


 仁の低く、地を這うような声が、翔太の鼓膜を直接震わせる。


「なら、見せてやれよ。お前の、本当の無様な姿を」


 仁は翔太の身体を引きずり、カメラのレンズの真正面へと強引に押し出した。

 逃れようと暴れる翔太の顔面が、画面いっぱいに大写しになる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、紛れもない彼自身の素顔が。

 そして、その背後。

 ダークネイビーのスーツを着こなした、圧倒的な生身の重力を持った仁が、カメラの画角に収まる。整った骨格。右顎の三日月型の傷跡。

 画面の向こう側の15万人が、真実を悟る。

 今まで自分たちが熱狂していた顔は、背後に立つこの男の顔を盗んだだけの合成にすぎなかった。


「ごめんなさい……許して……俺が、俺が悪かった……!」


 翔太はカメラの前で泣き叫び、仁の腕にすがりついて命乞いを始めた。

 仁はただ冷ややかに、手の中で無様に震え続ける男を見下ろしていた。

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