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第31話 マイの包囲網

 時刻は午後11時を回っていた。

 シャッターが半分下ろされたベトナム料理店「サイゴン・ブリーズ」の店内には、八角とコリアンダー、そして熱せられたピーナッツ油の匂いが重く滞留していた。


 客席の椅子はすべてテーブルの上に裏返して置かれている。1番奥のボックス席だけが、天井の薄暗いペンダントライトに照らされていた。

 エプロンを外し、細身の黒いパンツスーツ姿になったマイが、テーブルの中央に分厚いクリアファイルを3つ、音を立てて置いた。


「これが、佐々木翔太がオンラインサロンで吸い上げた金の終着点よ」


 マイの通る声が、静まり返った店内に響いた。

 仁とのぞみは、テーブルに広げられた書類を覗き込んだ。そこには、マーカーで無数の線が引かれた銀行の取引明細のコピーと、見慣れない法人名の登記簿、そしてベトナム語でやり取りされたメッセージアプリのスクリーンショットの束が綴じられていた。


「仮想通貨のウォレットと、海外のFX口座。いくつもダミー会社を噛ませて資金を洗浄してるけど、その末端で泥かぶりをさせられている名義人が誰だか分かる?」


 マイの冷たい視線が、書類の束に向けられる。


「うちのコミュニティから、実習生として日本に来ていた若い子たちよ。過酷な労働と借金で精神的に追い詰められ、逃げるように帰国することになった彼らに、翔太の取り巻きが接触した。帰国のチケット代と引き換えに、彼らの銀行口座とスマホを買い取ったの」


 仁は、プリントアウトされたスクリーンショットに目を落とした。読めない言語の羅列だったが、そこに写っている不鮮明な身分証の画像と、怯えたようなスタンプのやり取りから、追い詰められた人間の生々しい焦燥感が伝わってきた。


「あいつは、システムの裏側で数字をいじっていれば完全に匿名でいられると思い込んでいる。でも、現金を手渡しした人間の記憶までは消せない」


 マイは自分のスマートフォンを操作し、音声ファイルを再生した。ノイズ混じりの、若いベトナム人男性の震える声が流れる。


「昨日から、帰国した彼ら全員の実家に直接連絡を取った。口座を買い取られた際の日時、場所、ブローカーの車のナンバー。すべて証言として録音してあるわ」


 のぞみが短く口笛を吹いた。彼女は感心したように書類の束を指先で弾く。


「エグいね。ネットのログだけじゃなくて、生身の人間の証言まで固めたわけだ。これ、マルサと警察のサイバー犯罪対策課に同時にぶつければ、完全に一発アウトじゃん」

「週末の生配信に合わせて、このデータを然るべき場所に一斉送信するようセットしておく」


 マイは音声ファイルを止め、仁を真っ直ぐに見据えた。彼女の瞳の奥には、同郷の若者たちを食い物にされたことへの、決して温度の上がらない、氷のように冷徹な怒りが沈んでいた。


「あいつが1番いい気分になっている時に、現実の重さを教えてあげるわ」

「……ああ。恩に着る」


 仁は短く答え、手元の書類から顔を上げた。


 翌日。

 薄暗い四畳半のアパートの窓から、休日の生温かい日差しが差し込んでいた。

 仁は万年床の上であぐらをかき、古い代替機の画面を凝視していた。


『今日の午後1時、新宿の大型書店の併設カフェで』


 暗号化されたチャットアプリに届いた、大塚由紀からの短いメッセージ。

 仁は画面をスリープさせ、深く息を吐き出した。


 部屋の隅では、段ボール箱から這い出してきたキジトラのムギと茶トラのキナコが、丸めたスーパーのレシートを巡って無邪気な取っ組み合いをしている。小さな爪がイグサの擦り切れた畳を引っ掻く微かな音が、淀んだ空気をわずかにかき回していた。

 数日前に高級ラウンジへ乗り込み、全財産を注ぎ込んで由紀と接触を果たした。あの時、彼女は最後に連絡先を残し、その後自らの意思で翔太のアジトの内部写真を送ってきた。


 彼女の中で、翔太に対する見切りはすでについているのだろう。だが、物理的に奴のシステムを破壊するための『道具』を直接持ち込ませるとなれば、話は別だ。もし見つかれば、彼女自身がどんな目に遭うか分からない。

 仁はクローゼットを開け、数日前に着た就職活動時代の白いオックスフォードシャツを取り出した。首元のヨレと袖口のシワを濡れタオルで少しでも伸ばしながら、自分が今から向かう交渉の重さを噛み締めていた。


 午後1時過ぎ。

 休日の喧騒に包まれた新宿の書店併設カフェは、参考書を広げる学生や、文庫本を読む老人、小さな声で談笑するカップルがひしめき合っていた。互いが互いに無関心なこの空間は、人目を忍んで密会するには最適だった。


 仁は窓際のカウンター席に座り、紙コップのブラックコーヒーを一口飲んだ。

 チャットで指定された時間は、すでに5分過ぎている。


『次呼ばれるのは、おそらく週末の配信の日』。由紀から送られてきたその情報に合わせるため、今日中に彼女に直接道具を渡しておく必要があった。


 コツ、コツ、と控えめなヒールの音が近づいてくる。

 隣の丸椅子が引かれ、誰かが静かに腰を下ろした。同時に、微かなベビーパウダーの甘さと、無機質な消毒用アルコールの冷たい匂いが鼻先を掠めた。

 顔を向けると、大きめのダッフルコートを着た大塚由紀が、カウンターに文庫本を置きながら前を向いて座っていた。長い赤茶色の髪が、その横顔を半分ほど隠している。


「……遅れてすみません」


 由紀は仁の顔を見ようとせず、ガラス越しの街路樹を見つめたまま、周囲の客には聞こえない低さで呟いた。

 前回ラウンジで対面した時の、あの相手を見下すような虚無感とは少し違う。コートのポケットに突っ込まれた彼女の手は、微かにこわばっているように見えた。


「構わない。周りに妙な奴はいなかったか」

「大丈夫です。念のため、駅のトイレで服を着替えてから来ました」


 由紀はバッグの中から自分のタンブラーを取り出し、両手で包み込むように持った。

 すでに彼女は、翔太への明確な反逆行為に加担している。もしバレればただの「キャスト解雇」では済まない報復が待っていることを、彼女自身が1番よく理解しているはずだった。


 仁は周囲に視線を配り、誰もこちらに注意を払っていないことを確認してから、ジーンズのポケットを探った。

 アリアが徹夜で組み上げた、強制アクセス用の小型USBドングル。親指の先ほどの黒いそれを、カウンターに置かれた由紀の文庫本の下に静かに滑り込ませた。


「これだ」


 仁の短い言葉に、由紀の視線が手元に落ちる。


「週末の配信の最中、翔太のPCの空いているポートにこいつを挿せ。それだけでいい」


 由紀は文庫本をわずかに持ち上げ、その下にある黒いプラスチックの塊を一瞥した。タンブラーを握る彼女の指先に、ぎゅっと力がこもる。


「……配信中なんて。もし、挿すところを見られたら」

「あいつのシステムは、配信が始まれば莫大なトラフィックの処理で画面がいっぱいになるはずだ。カメラとモニターに集中している間なら、死角は必ずある」

「失敗したら、どうなるんですか。あの人のことだから、部屋に隠しカメラくらい仕掛けているかもしれない。それに……」


 由紀は言いよどみ、自分の膝の上で強く手を握りしめた。


「あの人、最近ちょっとおかしいんです。前はもっと、ただ冷たくて機械みたいな人だったのに。最近は、画面の中の数字を見る時の目が、異常にギラギラしてて……何をするか分からない不気味さがあります」


 乙女が言っていた「数字に飢えている」という指摘と重なる。翔太の精神状態もまた、15万人という巨大な虚像の重みに耐えきれず、限界を迎えつつあるのだ。


「その時は、俺たちが物理的にあのドアをこじ開ける」


 仁は紙コップを置き、由紀の横顔に低い声を落とした。


「あいつの裏金ルートは全部割った。配信の裏で、マルサと警察にすべての証拠が回る手筈になってる。どのみち、あいつの城は週末で終わる」


 由紀の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。


「お前がこれを挿せば、待機しているエンジニアがシステムの中枢を完全に掌握できる。そうすれば約束通り、あいつのサーバーからお前の画像データや個人情報を、跡形もなく消去してやる」


 由紀は唇をきつく結んだまま、長い沈黙に落ちた。

 カフェのBGMのジャズと、コーヒー豆を挽くグラインダーの音が、二人の間の空間を埋める。

 自発的に情報を流したとはいえ、いざ直接手を下すとなれば強烈な恐怖が伴うのは当然だ。彼女は自分の時間を切り売りし、冷めた目で大人たちを観察して生き抜いてきた。翔太という男が、自分の保身のためなら平気で他人を切り捨てる人間だということも、肌で感じ取っているはずだ。

 自分の身を守るためには、自らの手でその泥舟の底に穴を開けなければならない。


「……私の顔が写っているデータ、本当に全部消せるんですね」


 由紀が、ようやく顔を上げて仁を見た。憂いを帯びた冷たい瞳の奥で、決して他人を信用しない彼女の強烈な生存本能が、仁の言葉の真偽を測ろうと鋭く光っていた。


「消す。あいつがお前を切り捨てて身代わりにする前に、お前の痕跡をシステムから消し去る」


 仁の目には、一切の揺らぎがなかった。


「俺は、俺の顔と人生を取り戻す。あいつの嘘で塗り固められたフェイクを、全部ぶち壊す。そのために必要な手順だ」


 由紀は数秒間、仁の顔の傷跡と、疲労で沈んだ瞳をじっと見つめ返していた。やがて、彼女は小さく息を吐き出すと、文庫本ごと黒いUSBドングルを掴み、ダッフルコートのポケットへと素早く滑り込ませた。


「……分かりました」


 声の震えは消えていた。代わりに、冷え切った決意だけが残っている。


「今週末の夜。合図はそっちのタイミングに合わせます」

「頼む」


 由紀は立ち上がり、バッグを肩にかけた。


「……この間払ってもらった2時間分の指名料、まだ時間が残ってますよね」


 彼女は微かに、本当に微かに、自嘲するような冷たい笑みを浮かべた。


「追加のオプション代、これくらいで手を打っておきます」


 由紀はそれだけ言うと、振り返ることなくカフェの出口へと向かっていった。ダッフルコートの裾が揺れ、人波の中に彼女の姿がすぐに紛れて消えていく。


 仁は残された冷たいコーヒーを静かに飲み干し、空になった紙コップをゴミ箱に落とした。

 これで、すべての配置は完了した。

 週末。あの男が15万人の前で最も高い場所に登ったその瞬間、俺はこのどん底の現実から、あいつの足元を完全にすくい上げる。

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