第38話 由紀の暗躍
午後8時58分。
京王線柴崎駅からほど近い、築古の木造アパートの2階。
夜の湿った空気が、コンクリートの通路を重く吹き抜けていく。仁は、一番奥にある角部屋の、錆びついた鉄扉の前に静かに立っていた。
視線を落とすと、自分の足元には見慣れた擦り切れたスニーカーではなく、鈍い光沢を放つ上質な革靴がある。
数時間前。東京の夜景を眼下に収める外資系ホテルのスイートルームで、小山なつみは仁の全身を一切の妥協なくプロデュースした。無精髭はミリ単位で計算されて整えられ、顎にある三日月型の傷跡は、隠すのではなく「男の生きた証」として凄みを際立たせるように薄くシャドウが落とされていた。
今の仁が身に纏っているのは、なつみが手配した濃紺のビスポーク・スーツだ。生地の滑らかな感触と、タイトに絞られたウエストラインが、緩んでいた神経を強制的に引き締める。過去の激しい運動で培われ、長い底辺生活の中で眠っていただけの本来の骨格に、仕立ての良いスーツがピタリと馴染んでいる。背筋を伸ばし、深く呼吸をするたびに、スーツの適度な重みが自身の肉体に確かな質量と熱を呼び起こしていくのを感じた。
『服に着られていない。今のあなたなら、黙って立っているだけで相手を心理的に圧殺できる』
なつみの言葉が、耳の奥に蘇る。
深夜の物流倉庫で死んだような目をし、見えない監視の影に怯えていた男は、もうこの肉体のどこにもいない。
鉄扉の向こう側から、薄汚れた窓ガラスを震わせて、翔太の甲高い笑い声が漏れ聞こえてくる。あの中では今、俺の顔を使った滑稽な人形劇の最終幕が、15万人の観客に向けて開かれようとしている。
午後8時55分。同時刻。
足の踏み場もないほど散乱したゴミの山と、壁一面に雑に貼り付けられた黒い吸音スポンジ。タワーマンションの夜景がプリントされた巨大なグリーンバックの裏側で、大塚由紀は冷え切ったパイプ椅子に浅く腰掛けていた。
「よし、よし……完璧だ。今日のトラフィック、冗談抜きで化け物クラスだぞ……!」
数歩先で、佐々木翔太が血走った目を剥き出しにして、何面も並んだモニターを食い入るように見つめている。
キーボードを叩く指は異常な速度で痙攣するように動き、口元には粘ついた笑みが張り付いていた。部屋の隅に積まれた数十本のエナジードリンクの空き缶から漂う甘ったるい匂いと、密閉された空間で排熱ファンが吐き出す自作PCの熱気が混ざり合い、呼吸をするだけで肺の粘膜にカビがこびりつきそうだった。
由紀は今日、翔太の指示で、胸元が大きく開いた華奢な黒いドレスを着せられていた。
「由紀ちゃん、今日はただ手元を映すだけじゃないからね」
翔太はモニターから目を離さず、早口でまくしたてる。
「15万人の信者が、俺の顔出しを待ってる。俺が完璧な成功者だってことを証明する最高の舞台だ。君のその綺麗な肩と鎖骨のラインも、俺の隣を飾る最高の『パーツ』として画面の端に映り込ませる。絶対に余計な真似はしないで、ただ微笑んで頷いていればいいから」
「……はい」
由紀は感情の抜け落ちた声で短く応え、膝の上で両手をきつく組んだ。
ドレスの布地に隠された太ももの横。そこに、親指の先ほどの小さな黒いプラスチックの塊――昼間のカフェで仁から渡されたUSBドングルを忍ばせている。
翔太の狂乱は、配信開始の時間が近づくにつれて限界を突破しつつあった。
彼は突然、並んだモニターの一番端、ディープフェイクのパラメーター画面の横に表示されている小さなウィンドウを指差して、肩を揺らして笑い出した。
「ははっ、見なよこれ! 俺の顔の素体! 記念すべき今日だってのに、夜勤のシフトも休んで、四畳半の万年床で毛布被ってふて寝してるぜ!」
由紀がわずかに視線を動かすと、そこには薄暗い部屋の定点カメラのような映像が流れていた。布団がこんもりと盛り上がり、微かに上下しているだけの光景。
由紀は無表情のまま、内心で冷静に状況を分析した。
(あれは、今のあの人の姿じゃない)
数時間前に直接会った高田仁の瞳には、底辺で腐り落ちていく男の諦念など微塵もなかった。
(数時間前に会ったあの男が、今頃呑気に寝ているはずがない。……これも、彼らが仕掛けた罠の一部だ)
しかし、数字と虚栄心に完全に脳を焼かれた翔太は、その違和感に全く気づいていない。
「社会の底辺で泥水すすってる無能が、俺のシステムのおかげで、こうして15万人から崇拝される神の顔になれるんだ。感謝してほしいくらいだよね。俺が、あいつの惨めな人生に価値を与えてやってるんだから!」
歪みきった自己陶酔。
由紀は、腐臭のする底なし沼に素足を踏み入れてしまったような、強烈な吐き気を覚えた。
この男は、他人の人生を切り刻んで自分の顔に貼り付けているという自覚すら、すでに失いかけている。自分が神であり、世界をコントロールしているという全能感の肥大。その裏にある、誰にも認められなかった過去の強烈なコンプレックスが、悪臭を放つ泥のようにこの部屋を満たしていた。
(こんな男の小道具として、私は自分の時間を切り売りしていたのか)
由紀は唇をきつく噛み締めた。
仁の言葉が脳裏に蘇る。
『お前も共犯のレンタル品としてネットの海で一緒に燃えることになるぞ』。
冗談じゃない。こんな泥舟、私の手で確実に沈めてやる。
時刻は二十時五十五分。 配信開始まで、あと五分。翔太が立ち上がり、巨大なグリーンバックの前に設置されたリングライトの光量を微調整し始めた。
「よし、OBSの最終チェック。マイクのノイズゲートよし。フィルターの同期……よし。完璧だ。由紀ちゃん、ちょっとそこのクーラーボックスから水取って。喉乾いちゃった」
翔太がカメラの画角を確認するため、PCから2メートルほど離れた位置に移動し、モニターに背を向けた。
今だ。
由紀の心拍数が跳ね上がり、耳鳴りとなって鼓膜を叩いた。
ゆっくりと立ち上がる。ドレスの裾が擦れる音すら、この部屋の排熱ファンの唸り声にかき消されるはずだ。
クーラーボックスへ向かうふりをして、由紀は自作PCの背面に回り込んだ。
透明なアクリルケースの中で、青や赤のLEDが不気味に明滅している。ケースの背面には、無数の黒いケーブルが蛇のように絡み合い、USBポートの空きはわずか数個しかなかった。
右手に握りしめた小さなUSBドングル。指先が、手汗で滑りそうになる。
(震えるな)
自分に言い聞かせ、排熱ファンから吹き出す生温かい風を顔面に受けながら、由紀は一番端の空きポートに狙いを定めた。
翔太はまだ、リングライトの角度をいじりながら一人でぶつぶつとリハーサルのセリフを呟いている。
『みんな、待たせたね。MINATOです……いや、もっと低く、落ち着いた感じで……』
カチッ。
極めて小さな感触と共に、USBドングルがPCの心臓部に物理的に接続された。 数秒後、ドングルの端にある極小のLEDランプが、チカッと緑色に一度だけ点滅する。外部で待機しているシステムへの、不可視の扉が開いたサインだ。
由紀は息を詰め、何事もなかったかのようにクーラーボックスからペットボトルの水を取り出し、翔太の方へ歩み寄った。
「……どうぞ」
「あ、うん。ありがとう」
翔太は水を受け取り、キャップを開けて一気に喉に流し込んだ。そして、深く息を吐き出し、カメラの正面、豪奢なゲーミングチェアへと深く腰を下ろした。
「座って、由紀ちゃん。画角に入るように、俺の斜め後ろに」
由紀は言われた通り、用意された小さなスツールに腰を下ろした。カメラのレンズが、自分たちの無様な現実をデジタルデータに変換するため、冷酷にこちらを睨んでいる。
モニターの端に表示された時計の数字が、二十一時のゼロゼロ秒へと切り替わった。
同時に、待機画面から生放送のメイン画面へと切り替わる。
画面右側のチャット欄が、すさまじい勢いで白と黄色の文字列に埋め尽くされた。新しい書き込みが下から猛烈な速度で突き上げ、前のコメントを瞬時に枠外へと押し流していく。個々の単語を視覚で認識する隙もないほどの、暴力的な熱狂の渦だ。 翔太は恍惚とした笑みを浮かべ、マイクのスイッチをオンにした。
「みんな、こんばんは。MINATOです。今日は集まってくれて、ありがとう」
モニターの中に映し出された翔太の姿は、すでにリアルタイムのディープフェイクフィルターを通して、あの『無精髭と傷跡のある、洗練された男』へと書き換えられていた。背景のゴミの山は、AIによって完璧なタワーマンションの夜景へと変換されている。
(始まった……)
由紀はカメラの死角で、小さく息を吐いた。
21時1分。アパートの外階段。
夜の冷たい空気が、ドアの前に立つ仁の顔の傷跡を撫でていく。
耳に押し込んだ小型のワイヤレスイヤホンから、微かなノイズに混じってアリアの冷徹な声が響いた。
『……バックドア、開通。いつでも落とせる』
「分かった」
仁は短く応え、イヤホンの通信を切った。
通路の手すりから下の路地を見下ろすと、暗がりに身を潜めたのぞみが、電子タバコを咥えながらこちらを見上げていた。逃走経路となる裏道には、マイが手配した人間たちが無言のまま配置についているはずだ。のぞみは小さく顎をしゃくり、「やれ」と合図を送ってきた。
仁は無言で頷き返し、再び眼前の錆びた鉄扉へと向き直った。
薄汚れたドアの向こう側では、俺の顔を使った滑稽な人形劇が、15万人の熱狂を吸い上げて最高潮に達しようとしている。
仁はゆっくりと一歩下がり、右足に体重を乗せた。
長年蓄積された疲労も、得体の知れないシステムへの恐怖も、もはや微塵も残っていない。腹の底にあるのは、己の人生を奪い去ろうとした卑劣な泥棒を、真正面から叩き潰すという純粋な闘志だけだ。
上質な革靴が空気を裂き、ドアノブのすぐ横、鍵のシリンダー付近を思い切り蹴り飛ばした。
鼓膜を劈くような轟音と共に、古い蝶番がひしゃげ、虚飾に守られていた密室の扉が内側に向かって無惨に弾け飛んだ。




