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第29話 翔太の歪んだ動機

 午後2時。郊外のラーメン屋の裏手でアジトを特定し、抜け殻のように重い足を引きずって四畳半のアパートへ帰還した仁は、ガスコンロの前に立ち、古びたヤカンに水道水を注いでいた。

 昨夜からろくに睡眠を取っていない。深夜の物流センターのコンクリート床から這い上がってきた底冷えと、ラーメン屋の排気ダクトから吹き出していたラードの熱気が入り混じり、全身の皮膚に気持ちの悪い薄膜となって張り付いている。眼球の裏側には、砂粒が挟まったような鈍い痛みが絶え間なく続いていた。

 古びたツマミをひねって火を点けると、青い炎がボッと音を立ててヤカンの底を舐め始めた。換気扇の油まみれのプロペラが、重苦しいモーター音を立てて回り出す。

 ぼんやりと炎の揺らぎを見つめながら、仁は小さく息を吐いた。

 ようやく、見えない敵の物理的な居場所を突き止めた。ネットの海に隠れて俺の人生を貪っていた化け物は、あのニンニクの匂いが漂い、電車の騒音が響く部屋の中に確実に存在している。

 その事実がもたらす安堵と、これから起こす行動への極度の緊張が、疲労困憊の肉体の中でせめぎ合っていた。


 ガシャァァァンッ!!


 背後から、空気を直接切り裂くような凄まじい破壊音が室内に響き渡った。

 仁は弾かれたように振り返り、無意識のうちに両腕で顔を庇う防御の姿勢をとっていた。心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉が一瞬で硬直する。翔太の手先が物理的な襲撃を仕掛けてきたのか、あるいは部屋に仕掛けられていた何かがショートでもしたのか。

 だが、油臭い空気が漂う四畳半に広がっていたのは、ただのひどく日常的で、マヌケな惨状だった。

 部屋の隅に積んであった、冬物の入った半透明のプラスチック衣装ケース。その上に重ねて置いていた古い雑誌の山が、見事に雪崩を起こして崩落していた。

 舞い上がる埃の中、散乱した雑誌の隙間から、キジトラの子猫、ムギが「ミャッ」と短く鳴きながら顔を出した。

 どうやら、衣装ケースの1番上に登ろうとして下から勢いよくジャンプしたものの、プラスチックのツルツルとした表面で爪が滑り、そのまま雑誌の山を巻き込んで落下したらしい。

 仁が呆然と防御姿勢のまま立ち尽くす中、当のムギは倒れた衣装ケースの上にピョンと身軽に飛び乗り、全く悪びれる様子もなく、短い後ろ足で首の裏をカリカリと掻き始めた。自分が引き起こした大事故に対して、反省も動揺も一切見られない。

 さらに仁を脱力させたのは、もう1匹の反応だった。

 崩落現場からわずか数十センチしか離れていない座布団の上。茶トラのキナコは、真横で凄まじい轟音と振動が起きたというのに、丸まった姿勢をピクリとも崩していなかった。薄く目を開け、面倒くさそうにムギを1度だけチラリと見たかと思うと、すぐに再び目を閉じ、スースーと規則的な寝息を立て始めた。


「……お前ら、図太すぎだろ」


 仁の口から、深い疲労と安堵の入り混じった溜め息が漏れた。

 ヤカンからピーッという間抜けな沸騰音が鳴り始める。火を止め、インスタントコーヒーの粉を入れた欠けたマグカップに熱湯を注いだ。

 どんなに見えない監視に怯えていようと、目の前のこいつらはただ腹を空かせ、遊び、勝手に転がっている。その圧倒的に図太いマイペースさが、張り詰めていた肩の力をわずかに抜いてくれた。


 ちゃぶ台の前に座り込み、熱いコーヒーを一口すすった直後。

 スウェットのポケットの中で、ひび割れた古い代替機が短く振動した。

 画面をタップすると、情報屋ののぞみからのメッセージだった。


『ラーメン屋の裏で別れた後、あのレンタル彼女をもう1度突っついた。どうも引っかかることがあったからね』


 メッセージの下には、1つの音声ファイルが添付されていた。


『あんた、佐々木翔太から、相当歪んだ感情を向けられてるよ。聞いてみな』


 仁はコーヒーカップを置き、再生ボタンをタップした。

 スマホの安っぽいスピーカーから、カフェのBGMと食器が触れ合う微かな環境音、そして、のぞみの低い声が流れ出す。


『……で? あんた、あいつのアジトに何度も呼ばれてるなら、あいつが部屋で何をしてたか、見てるはずだろ』


 数秒の沈黙の後、大塚由紀の、冷え切った諦観を帯びた声が続いた。


『……見てたも何も、隠す素振りすらありませんでしたよ。彼、作業中はいつもモニターに向かって1人で喋ってるんです。すごく……気持ちの悪い笑い方をしながら』

『何を言ってた』

『「今日も底辺だな」「カップ麺かよ、惨めだな」って。……高田さんのことですよね?』


 仁の眉がピクリと動いた。


『彼、防音室の壁一面に並べたモニターで、ずっと高田さんを監視してるんです。あなたが深夜の倉庫で働いてる様子を見ながら、自分は高いワインを飲んでゲラゲラ笑ってる』


 由紀の声には、一切の感情がこもっていなかった。ただ、自分が見た異常な光景の事実だけを淡々と描写していく。


『最初は、ただ精巧なフェイクを作って「いいね」が欲しいだけだと思ってました。でも、違うんです。彼が1番興奮しているのは、15万人のフォロワーからチヤホヤされることじゃない』

『じゃあ、何なんだよ』とのぞみが促す。

『高田さんを、見下して、嘲笑っているっていう事実です』


 由紀の言葉が、淀んだ四畳半の空気に重く沈み込んだ。


『「高校の時は誰よりも輝いて、俺なんか見向きもしなかったくせに。今は俺の足元で這いつくばってる」……そう言って、画面の中のあなたを見ながら、すごく楽しそうに笑ってました』


 音声が、そこでプツリと切れた。

 仁は代替機をちゃぶ台の上に置き、冷めかけたコーヒーを無言で胃に流し込んだ。黒く濁った液体の苦味が、食道を焼くように落ちていく。

 胃の底から、言葉にならないどす黒い熱がせり上がってくるのを感じた。

 高校時代。グラウンドで泥まみれになりながらボールを追いかけていた俺。常にチームメイトに囲まれ、笑っていた俺。

 そして、その後ろの金網の向こう側で、いつも最新のカメラを弄りながら、俺たちをレンズ越しにじっと見ていた佐々木翔太の、あの薄暗い瞳。

 あいつは、ただネット上でチヤホヤされるための便利な顔のパーツをランダムに探していたわけではない。

 明確に、俺を選んだのだ。

 かつて自分より上のステージにいた人間が、社会の底辺に落ちぶれ、安アパートで惨めにすり減っている。その事実を自分だけが安全な密室から監視し、嘲笑い、あまつさえその肉体を都合よく加工して、自分の虚像の被り物として利用する。

 フォロワーからの称賛など、あいつにとってはただの副産物に過ぎない。

 俺の惨めな生活を指先で弄り回し、自分の下敷きにして優越感に浸る。それこそが、翔太が俺の端末にハッキングを仕掛けた本当の理由だった。


「……笑わせる」


 仁の口から、低く掠れた声が漏れた。

 怒りで怒鳴り散らす気にもなれなかった。得体の知れない巨大なサイバー攻撃への恐怖が、完全に地に落ちたのを感じた。

 顔の見えない全能のストーカーの正体は、過去のコンプレックスに縛り付けられたまま、自室に引きこもって他人の惨めな姿を覗き見し、1人で笑っているだけの、ひどく滑稽な男だ。

 あいつは、俺をただの無力な虫けらだと見下しきっている。

 俺がハッキングに何も気づかず、反撃する知恵も気力もない底辺の労働者だと思い込んでいるからこそ、あんな隙だらけの虚像に酔いしれることができる。


 仁は立ち上がり、ユニットバスの洗面台へ向かった。

 蛇口をひねり、冷たい水ですすいだ両手で何度も顔を洗う。タオルを顔に押し当ててしっかりと水分を吸い取り、顔を上げて鏡を見た。

 ひどく疲労した、無精髭の男の顔。

 だが、その目にはもう、自分の惨めな現状への自己嫌悪も、見えない監視に怯えていた時の暗い影もなかった。ただ、明確な標的を前にした静かな闘志だけが宿っている。

 あいつは週末の夜、15万人に向けて重大な発表の生配信をすると宣言した。

 俺の顔のパーツを被り、俺の人生の残骸を加工して作ったあの完璧なハリボテで、自己顕示欲の頂点に立とうとしている。

 ならば。

 その最高の舞台のど真ん中で、あの分厚い防音扉を物理的に蹴り破ってやる。

 ネットの海に隠れて俺の人生を弄っていた男の、怯えて震える素顔を直接引きずり出してやる。


 仁は洗面台から戻ると、ムギとキナコが丸くなっている座布団の横を通り過ぎ、押し入れの襖を開けた。

 奥に積まれた段ボール箱を退かし、1番奥にしまってあるビニールカバーのかかった数年前のスーツと、ホコリを被った革靴を引っ張り出す。

 指先で生地の感触を確かめ、革靴の汚れを親指で静かに拭い去った。

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