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第32話 決戦の地へ

 朝の四畳半に、ジリジリと冷え込んだ秋の空気が溜まっている。

 結露で白く曇ったアルミサッシの向こうからは、出勤を急ぐ人々の足音や、遠くの国道を走るトラックの低い排気音が絶え間なく聞こえていた。雨上がりの湿ったアスファルトの匂いが、サッシの僅かな隙間から室内の淀んだ空気の中へ這い込んでくる。

 仁は万年床の上にあぐらをかき、息を潜めて目の前の光景を観察していた。


 擦り切れたイグサの畳の中央に、100円均一で買ってきたグレーのネズミのおもちゃが転がっている。中にまたたびが仕込まれているらしく、微かに独特の青臭い匂いが漂っていた。

 そのネズミから約50センチ離れた段ボール箱の影。

 キジトラのムギが、床に腹をぴったりと擦り付け、両耳を完全に後ろへ伏せた「イカ耳」の状態で微動だにせず獲物を睨みつけていた。黒目が極限まで大きく見開かれ、ビー玉のような瞳の奥で本能の炎がチロチロと燃えている。

 ムギは短い後ろ足を小刻みにバタつかせ、床との摩擦で足場を固めると、お尻をプリプリと左右に振ってタイミングを計り始めた。肩甲骨のあたりの毛が逆立ち、小さな筋肉がバネのように収縮していくのが見て取れる。イグサの隙間に爪を立て、完璧な助走の姿勢を作る。


 そして、弾かれたように床を蹴る。


「ミャッ!」


 一直線にネズミへ飛びかかろうとしたその瞬間、画面外の思わぬ方向から茶色の塊が横槍を入れた。

 茶トラのキナコだ。

 ちゃぶ台の脚の裏に隠れて完全に気配を消していたキナコは、ムギが飛び出した完璧なタイミングに合わせて真横から特攻を仕掛けた。

 空中で2匹の小さな毛玉が激突する。

 ドサッ、という鈍い音とともに、2匹はネズミのおもちゃを巻き込んで畳の上をゴロゴロと不格好に横転した。


 ムギが驚いて「シャーッ」と短く威嚇するが、キナコは全く意に介さず、ムギの首根っこに細い乳歯を立てて甘噛みをする。ムギもすぐに反撃に転じ、短い前足でキナコの頭をポコポコと連続で叩いた。

 2匹はネズミのおもちゃを挟んだまま、柔らかな腹を見せ合い、短い尻尾をバタバタと振って取っ組み合いの喧嘩を始めた。時折、ゴロゴロと喉を鳴らす低い音が室内に響く。

 何の計算も、虚飾もない。ただ本能のままに動き、体温をぶつけ合い、全身で今を生きている小さな獣たちの姿。

 仁は無意識のうちに口元を少しだけ緩め、その愛らしい死闘を静かに見守っていた。

 数週間前、雨の日のゴミ捨て場で泥と排泄物にまみれ、死にかけていた命だ。手のひらの上で消えそうになっていたあの微弱な心拍が、今はこうして、不器用ながらも力強く畳を蹴り上げている。


 その確かな現実の重さに、仁は深く息を吸い込んだ。

 冷たい秋の空気が肺の奥まで届き、澱んでいた思考がクリアになっていくのを感じる。


 ブブッ。


 スウェットのポケットの中で、古い代替機が短く振動した。

 仁はゆっくりと視線を落とし、画面の端にクモの巣状のヒビが入った端末を取り出した。

 通常のブラウザ経由で設定している、MINATOのアカウントの更新通知だ。

 数日前に仁が仕掛けた、ガムテープで作った分厚い紙の束と、それを親指で弾く摩擦音。その罠に対する、向こうからのアンサー。


 親指で画面をスワイプし、通知を開く。

 液晶のバックライトが、四畳半の薄暗い空間に不釣り合いなほど鮮やかな色彩を放った。ひび割れたガラス越しでも、その画像の持つ暴力的なまでの豊かさは十分に伝わってくる。


『いつも応援してくれるみんな、本当にありがとう。おかげさまで、フォロワーが15万人を突破しました』


 画面に表示されたのは、高級ラウンジのVIPルームらしき背景。間接照明のオレンジ色の光が、グラスの氷や革張りのソファの質感を滑らかに浮き上がらせている。

 そして、その中央に座る「MINATO」の姿。

 顔から下だけが映っている。オーダーメイドらしき細身のスーツを着崩し、テーブルの上で組まれた両手には、先日仁が偽装したあの紙の束が、より生々しい質感と厚みを持った万札のタワーとして鎮座していた。帯封の質感や、紙幣の僅かなシワに至るまで、極めて精巧にレンダリングされている。


 テキストはさらに続く。


『この15万人という数字は、ただの通過点だ。俺はもっと上に行く。そのために、今週末の夜21時、記念の生配信をやることにした』


 仁の親指の動きが止まった。画面の明かりが、無精髭の伸びた仁の顔を青白く照らし出す。


『初めて、フィルターなしの本当の俺の姿をみんなに見せる。今後の俺の、そしてついてきてくれるみんなの新しいステージに関わる、重大な発表もある。絶対に見逃さないでくれ』


 生配信。顔出し。重大発表。

 仁は小さく息を詰め、画面をスクロールして、秒単位で増え続けていく「いいね」とコメントの数字を見つめた。


「ついに顔出し!」

「絶対見ます!」

「重大発表って何!?」

「MINATOさんの新しい挑戦、どこまでもついていきます!」

「15万人おめでとうございます!」

「重大発表ってサロンの拡大ですか!?」


 画面のスクロールに指が追いつかないほどの速度で、狂信的なコメントの滝が流れていく。手動でリロードするたびに、コメント数は数十、数百という単位で跳ね上がっていく。

 15万という無機質な数字の群れが、見えない教祖に向かって熱狂の声を上げている。アイコンを持たない匿名のアカウントや、綺麗に加工された自撮りをアイコンにした無数の人々が、画面の向こう側の虚像に向かって一斉にひれ伏し、羨望の眼差しを向けている。

 その異様なまでの熱気は、狭い四畳半の冷え切った空気とはあまりにも対極にあり、現実感を喪失させるようなグロテスクさを孕んでいた。

 彼らは皆、自分たちが何に熱狂しているのかを知らない。

 仁は代替機のひび割れた液晶を、指の腹でゆっくりとなぞった。ガラスの欠けた部分が僅かに皮膚を引っ掻く。その微小な痛みが、今自分が立っている現実の解像度を上げてくれる。


「……今週末か」


 仁は代替機を握りしめたまま、低く呟いた。

 決戦の日程は向こうから提示された。

 これ以上の猶予はない。

 仁はブラウザを閉じ、暗号化されたメッセージアプリを開いた。

 既に、数日前から動いていた仲間たちとの個別のチャットルームが並んでいる。


 1番上、アリアからのメッセージを開く。


『配信は今週末の21時に決まった』


 仁が短く打ち込むと、数秒で既読がついた。


『了解した。バックドアの固定に必要な時間は8秒。物理ポートが開いた瞬間、システムの中枢を焼く』

『頼む』


 余計な言葉は一切ない。彼女のその冷徹なまでの合理性が、今は何よりも頼もしかった。


 次に、のぞみへのチャットルーム。


『例の配信、週末の21時だ』


 すぐに返信が来る。


『見た見た。アイツ、完全に調子乗ってんね。了解。こっちも当日に向けてきっちり手配しておくわ。乙女も裏垢総動員で限界までハードル上げて煽るってさ。観客は多ければ多いほど、お葬式は盛り上がるからね』


 画面の向こうで電子タバコの煙を吐き出しながら笑う彼女の顔が浮かんだ。


 仁は画面をスワイプし、マイのチャットルームを開いた。


『週末の21時だ。予定通りいけるか』

『ええ。トラフィックが最大になったタイミングで、一斉に送信する。きっちり利子をつけて返してもらうわ』


 そして最後に。

 仁は1番下の、大塚由紀とのチャットルームを開いた。

 昨日、新宿の大型書店に併設されたカフェのカウンターで、仁は彼女に直接接触した。コーヒーカップの陰に隠すようにして、親指の先ほどの黒いUSBドングルを文庫本の下へ静かに滑り込ませた。

 由紀はそれを受け取り、「分かりました」と明確に了承した。翔太の異常性を1番近くで感じている彼女にとって、そのシステムに直接牙を剥く行為は計り知れない恐怖を伴うはずだが、彼女は自らの意思でその恐怖を乗り越える覚悟を決めていた。あの小さな黒いデバイスは、今頃彼女のバッグの奥底で、静かに出番を待っているはずだ。


 仁はキーボードの上に親指を置き、短く入力する。


『今週末の21時。あいつが配信を始める。

 合図はそっちのタイミングに合わせる。終わったら、約束通りお前のデータは必ず消去する』


 送信ボタンを押す。

 すでに合意は取れている。これは最終の意思確認であり、作戦開始の合図だ。

 沈黙が流れる。

 部屋の中では、遊び疲れた2匹の子猫たちが、ネズミのおもちゃを枕にして重なり合うように眠り始めていた。静かな、規則正しい寝息だけが室内に満ちている。


 1分。2分。

 画面を見つめたまま、仁は微動だにせず待ち続けた。

 そして。

 ポン、という短い通知音と共に、画面に『既読』の文字がつく。


『了解しました。合図に合わせてポートに挿します』


 短く、しかし確かな意志を帯びた返信。

 仁はゆっくりと息を吐き出し、代替機の画面を暗転させた。


 仁は立ち上がり、万年床の横に放り投げてあったヨレたグレーのパーカーを手にとった。

 袖を通し、ジッパーを首元まで引き上げる。擦り切れた袖口から手首を出し、ポケットに代替機をねじ込んだ。

 部屋の隅に置かれた子猫用の小さな陶器の皿を確認する。水はまだ十分に残っており、表面に細かい埃も浮いていない。隣に置かれたタッパーの中に、小粒のドライフードがしっかりと密閉されていることを確かめた。


 玄関へ向かい、すり減ったスニーカーに足を入れる。踵を踏み潰さないように人差し指を添え、結び目の緩んでいた靴紐を一度解き、きつく締め直した。

 冷たい鉄扉のドアノブを握る。金属の無機質な感触が、手のひらから全身へと伝わっていく。油の切れた蝶番が、低く軋む音を立てた。

 週末の夜。15万人の視線が集まる、その中心。

 仁はドアノブをゆっくりと回し、淀んだ四畳半の空気から、冷たく乾いた外の世界へと力強く足を踏み出した。

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