第28話 物理的なアジト特定
ひび割れた古い代替機の画面をタップすると、淀んだ四畳半 の空気に不釣り合いな、眩いほどの色彩が液晶から溢れ出した。
表示されたのは、MINATOのアカウントにたった今アップされた新しい投稿だ。 間接照明に照らされた重厚なローテーブル。その上に、銀行の帯で束ねられた分厚い1万円札の束が無造作に積み上げられている。背景には、都心の夜景らしきぼやけた光の粒が、高価なレンズ特有の美しい玉ボケとなって散らばっていた。 そして、その写真に添えられた短いテキスト。
『今週末の夜、フォロワーの皆に重大な発表をする。これからのMINATOの新しいステージを、生配信で見届けてほしい』
仁はゆっくりと息を吐き出し、部屋の隅へ視線を移した。 縁の欠けたちゃぶ台の脇には、仁が数時間前にスーパーの特売チラシを何枚も重ね合わせ、四角く折りたたんでからガムテープでぐるぐる巻きにして作った、ただの長方形の紙のブロックが転がっている。 先ほどまで、仁はこの紙のブロックを親指で何度も弾いていた。パラララ、という乾いた摩擦音をマイクに拾わせるために。俺が手慰みに作った、ガムテープが痛々しい紙ゴミの塊。それが画面越しには、15万人もの羨望を啜る『成功者の大金』へと鮮やかに変貌を遂げ、無機質な数字が液晶の上で狂ったように跳ね上がっていた。 仁はそれ以上数字の増殖を追うのをやめ、端末を裏返して擦り切れた畳の上に置いた。
部屋の隅に置かれた段ボール箱から、カサカサという微かな音が聞こえた。 視線を向けると、茶トラの子猫のキナコが、箱の縁に短い前足をかけて外の世界へ出ようと奮闘しているところだった。しかし、まだ爪の使い方がうまくわかっていないらしく、段ボールの表面をズルズルと滑り落ちては、不満そうに「ミィ」と細い声で鳴いている。 その様子を箱の底からじっと観察していたキジトラのムギが、不意にキナコの揺れる尻尾を獲物と勘違いしたのか、背後から思い切り飛びついた。 突然の奇襲に驚いたキナコはバランスを崩し、2匹の小さな毛玉は短い手足を絡ませながら、箱の底で転げ回ってじゃれ合いを始めた。ムギがキナコの耳を甘噛みし、キナコがムギの鼻先を柔らかい肉球でポカポカと叩き返す。 仁はあぐらをかいたまま手を伸ばし、転げ回る2匹の小さな背中を指の腹でそっと撫でた。 細く柔らかい産毛の感触。指先に直接伝わってくる、ドクドクという早いリズムの心臓の鼓動と、じんわりと手のひらを温める高い体温。 数時間おきに不器用な手つきでミルクを与え、排泄の世話をして、ようやくここまで動けるようになった小さな命。どんなに高度なシステムがネット上に完璧な虚像を作り上げようとも、この生きた命の質量と体温を合成することは絶対にできない。 社会の底辺で自分自身の輪郭を見失いかけていた仁の腹の奥底に、その微かな温もりが確かな杭を打ち込んでくれるようだった。
ブブッ。
畳に置いた代替機が、短く振動した。 画面には、のぞみからのメッセージアプリの通知。
『柴崎駅の南口。裏が取れた。来な』
休日の昼下がり、まばらな乗客を乗せた京王線の各駅停車の電車に揺られながら、仁は窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。無精髭を削り落とし、傷跡もそのままになっている自分の顔。 窓の外には、新宿の華やかな高層ビル群が少しずつ遠ざかり、代わりに単調な住宅街と古びた雑居ビルが交互に流れていく。華やかな港区の夜景や高級ラウンジとは無縁の、煤けた現実の風景がどこまでも続いていた。
約1時間後。 駅の改札を抜け、南口のロータリーから少し外れた路地に入ると、大型トラックが頻繁に行き交う国道の騒音が空気を震わせていた。 古びたコインパーキングの片隅で、黒いバイクに寄りかかっていたのぞみが、仁の姿を認めて軽く手を挙げた。彼女は手の中の空になった缶コーヒーを、少し離れた自動販売機横のゴミ箱へと正確に放り投げる。カコン、という軽い音が響いた。
「遅い。あんたの足の短さ、計算に入れてなかったわ」
のぞみは着ていたレザージャケットのポケットに両手を突っ込み、口の端を歪めて笑った。徹夜明けなのか、その瞳はひどく充血している。彼女の足元のコンバットブーツには、黒い泥と得体の知れない油汚れがべっとりとこびりついていた。
「……由紀の情報の通りだったのか」
「ああ」
のぞみはパーキングを出て、国道沿いの歩道を歩き出しながら口を開いた。仁もそれに並んで歩く。
「由紀が断片的に覚えていた『柴崎駅のロータリー』を起点にして、彼女の意識の底に沈んでいた環境情報とのすり合わせだよ」
「じゃあ、どうやって場所を絞り込んだ」
「あんたの同僚が出したエリア情報と、由紀の記憶に残ってた環境情報だよ」
国道沿いから細い路地に入ると、途端に空気が淀んだ。古びたシャッターの閉まった商店が並び、アスファルトには無数のヒビが入っている。 5分ほど歩くと、ロードサイドの大型ラーメンチェーン店の裏手に差し掛かった。途端に、強烈な豚骨とラードが煮詰まったような、胃がもたれるほどの匂いが鼻をついた。店の裏口からは業務用の巨大な排気ダクトが伸びており、そこから絶えず白く濁った排気が吐き出されている。周囲のコンクリートブロックには、長年の排気で油の結晶が黒く固まっていた。
「由紀は覚えてた。換気扇のわずかな隙間から時々入ってくる、強烈なラードとニンニクの匂い。それと、5分おきに壁を伝ってくる、地響きみたいな低い重低音。会話が途切れるくらい、部屋全体がビリビリ震えるんだとさ」
「……」
「柴崎駅の周辺で、深夜までやってる豚骨ラーメン屋のダクトと、貨物線の鉄橋が交差するポイント。昨日からずっと泥水すすって探し回って、ようやくここに行き着いた」
のぞみは立ち止まり、ラーメン屋の排気ダクトのすぐ先を顎でしゃくった。 そこには、錆びた鉄の外階段が不気味に傾いた、モルタル外壁の2階建てアパートがあった。 築40年は下らないであろう外観。壁の塗装はあちこち剥がれ落ち、ひび割れた隙間から黒いカビが這い上がっている。1階の部屋の窓にはベニヤ板やトタンが打ち付けられ、周囲には不法投棄されたような壊れた自転車や粗大ゴミが散乱しており、生活感は皆無だ。 そして建物のすぐ背後には、赤茶けた鉄橋の太い橋脚が迫っている。
「あれの2階の角部屋。電気メーターの異常な回り方と、深夜まで稼働してるPCの冷却ファンの音で確定だ」
のぞみが示した部屋。その窓ガラスには、内側から隙間なく銀色の防音シートが貼り付けられ、光を完全に遮断していた。 ちょうどその時、背後の鉄橋を長大な貨物列車が通過した。 ゴゴゴゴゴ、という腹の底に響くような重低音と激しい地響きが、周囲の空気を震わせた。アパートの古い窓枠がガタガタと悲鳴のような音を立てる。列車が通り過ぎるまでの数十秒間、会話は完全に不可能だった。
仁はボロアパートの角部屋を見上げたまま、動けなかった。 家賃は3万円台か、あるいはそれ以下かもしれない。俺が住んでいるアパートと何一つ変わらない。いや、トラックが頻繁に行き交う国道の騒音と、排気ダクトから容赦なく吹き付ける油の匂い、そして貨物列車の地響きを考えれば、環境は俺の部屋よりもはるかに劣悪だ。
「……由紀が次にここに呼ばれるのは、いつだ」
低い声で尋ねる仁に、のぞみは冷めた目でアパートの窓を見据えたまま答えた。
「明日の夜。例の生配信のタイミングだ。最高の小道具として、隣に座らせる気だろうね。あんたが手配させてる物理ハッキング用のUSB、あの子に渡す手筈は整ってる」
「分かった」
仁はアパートから目を離し、頭上を覆う重い曇り空を見上げた。 澱んでいた瞳の奥に、獲物の喉元へ食らいつくための静かで冷酷な闘志が確かな光を帯びて点灯している。相手の居場所も、手口も、全て暴いた。あとは、その偽りの城を内側から崩壊させるだけだ。
「明日の夜、直接こじ開ける」
のぞみは小さく鼻で笑い、無言でバイクの停めてある方向へと踵を返した。




