第34話 なつみの美学
深夜のVIPラウンジでの密約から、数時間が経過していた。
深夜の冷え込みが、窓の隙間から這い込んで足元を舐めている。
決戦の金曜日まで、残された時間は72時間を切っていた。
「あなたの現状を、正確に把握しておく必要があるわ。生活環境、精神状態、そして肉体のコンディションのすべてをね」
分厚いファイルを受け取った直後、小山なつみは有無を言わさぬ口調でそう告げた。彼女はそのまま待たせてあった黒塗りのハイヤーに仁を押し込み、この郊外の安アパートまで強引に同行してきたのだ。車内での彼女は一切口を開かず、ただ静かに仁の横顔を観察し続けていた。その無言のプレッシャーは、仁のすり減った神経をさらに削り取っていくようだった。
カビと古本の匂い、そして微かな猫の排泄物の臭いが染み付いた四畳半の部屋に、場違いなほど洗練された香水の香りが漂っていた。
なつみは、縁の欠けたちゃぶ台の前に静かに立っていた。彼女が身にまとうシルエットの美しいシルクのパンツスーツは、この淀んだ空間の光さえも自分に合わせて屈折させているかのような錯覚を起こさせる。彼女の存在自体が、あまりにも圧倒的で、周囲の貧相な景色から完全に浮き上がっていた。
部屋の隅に積まれた段ボール箱、すり減って毛羽立ったイグサの畳、壁に染み付いた黒ずんだ油汚れ。なつみはそれらを嫌悪するでもなく、ただ冷徹な評価者の目で一つ一つ検分している。
「……少し、待ってくれ。頭が回らない」
極度の疲労と睡眠不足で視界が明滅する中、仁はかすれた声を絞り出し、ゆっくりと立ち上がった。
このままでは、彼女の放つ異様なまでの「圧」に呑み込まれる。胃の底が空っぽで、脳に血液が回っていない。身体に燃料を叩き込まなければ、思考が完全に停止してしまうのが分かった。
段ボール箱の中から、キジトラのムギと茶トラのキナコがよちよちと這い出してきた。見知らぬ来訪者の圧倒的な気配に怯え、2匹は仁の足元に隠れるようにして短い尻尾を丸めている。仁は足元の小さな毛玉たちを傷つけないよう慎重に歩を広げ、狭いユニットバスの横にある、半畳ほどの台所に向かった。
水垢がこびりついたシンクの前に立ち、古びた鉄の小鍋をガスコンロに置く。ツマミを押し込んで回すと、チチチという硬い点火音の直後、青い火柱が円を描くように音を立てて広がった。
冷蔵庫から取り出したのは、特売のブロックベーコンの残りと、葉のしおれかけた春キャベツだ。
仁は包丁を手に取り、ベーコンを5ミリ厚の拍子木切りにしていく。油は引かず、まだ冷たい鍋の中に直接ベーコンを放り込み、極細の弱火にかけた。
パチパチという微かな音が鳴り始め、豚の脂がゆっくりと透明な液体となって鍋肌に溶け出していく。燻製の香ばしい匂いが、換気扇の重苦しいモーター音を縫って室内に広がった。
キャベツは包丁を使わず、両手で無造作に引きちぎる。繊維を不規則に断ち切ることで、スープの旨味が染み込みやすくなる。これは高校時代、ラグビーの厳しい練習に耐え抜くための強靭な肉体を作るべく、毎晩自炊していた頃からの癖だ。当時は今の倍の量を平らげていたが、今はただ明日の底辺労働を乗り切るためのカロリー摂取に成り下がっている。
ベーコンから十分に脂が引き出されたのを見計らい、火を強火にしてキャベツを一気に投入する。鍋肌に触れたキャベツがジューッと甲高い音を立て、表面にわずかな焦げ目がつくまで手早く炒め合わせた。そこに水を注ぎ、顆粒の鶏ガラスープと少量の酒を垂らして蓋をする。
その間に、炊飯器の蓋を開けた。
炊きたての白米を深めのボウルに移し、しゃもじで切るように手早く混ぜて余分な水分を飛ばす。立ち上る湯気が、薄暗い蛍光灯の光を白く乱反射させる。
冷蔵庫の奥から、小さなガラス瓶を取り出した。熊本名物の「山うに豆腐」。豆腐を半年間味噌に漬け込んで発酵させた、ウニのようにねっとりとした濃厚な珍味だ。少し前に深夜のスーパーの地方物産コーナーで半額になっていたものを買い、少しずつ食べていた。
小皿に鰹節を出し、醤油を数滴垂らして混ぜ合わせる。「おかか」の香ばしさと、「山うに豆腐」の強烈な旨味。
仁は両手を流水で冷やし、粗塩を擦り込んだ。熱々の米を手に取り、中心にくぼみを作って、山うに豆腐の欠片と醤油おかかを同時に押し込む。
両手の中で米を転がす。力を入れるのは表面だけだ。中心には空気を残し、口に入れた瞬間に米粒がほどける絶妙な硬さに仕上げていく。3つの丸みを帯びたお握りが、あっという間に皿の上に並んだ。
付け合わせには、昨夜仕込んでおいた大根の漬け物を用意する。いちょう切りにした大根を塩揉みし、細切りの昆布と鷹の爪と一緒にビニール袋で浅漬けにしたものだ。水気を固く絞り、小鉢に盛る。
最後にもう一つの小鉢に、塩を吹いた肉厚の南高梅を置く。種はあらかじめ抜いて果肉だけにしてある。
鍋の蓋を開けると、キャベツの甘い匂いが立ち上った。火を止め、黒胡椒を引き、ごま油をほんの一滴だけ垂らして風味を締める。
仁は皿と椀を盆に乗せ、ちゃぶ台へと運んだ。
「……食べるか」
ぶっきらぼうに尋ねる仁に対し、なつみは微かに目を細め、静かに彼の向かいへ腰を下ろした。
仁は無言で手を合わせ、中華スープを胃に流し込んだ。豚の脂とキャベツの甘みが、冷え切っていた内臓を強烈な熱で満たしていく。続いてお握りにかぶりつく。米の熱で溶け出した山うに豆腐の濃厚な味噌のコクと、おかかの塩気が絶妙に絡み合い、噛み締めるたびに脳の奥が覚醒していくのが分かった。咀嚼し、飲み込み、また次の一口を放り込む。飢えた獣が生命を維持するために急いで餌を食らうような、実用性だけを追求した無骨な食事。四畳半に響くのは、仁の咀嚼音と、時折箸が皿に当たる微かな音だけだ。
なつみは、用意された椀を両手で包み込むように持ち、スープを一口だけ口に含んだ。
咀嚼し、飲み込む。その間、彼女の冷徹な瞳が仁の顔を、そして首筋の筋肉の動きをじっと観察していた。
「……見事な手際ね」
なつみが、ふっと唇の端を上げた。
「ただ空腹を満たすだけの餌じゃない。細胞に熱を叩き込み、生存するためのエネルギーを強制的に引き出そうとしている。……物流センターで数字を追うだけの生活にしては、執念がこもっているわ」
仁は梅干しをかじりながら、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「身体を作るためだ」
仁は短い言葉で答えた。
「昔からの癖だ。ただカロリーを入れるだけだと、胃が拒絶する。食うことは、生きることだ」
その言葉を聞いた瞬間、なつみの瞳の奥に、鋭い光が走った。
「そう。それこそが、彼が絶対に手に入れられないものよ」
なつみは箸を置き、両手を膝の上で優雅に組んだ。
「ピクセルの配列を弄り回して、肌を滑らかにし、目を大きくし、骨格を修正する。痛みを伴わない、血の通っていない数字の羅列。……あんなものは、電気信号が描いたただの平均値の死体に過ぎないわ」
なつみの視線が、仁の顎にある三日月型の傷跡を真っ直ぐに射抜く。
「真の美しさも、圧倒的な存在感も、すべては泥と血と汗の中から自分の肉体を削り出して作り上げるもの。画面の向こう側の安全な場所から、他人のパーツを盗んで継ぎ接ぎしているだけの彼には、絶対に理解できない領域」
足元で、キナコが小さく鳴いた。仁の足首にすり寄る子猫の体温が、ジーンズの生地越しに伝わってくる。
「彼があなたに強烈に執着している理由は、その生々しさよ。すり減ってもなお残っている骨格の厚み。生きるために燃料を喰らい、熱を発するその泥臭い肉体。数字の世界に逃げ込んだ彼にとって、あなたは自分が絶対に手に入れられない『本物の生命力』そのものなの」
仁は箸を置き、残っていた大根の漬け物を飲み込んでから、低く問うた。
「……俺があの部屋に乗り込んだとして、どうやってあいつを潰す。裏金の告発だけなら、警察に任せればいい」
「告発で彼の城を燃やす? 違うわ。そんなものは、大衆のタイムラインを数秒間賑わせて、すぐに消費されて忘れられるだけ」
なつみは立ち上がり、ゆっくりと仁の背後へと回った。
「15万人の信者は、彼が提供する『完璧な成功者』という心地よい虚像を愛しているの。そこにただの泥にまみれた敗者が乱入して真実を叫んだところで、嫉妬に狂った不審者として処理されるのがオチよ」
彼女の冷たい指先が、仁の首筋から肩のラインをなぞる。
「だから、彼を完膚なきまでに絶望させるには、圧倒的な『本物』を見せつけるしかない」
仁の呼吸が止まった。
「あの密室のドアをこじ開けた瞬間、彼が被っているAIのフィルターごと、すべてを物理的な存在感で上書きして潰すの。薄っぺらな虚像が、生身の強者の前に無様な姿でひれ伏す瞬間を、全世界に見せつけてあげる」
「……今の俺に、そんなものはない」
仁は自嘲気味に息を吐き、自分のヨレたパーカーの袖を見下ろした。
「ただの、底辺で這いつくばってる負け犬だ」
「いいえ、素材は極上よ」
なつみが仁の正面に回り込み、その両手で仁の顔を力強く挟み込んだ。
なつみの纏う香水の冷たい香りが鼻腔を打ち、彼女の手のひらの硬質な冷たさが、仁の火照った頬に直接伝わってくる。彼女の至近距離からの眼差しは、蛇のように冷酷で、炎のように熱かった。
「私が引きずり出してあげる。この無精髭の下に隠れた本来の顎のラインも、その淀んだ目の奥の熱も。……残り3日。私の持てる技術のすべてを使って、あなたを極上の凶器に仕立て上げるわ」
なつみは、狂気すら孕んだ美しい微笑みを浮かべた。
「佐々木翔太の大事な箱庭を、生身のあなたで踏み荒らしに行きましょう」




