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第30話 経済の首魁、登場

 午前7時。薄汚れたアルミサッシの隙間から、冷たく乾いた風が吹き込んでくる。

 仁は万年床の上で、鈍く痛む頭を押さえて身を起こした。薄い掛け布団を退けると、スウェット越しの肌に室内の冷気が直接触れ、思わず身震いする。


 昨夜、のぞみ経由で俺の古い代替機に送られてきた翔太のあの濁った笑い声が、こびりついた油汚れのように脳の裏側にべっとりと張り付いている。俺が底辺で這いつくばる姿を監視し、それを養分にして優越感に浸るためのシステム。あいつが莫大な金をかけて構築したあの城は、ただ俺1人を見下すために用意された、悪趣味極まりない展望台だった。


 腹の奥に、重く冷たい鉛のような感覚が沈澱している。ただ、それを溶かすための熱だけが、体内の奥深くで静かに、規則的に脈を打っていた。


 視線を落とすと、部屋の隅の擦り切れたイグサの上で、2匹の子猫が奇妙な形で眠りこけていた。

 キジトラのムギが、なぜか完全に仰向けの状態で大の字になり、無防備な柔らかい腹を天井に向けている。そして、そのムギの腹の上に、茶トラのキナコがうつ伏せでぴったりと乗り上げ、両前足でムギの首元を抱え込むようにして重なっていた。

 綺麗に上下が重なった2つの毛玉は、まるで1つの生き物のように規則正しく、同じリズムで小さな寝息を立てている。どちらかが動けばすぐに崩れてしまうような不格好なバランスだが、互いの体温を直接分け合わなければ生きられない生き物の、切実で無防備な姿だった。泥水の中から拾い上げてきた命が、今こうして俺の四畳半で確かな体温を保っている。


 仁はその小さな命の重なりを数秒だけ無言で見下ろし、音を立てずに立ち上がった。

 小皿にドライフードを補充し、新しい水を入れ替える。カリカリという音が響くのを背中に聞きながら、古びたユニットバスのドアを開けた。水垢のついた洗面台の蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗う。手ぬぐいで乱暴に水分を拭き取ったところで、ちゃぶ台の上の古い代替機が短く振動した。


 画面には、のぞみからのメッセージが表示されていた。


『柴崎駅の西口。線路沿いのアジアンバル。裏口から入れ。あんたの役に立つ「弾」を持ってる奴を紹介する』


 指定された柴崎駅の西口は、夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 午前8時半。通勤客が足早に通り過ぎる駅前のロータリーを少し外れると、シャッターの閉まった古い飲み屋やスナックが立ち並ぶエリアが広がる。昼間は死んだように沈黙しているこの街は、昨夜の雨の名残か、ひび割れたアスファルトの水たまりにどんよりとした鈍色の空を反射させていた。


 その一角にある、派手な黄色の看板を掲げたベトナム料理店。のぞみの指示通り、建物の裏手にある細い路地へ回り込み、塗装の剥げかけた重い鉄の裏口を開けた。

 強烈な八角とナンプラー、そしてレモングラスの香りが、湿った空気と共に粘膜を直接叩いてくる。換気扇が低く唸る仕込みの熱気で充満した薄暗い厨房を抜けると、まだ照明の半分ほどしか点いていない客席のカウンターで、のぞみが湯気の立つフォーをズルズルと啜っていた。


「遅いじゃん」


 のぞみがレンゲを置きながら口の端を上げる。彼女の足元には、黒いフルフェイスのヘルメットが無造作に転がっていた。


「猫に餌をやってから来た」


 仁が短く返し、ガタつくパイプ椅子を引き寄せて座った。


 その時、厨房の奥から1人の女性が現れた。

 仁は思わず視線を向けた。油とタバコの匂いが染み付いたこの街には場違いなほど、洗練された長身の女だった。艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめ、シンプルな黒のTシャツに機能的なエプロンを身につけているだけだが、背筋の伸びた姿勢と無駄のない歩き方には、確かな意志の強さが滲み出ている。


「あなたが、高田仁さんね」


 落ち着いた、低い声だった。

 彼女の黒い瞳が、仁の顔の傷跡から、ヨレたパーカー、そして荒れた指先へと素早く動き、瞬時に目の前の男がどのような生活圏で生きているのかを値踏みする。


「グエン・ティ・マイ。ここの店長よ。冷えるでしょう、どうぞ」


 マイはそう言って、底に白い練乳が沈んだガラスのコップと、アルミ製の専用フィルターを仁の前に置いた。漆黒のコーヒーの雫が、ゆっくりと白い層の上に落ちていく。


「あんた、ただの店長じゃないな」


 仁がフィルターを外してスプーンで底からかき混ぜながら言うと、マイは薄く笑った。


「この国で私たちが食い物にされずに生き残るには、商売の裏の仕組みを知るしかなかっただけよ」


 仁は濁った泥水のような色になったベトナムコーヒーを一口飲んだ。舌が痺れるような強烈な甘さと、目が覚めるような深い苦味が、寝不足の頭を強制的に覚醒させる。


「で、弾っていうのは何だ」


 仁がのぞみの方を見ると、のぞみは顎でマイをしゃくった。


 マイはエプロンのポケットからタブレットを取り出し、カウンターの上に置いた。


「MINATO――佐々木翔太の、本当の資金源よ」


 画面に表示されたのは、複雑な矢印で構成されたフローチャートと、無数の口座番号の羅列だった。


「彼のフォロワー15万人。その中には、純粋なファンだけじゃなく、彼のあの『成功者の生活』に憧れて、自分もああなりたいと狂信している層が一定数いる。彼はそういう情報弱者を、自分のオンラインサロンへ誘導しているの」


 マイの言葉は淡々としていたが、その声の奥には硬質な怒りが混じっていた。


「月に数万の会費。さらに『確実に資産が増えるAIツール』『自動化ビジネスのノウハウ』という名目で、何十万、何百万という情報商材を売りつける。仮想通貨、FX、アフィリエイト……中身はどれも、ネットの海に転がっているゴミ情報の切り貼りよ。でも、画面の向こう側の絶対的な成功者という見せかけの権威が、焦っている人間から冷静な判断力を奪うの」


 のぞみが電子タバコの煙をゆっくりと吐き出し、短く言った。


「信者の財布からチューチュー吸い上げた金で、あの15万人のハリボテ回してたってわけだ」


「私の弟分も、その1人だった」


 マイが静かに言った。


「日本語に不慣れで、この国で何とか生きていこうと焦っていた。彼らの不安につけ込んで、絶対に儲かるというツールを買うための借金を背負わせた。結局ツールはただのガラクタで、残ったのは膨れ上がった利子と絶望だけ。……絶対に許さない」


 マイはタブレットの画面をスワイプした。


「最初はただの泣き寝入りだった。警察に行っても『投資は自己責任』『同意の上での契約』で片付けられる。だから私は、サロンの決済リンクからダミー会社を全部辿った。同郷のエンジニアにも協力してもらってね」


 画面には、実態のないペーパーカンパニーの登記情報が次々と表示される。


「いくつもの会社を経由しているけど、最終的に彼個人の暗号資産ウォレットに流れ込んでいる形跡を追ったわ。そして、そのウォレットから現実の日本円に換金している口座の持ち主が、『佐々木翔太』だった。年間数億の金が、無申告で動いている」


 仁はテーブルの上で拳を握りしめた。

 翔太は、自分を飾るためのメッキを分厚くするために、画面の向こう側にいる見ず知らずの人間たちの人生すらも、ただの燃料として無自覚に燃やし続けているのだ。

 自らの承認欲求を満たし、俺という1人の人間を見下すという歪んだ目的を達成するためだけに、マイの弟分のような無関係な人間から徹底的に搾取し、使い潰している。


「……警察じゃなく、国税か」


 仁が低い声で尋ねると、マイは深く頷いた。


「ええ。詐欺の立証はグレーでも、巨額の資金洗浄と申告漏れなら、あいつらは必ず動く。すでに匿名のタレコミとして、裏帳簿のデータと金の流れを完全に整理してあるわ。あとは、決定的な引き金を引くだけ」


 マイは静かにタブレットの電源を落とし、顔を上げた。


「彼がSNSで『今週末に重大発表をする』と煽っているのは知ってるわね。恐らく、サロンの超高額な新プランの発表か、大規模な集金イベントよ。そこで、最も多くの人間が見ている生配信の最中に、あなたが彼の顔とシステムを物理的に壊す」


「同時に、私がこのデータを当局とマスコミに一斉送信する」


 マイが言葉を引き継ぎ、カウンターを指先でトンと叩いた。


「彼が他人の人生を吸って築き上げた経済基盤を、根底から焼き払うために」


 仁はガラスのコップの表面に浮いた水滴を指先で拭い、口をつけることなくカウンターの奥へ押しやった。

 店内には、厨房から聞こえてくるスープの煮立つ音だけが低く響いている。のぞみは黙って電子タバコを吸い続け、マイは次の言葉を待つように静かに立っていた。


「週末の夜だ」


 仁の喉の奥から、低く、重い声が漏れた。


「あいつのメッキを、骨の髄まで剥がしてやる」

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