第35話 肉体改造
決戦の生配信まで、残り48時間。
朝の四畳半には、微かな埃の舞う空気の中で、静かな活気が満ちていた。
色褪せて毛羽立った古い畳の上で、茶トラのキナコが仁の脱ぎ捨てた丸い靴下を獲物に見立て、短い前足でガッチリと抱え込んでいる。そのまま腹ばいになり、後ろ足の爪を立てて連続で激しく蹴りつけていた。そこへ段ボール箱の影からキジトラのムギが忍び寄り、靴下を仕留めようと夢中になっているキナコの丸いお尻めがけて、無音の跳躍を決めた。
キナコが驚いて「ミャッ」と声を上げ、2匹の小さな毛玉は靴下を巻き込んだまま、畳の上をごろごろと不格好に転がり回る。やがて取っ組み合いに飽きたのか、2匹は同時に動きを止め、あぐらをかいている仁の足元にトコトコと擦り寄ってきた。そのまま太ももに顎を乗せ、スースーと規則的な寝息を立て始める。
仁はその小さな背中を、手のひらでそっと撫でた。
ゴミ捨て場で拾い上げた時の、今にも折れそうな骨と皮だけの感触はない。粉ミルクを飲み、眠り、暴れ回るうちに、薄い皮膚の下には確かな筋肉の弾力がつき始めている。微細だが力強い鼓動が指先を直接打つ。その温かく生々しい命の振動だけが、今の仁にとって足元を繋ぎ止める唯一の重りだった。
仁は膝の上の2匹を起こさないよう慎重に立ち上がり、部屋の隅に置かれた大きな紙袋を引き寄せた。
昨日、このむさ苦しい四畳半に黒塗りのハイヤーで強引に乗り付け、ちゃぶ台で男の料理を平らげていった小山なつみが置いていったものだ。
中からは、無地の黒いTシャツと、仕立ての良いスラックス、そして新品のレザーシューズが出てきた。
『明日の昼、この住所へ来なさい。その服を着て』
同封されていた分厚いカードには、流麗な文字でそう書かれている。
仁は着古して油の匂いが染み付いたパーカーを脱ぎ捨て、なつみが用意した黒いTシャツに腕を通した。生地が肌に吸い付くような、今まで着たことのない滑らかな感触に首筋が粟立つ。
ユニットバスの洗面台の鏡を見る。
血走った濁った目、落ち窪んだ頬、無造作に伸びた髪と無精髭。上質な黒い生地の質感に対し、それを着ている中身の男の顔が、ひどく浮き上がって見えた。
「……行くか」
仁は短く呟き、重い鉄扉を開けた。
指定された住所は、休日の喧騒に包まれた表参道のメインストリートから1本入った、緑の多い路地裏にあった。看板のない、コンクリート打ちっぱなしの会員制サロン。
重厚なガラス扉を押し開けると、ほのかなベルガモットの香りと、一切のノイズを排除した静謐な空間が広がっていた。受付には誰もおらず、代わりに奥のラウンジソファに、足を組んで座るなつみの姿があった。
今日は純白のシルクブラウスに、黒のワイドパンツという出で立ちだ。ただそこに座っているだけで、周囲の空間の重心がすべて彼女の引力に引っ張られているような、圧倒的な存在感を放っている。
「……時間通りね」
なつみは持っていたタブレットを置き、音もなく立ち上がった。
「その服、あなたの肩幅の広さだけでサイズを予測して用意させたけど、悪くないわ。でも、首から上が完全に死体ね。ついてきなさい」
案内されたのは、レザー張りの重厚なバーバーチェアが中央に置かれた個室だった。
待機していた初老の理容師が、無言で仁を椅子に座らせ、首元に温かいタオルを巻く。
「すべて落として。ただし、骨格の強さは残すように」
なつみの短い指示に従い、理容師のハサミが小気味よい音を立てて伸びた髪を切り落としていく。
鏡越しに、自分の輪郭が少しずつ削り出されていくのが見えた。サイドは短く刈り上げられ、重く垂れ下がっていた前髪が後ろへ流される。それだけで、隠れていた眉の太さと、眼光の鋭さが露わになった。
続いて、熱い蒸しタオルで顔全体が覆われる。毛穴が開き、凝り固まっていた顔面の強張りが物理的に溶かされていく感覚。
シェービングフォームが塗られ、滑らかな一枚刃のカミソリが顎のラインを滑っていく。数日前に自分で無理やり削り落とし、カミソリ負けを起こしていた肌の表面が、プロの手によって慎重に整えられていく。
最後に冷たいタオルで引き締められ、保湿のクリームが擦り込まれた。
椅子が起こされ、仁は鏡の中の自分を見た。
疲労で淀んでいた顔のレイヤーが、一枚完全に剥ぎ取られていた。
無精髭がなくなり、露わになった右顎の三日月型の傷跡。少し隆起したその歪な皮膚は、以前は敗北の象徴のように思えていた。しかし、髪が整えられ、顔の輪郭がシャープになったことで、逆に生身の男としての危険な凄みを強調するパーツへと変化していた。
「……悪くない」
背後に立ったなつみが、鏡越しの仁の目を真っ直ぐに見据えた。
「でも、まだ『服を着せられただけの男』よ。立ちなさい」
仁が椅子から立ち上がると、なつみは容赦なく仁の姿勢を指摘した。
「肩が内側に入っている。重心が踵に逃げているわ」
なつみは仁の背中に回り、肩甲骨の間をヒールの先端で鋭く突いた。
「痛っ……」
「隠れる必要なんてどこにもないのよ。その背中を伸ばしなさい」
ヒールで突かれた箇所を中心に、長年の深夜作業で凝り固まっていた背中の筋肉がギシギシと嫌な音を立てる。
「思い出して。佐々木翔太が、カメラのレンズ越しにあなたを観察し、嫉妬し、同時に心底恐れていたのは、今のその丸まった背中じゃない。かつてグラウンドの中央で、圧倒的な暴力とスピードで他人をねじ伏せていた頃の、あなたの質量よ」
なつみの声が耳元を掠めた瞬間、仁の脳裏に泥にまみれた記憶が蘇った。
息を切らし、前線をこじ開けるために突進していたあの感覚。
膝の靭帯が切れる前の、自分の肉体が世界の中心であり、誰にも負ける気がしなかったあの時の、足の裏がスパイク越しに大地を掴む感触。
仁はゆっくりと目を閉じ、鼻から深く息を吸い込んだ。
肺の奥底まで酸素を送り込み、丸まっていた肩を外側へ開く。胸板を張り、落ちていた視線を本来の高さへと戻す。膝の古傷を庇って無意識に逃げていた重心を、両足の裏全体でしっかりと床を踏みしめるように落とし込んだ。
パキリ、と首の骨が鳴る。
目を開ける。
鏡の中の男の姿勢が変わった。
胸板の厚みが強調され、黒いTシャツの生地が筋肉の起伏を拾って深い陰影を作っている。かつてのスポーツマン特有の、どっしりとした体幹の強さが、物理的に引きずり出されていた。
「そう。それがあなたの『オリジナル』の骨格よ」
なつみは傍らのラックから一着のジャケットを取り出した。
鈍い光沢を放つ、ダークグレーのテーラードジャケット。
仁が袖を通すと、それはまるで仁の肉体のために最初から設計されていたかのように、広い肩幅と厚い胸板に完璧にフィットした。
なつみは仁の襟元を整え、ポンと軽く胸を叩いた。
「どれだけアプリの数値をいじってデジタルで着飾ろうと、この肩幅と胸の厚みが生み出す重力は捏造できない。あなたが本物よ」
仁は鏡を見た。
そこには、深夜のコンビニで半額弁当を漁っていた男の面影はない。
傷跡のある顎、鋭く冷ややかな眼光、ハイブランドのジャケットを着こなす圧倒的なフィジカルの存在感。
スマホの画面の中で作り笑いを浮かべる『MINATO』など、軽くひねり潰せるほどの、生身の重力を持った男がそこに立っていた。
俺の顔を盗み、俺の人生をオモチャにしたあの男の部屋のドアを、この足で蹴り破る。
「……行くぞ」
仁の低く、地を這うような声。
なつみは何も言わず、完璧な弧を描く笑みで静かに奥の扉を指し示した。




