第33話 炎上のシナリオ
決戦の週末まで、あと3日。
仁は四畳半の部屋で、アリアから届いた『バックドア固定完了』という短いメッセージを、ひび割れた代替機の画面越しに何度も読み返していた。
部屋の隅に置かれた段ボール箱の中では、キジトラと茶トラの二匹の子猫が毛布にくるまり、静かな寝息を立てている。微かに漂うキャットフードの匂いと、長年染み付いたカビの臭い。この淀んだ空間とは対極にある、目に見えないサイバー空間の奥深くで、翔太の首に巻きつけられた真綿は確実に締まりつつある。
だが、仁の胃の奥底では、消化しきれない硬い異物のような焦燥感が、絶え間なく粘膜を引っ掻き回していた。
暴いて、どうなる。
裏金の証拠を揃え、生配信中にシステムを破壊して素顔を晒したところで、佐々木翔太という男は本当に「終わる」のか。あいつは15万人もの信者を抱え、莫大な資金を動かしてきた狡猾な男だ。最悪の場合、海外のダミー会社や末端の口座だけを切り捨て、自身は「何者かにハッキングされた悲劇の被害者」を演じ切るかもしれない。ネット上の狂信者たちは、涙ながらに弁明する教祖の姿に酔いしれ、アンチの陰謀だとして逆に結束を固める可能性すらある。
ただ事実を突きつけるだけでは足りない。あいつが二度と立ち上がれないほど、社会的に、そして精神的に完全に息の根を止める確実な一手が要る。
ブブッ。
手元の代替機が短く震え、思考が断ち切られた。
マイからだった。
『明日の夜、時間を空けて。会わせたい人がいるの』
短いメッセージの後に、都内の外資系高級ホテルのラウンジのURLが添付されている。
『あなたにとっての、一番マシな服を着てきて』
翌日の夜。
地下鉄の駅から地上へ出た瞬間、街の空気が変わった。指定されたホテルのエントランス周辺は、仁が普段呼吸している物流センターや場末のアパート周辺とは、根本的に成分が違っていた。
大理石の床に反射するシャンデリアの光。かすかに漂う、上質なシガーとシトラスの香り。行き交う人々は皆、仕立ての良さが一目でわかるスーツやドレスを身に纏い、一切の焦燥感を見せないゆったりとした足取りで歩いている。
クローゼットの奥から引っ張り出した数年前の就活用のオックスフォードシャツと、洗濯を繰り返して膝の抜けたチノパン。靴だけは念入りに泥を落としたスニーカー。仁はこの空間において、自分が歩く粗大ゴミのような異物であることを肌で感じていた。ドアマンの視線が、値踏みするように足元をかすめる。
「高田さん」
背後から声をかけられ、仁は身を硬くして振り返った。
そこには、息を呑むような女性が立っていた。
深いネイビーブルーのタイトなイブニングドレスが、長身でスレンダーな体のラインを完璧に引き立てている。艶やかな黒髪は上品にまとめられ、耳元では小ぶりだが本物のダイヤが静かな光を放っていた。
一瞬誰かわからなかったが、その意志の強い眼差しと凛とした立ち姿は、間違いなくマイだった。
「マイ……なのか?」
「そんなに驚くこと? 店のエプロンよりは、少し値が張るけど」
マイはふっと微笑み、仁の隣に並んだ。彼女から、かすかにジャスミンの香水が漂う。サイゴン・ブリーズに漂う八角やピーナッツ油の匂いは微塵もない。
「エスコートして。今日は、そういう『デート』の設定だから」
「デート?」
「相手の領域に入るための、最低限のドレスコードよ。それに、今のあなたは私という『連れ』がいなければ、ラウンジのボーイに怪しまれてつまみ出されるわ」
マイの言葉は辛辣だったが、事実だった。彼女は仁の右腕に自分の左手をそっと絡ませた。その自然な身のこなしと背筋の伸びた歩き方は、この上流の空間に完全に溶け込んでいる。
エレベーターの重厚な金属扉が閉まり、静かに上昇を始める。
「誰に会うんだ」
仁は鏡張りの壁から目を逸らし、隣のマイに低い声で尋ねた。
「翔太を完全に終わらせるための、最後のピース。……私個人にとっても、昔世話になった大事な人よ」
最上階のVIPラウンジ。
東京の夜景が一望できる窓際のボックス席に、その女は座っていた。
仁の足が、無意識に止まる。
美しい、という陳腐な言葉では表現しきれない存在だった。
ハイブランドのシルクのドレスを纏い、細いグラスを傾ける横顔は、完璧な造形をしていた。肌の質感、骨格のライン、唇の角度に至るまで、一切のノイズがない。スマホの画面の中でAIが描き出す「理想の顔」をそのまま現実世界に引っ張り出してきたような、非現実的な美貌。
だが、AIやフィルター特有の薄っぺらさは微塵もない。近づくにつれ、彼女の毛穴の一つ一つから発せられる生身の体温と、相手を圧倒する重力のような「圧」が肌を刺した。
血の滲むような努力と執念で、自らの肉体を素材に最高傑作を造り上げた人間だけが持つ、凄まじいオーラだった。
「遅かったわね、マイ」
女がゆっくりと振り返り、穏やかな微笑みを浮かべた。その声はシルクのように滑らかだが、瞳の奥には他人の嘘やコンプレックスを冷酷に解剖するような、鋭い光が宿っている。
「紹介するわ。小山なつみさん」
マイが静かに言った。
なつみはグラスを大理石のテーブルに置き、仁を下から上へ、ゆっくりと舐め回すように観察した。
その視線に触れた瞬間、仁は自分が裸にされ、内臓の重さまでグラム単位で量られているような錯覚に陥った。
「なるほど」
なつみの赤い唇が、小さく動いた。
「あなたが、あの『MINATO』のオリジナル。……随分と、摩耗しているのね」
仁は奥歯を噛み締め、シャツの袖口を無意識に握り込んだ。圧倒的な格差を見せつけられ、呼吸が浅くなる。
「単刀直入に聞く。俺たちに、何を教えるつもりなんだ」
搾り出すように問いかける仁に、なつみはふふっと上品に笑い、ソファに深く背中を預けた。
「マイから大体の話は聞いているわ。15万人のフォロワーを抱えるインフルエンサーの、システムと裏金を暴いて引きずり下ろす計画。……でも、それだけじゃダメよ。あなたのシナリオは、詰めが甘すぎる」
「証拠は全部揃ってる。生配信中に奴のシステムを乗っ取って、裏側の現実を全世界に垂れ流す。警察にも同時に動いてもらう。それで十分終わるはずだ」
「終わらないわね」
なつみは即答した。その口調には、微塵の迷いもない。
「いい? 現代のSNSにおいて『真実』なんてものは、何の価値もないのよ。重要なのは、大衆がどの『ストーリー』を消費したいか、それだけ。あなたが配信を乗っ取って、彼の部屋の惨状や合成の証拠を暴露したとする。確かに一時的には炎上するでしょうね」
なつみはグラスの縁を細い指でなぞった。氷がカランと高い音を立てる。
「でも、彼は泣きながら弁明するわ。『自分はハッキングの被害者だ』『一部のアンチに陥れられた』とね。信者たちは教祖の涙に酔いしれ、逆に結束を固めるかもしれない。あるいは、あなたが姿を現して彼を糾弾したところで、大衆の目にはどう映ると思う?」
なつみの冷徹な視線が、仁のヨレたシャツと、疲労が染み付いた顔を射抜く。
「『社会の底辺でくすぶっている惨めな男が、成功者に嫉妬して逆恨みで嫌がらせをしている』……そう変換されて消費されるのがオチよ。大衆は、泥にまみれた敗者の悲痛な叫びよりも、綺麗にパッケージされた成功者の嘘を愛するものだから」
仁の喉の奥が、カラカラに乾いた。
反論できなかった。相手が圧倒的な強者であり、自分が何も持たない弱者であるという社会的な構図。それが事実である以上、どれだけ正しい告発をしたところで、ネットの海では「嫉妬に狂った底辺のノイズ」として処理されてしまう。
それが、翔太が15万人という数字の壁の後ろで高を括っている最大の理由だ。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
仁の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
なつみはゆっくりと立ち上がり、仁の目の前まで歩み寄った。彼女から放たれる圧倒的な香りと存在感に、仁は思わず一歩後ずさりしそうになるのを必死で堪えた。
「真実とは、最も説得力のある嘘のことよ」
なつみは仁の襟元にそっと手を伸ばし、乱れたシャツの襟を直すような素振りを見せた。彼女の指先はひどく冷たかったが、その動きには一切の隙がなかった。
「彼を完全に社会的に抹殺し、二度と立ち上がれないようにするには、信者たちの目の前で『教祖の権威』をへし折らなければならない。そのためには、あなたが彼を告発する悲惨な被害者であってはダメなの。……あなたが、彼よりも圧倒的に上位の存在、『本物の強者』として、あの配信画面に君臨するのよ」
「俺が……本物の、強者?」
「そう。AIのフィルターや、合成されたピクセルなんかじゃない。血の通った肉体と、絶対的な自信を持った『本物』が、滑稽な『偽物』の部屋のドアを蹴り破って現れる。15万人の信者たちは、自分たちが崇拝していた教祖が、実はただの怯えた哀れな男であり、その教祖が最も恐れ、見上げている絶対的な上位者が他にいるという『残酷なエンターテインメント』を目の当たりにする」
なつみの瞳の奥で、暗い炎が揺らめいた。
「スマホの画面上で作られた、血と汗を伴わない薄っぺらな虚像なんて、私は心の底から軽蔑しているわ。……マイの大切な居場所を荒らした落とし前は、きっちりつけさせてもらう」
なつみは一歩下がって、仁の全身を再び値踏みした。
「素材は悪くないわ。骨格も、その顔の傷跡も、生きた経験が刻まれている。ただ、敗北感と疲労という最悪のノイズがこびりついているだけ」
なつみは傍らのハンドバッグから、黒い革張りの分厚いファイルを取り出し、大理石のテーブルの上に音を立てて置いた。
表紙が開かれ、見慣れない高級テーラーやサロンのリスト、そして分単位で刻まれた72時間のスケジュールがむき出しになる。
「配信は週末の21時だったわね。……あと72時間。私があなたを、誰もがひれ伏す『完璧な成功者』にプロデュースしてあげる。外見も、纏うオーラも、歩き方すらもね」
なつみの唇が、冷ややかに、だが完璧な弧を描いて吊り上がった。
「さあ、虚飾を剥ぎ取るための、極上の嘘を造り上げましょうか」
仁は奥歯を強く噛み締め、大理石のテーブルの上に置かれたファイルをじっと見下ろした。
そこに綴られているのは、社会の底辺から一気に最上層へと駆け上がるための、狂気じみた計画書だ。
仁はヨレたシャツの袖口を無意識に握りしめていた指の力をゆっくりと緩め、そのファイルに向かって手を伸ばした。




