第37話 乙女とのぞみの陽動
午後8時45分。京王線柴崎駅周辺。 初夏の生ぬるい夜風が、行き交う人々の熱気を孕んで吹き抜けていく。 改札を抜けた仁は、薄暗い電柱の陰で待っていたのぞみと無言で合流し、駅前のロータリーから続く細い路地へと足を踏み入れた。
「……マジで、見違えたよ」
隣を歩くのぞみが、呆れたように、しかし面白そうに口角を吊り上げた。 彼女の視線が、仁の深いチャコールグレーのスーツと、精悍に整えられた髪を舐めるように動く。
「あの小汚いパーカーのおっさんが、ここまで化けるとはね。その服、安物じゃないでしょ」
「……借り物だ」
仁の声は、自分でも驚くほど低く、腹の底から響いていた。 上質なウールの生地が、かつての肉体労働で培った骨格を内側から張り詰めさせ、肩回りに心地よい重量感を与えている。革靴の硬いソールがアスファルトを捉えるたびに、自分が生身の強者としてこの現実に立っているという強烈な実感が、足の裏から全身へと伝達されていた。
歩みを進めながら、仁は数時間前の出来事を脳内で反芻していた。 午後6時。アパートの重い鉄扉を開けた仁は、待機していた黒塗りのハイヤーで新宿へと向かった。 なつみからの指示は『疑似デート』だった。
『ただ服を着せられただけの状態で本番に臨んでも、メッキはすぐに剥がれる。他人の視線の中で、自分が今どう見られているかを物理的に再学習しなさい』
夕暮れの新宿通り。圧倒的な存在感を放つなつみの横を歩きながら、仁はすれ違う人々の視線を全身に浴びた。かつては、誰もが自分を嘲笑い、カメラで監視しているのではないかというパラノイアに苛まれていた。だが、スーツに身を包み、背筋を伸ばして歩く今の仁に向けられる視線は、明確な『畏怖』と『警戒』だった。人々は、得体の知れない凄みを持った男から本能的に視線を逸らしていく。
『恐怖や緊張は、生存本能が正常に機能している証拠。それを無理に消そうとするから、人間はフェイクに逃げるの。その傷跡を見せつけてやりなさい。あなたがオリジナルなのだと』
ショーウィンドウのガラスに反射した、右顎の三日月型の傷跡。 なつみの冷徹な言葉が、仁の精神から最後の迷いを完全に削ぎ落としていた。
「着いたよ」
のぞみの低い声で、仁は意識を現在へと引き戻された。 ロードサイドの大型ラーメンチェーン店の裏手。強烈な豚骨とラードの匂いが、業務用の排気ダクトから絶え間なく吐き出されている。 そのすぐ先に、錆びた鉄の外階段が不気味に傾いた、モルタル外壁の2階建てアパートがあった。周囲の暗闇から切り取られたように、2階の角部屋だけが分厚い遮光シートで完全に光を塞がれている。 あの中に、俺の顔を盗み、俺の人生を嘲笑っていた男がいる。
午後8時50分。 都内のカフェで、丸山乙女は自身のスマホを両手で握りしめ、画面を高速でスクロールしていた。 テーブルに置かれたアイスティーの氷はとっくに溶けきっているが、グラスに手を伸ばす気配はない。 彼女が操作しているのは、美容液のPRや自撮りを載せる本アカウントではない。過去の炎上騒動を追うために育成しておいた、フォロワー数の多い複数の「ゴシップ用捨て垢」だった。
『MINATO、今日の21時からの配信で重大発表あるらしいけど、絶対にやばい暴露くるぞ』
『裏のサロンの被害者の会が動いてるってマジ?』
『なんか、MINATOの昔の知人っていうアカウントから、信じられないタレコミ画像回ってきたんだけど……』
乙女はアカウントを巧みに切り替えながら、MINATOのハッシュタグをつけた不穏な投稿を次々と投下していく。 数分おきに関連キーワードを散りばめたテキストを打ち込み、送信ボタンを叩く。それに呼応するように、なつみが裏で手配したPR用のbotアカウント群が一斉に反応し、リポストとインプレッションを爆発的に跳ね上げさせていく。 彼女の目は、いつもの職場で盛れるフィルターを探している時の無邪気なものではない。SNSという怪物の生態を熟知し、その血流を自在に操る生粋のネイティブ特有の、冷徹な狩人の目だった。
画面の右上に表示される通知の赤い数字が、100、500、1000と異常なスピードで増殖していく。 炎上という現象は、薪をくべるタイミングがすべてだ。事実かどうかなど、渦中にいる人間には関係ない。
「何かとんでもないことが起きる」という野次馬根性さえ煽れば、大衆は勝手に数字を回し続ける。 単なる「顔出し配信」への期待は、この数十分のうちに「スキャンダルが暴かれるかもしれない」というネット特有の悪意が混じった狂乱へと変貌しつつあった。
「……よし、食いついた」
乙女は小さく呟き、ようやくストローをくわえた。 数字に異常な執着を見せている翔太は、必ずこの直前のタイムラインの盛り上がりを血走った目で確認しているはずだ。自分の配信が過去最大に注目されているという万能感と、コントロール外で何かがうねっているという微かな不安。その両方が極限まで高まり、脳の処理能力が完全にショートした状態で、あいつはカメラの前に座ることになる。 乙女はスマホの画面を伏せ、甘いアイスティーを喉の奥へ流し込んだ。
午後8時55分。 柴崎のアパート周辺。 のぞみはアパートの裏手に回り、路地裏のフェンスの隙間や、逃走経路になりそうな非常階段の下の配置を確認していた。 レザージャケットの内ポケットには、小型のスタンガンと特殊警棒の硬い感触がある。もし翔太が配信中に異変に気付き、窓から逃げ出そうとしたり、ドアを破って逃走しようとしたりした場合、ここで物理的に膝を折らせるのが彼女の役割だった。 信者の財布から吸い上げた金で作った、ただの薄汚いゴミ部屋。
「燃えがいがありそうじゃん」
のぞみは低く呟き、無線イヤホンに指を当てた。
『対象のIP、トラフィックの異常な増大を確認』
アリアのひどく平坦な声が、ノイズ混じりに耳に届く。
『配信用のシステムが立ち上がったわ。大量のパケットが海外のプロキシを経由して流れ始めてる。リアルタイムフィルターの稼働も確認した』
「了解。こっちはいつでも行けるよ」
のぞみは周囲の暗がりに視線を走らせながら、小さく問いかけた。
「……なぁ、アリア。このまま配信が始まって、もしあの由紀って女が日和ってUSB挿さなかったらどうする?」
通信の向こう側で、数秒の、ヒリヒリとするような沈黙があった。
『……挿すわ』
アリアの声には、一切の揺らぎがなかった。
『彼女の生存本能を信じるしかない。物理ポートが開いた瞬間、私がシステムの中枢を焼く』
「あっそ。ま、どっちに転んでも、あいつの逃げ道はアタシがここで完全に塞いでおくけどね。ドア蹴り破る準備だけしといて」
のぞみは通信を切り、フェンスの陰に深く身を沈めた。
午後8時58分。 アパートの2階。 仁は音を立てずに錆びた鉄階段を上り、角部屋のドアの前に立っていた。 周囲には、街灯の薄暗い光と、換気扇から吹き出す油の匂いしかない。目の前の薄汚れた鉄の扉の向こう側からは、PCの巨大な冷却ファンが回る低い重低音が、床のコンクリートを伝って微かに響いてきている。 あの防音扉の向こう側に、俺の顔を盗み、他人の人生を下敷きにして優越感に浸っている男がいる。 15万人の視線が完全に画面に釘付けになる、午後9時ジャスト。 仁は右手の人差し指で、自身の顎にある三日月型の傷跡を静かになぞり、深く息を吸い込んだ。




